一本道
ぺしゃ、と顔に白い物が被せられて、我に返った。
何かの布だと気付いて、それから、コレでビールを拭けってことかと思い至った。
「……大将、これ、台布巾じゃないですか」
注文を取るときですら頷く程度の、後は黙々と料理をならべるばかりのこの店の大将が、一応は気遣ってくれたらしい。
「雑巾じゃないだけ上等だ」
ひょっとして初めて会話したかもしれない。記念すべき初会話がこれか。渋い声で言われるにはあんまりな内容だ。
「そ、ですね。……雑巾でも文句言えないですね……」
台布巾を握ってシミジミと肩を落とした。
咄嗟にビールをぶちまけて、でもその一瞬、緒峯は自分こそがびっくりしたような顔をした。そして、硬く引き結んだ口元。
あんな顔をさせたのは自分だ。
違うんだ。言いたいのは、もっと別のことのはずなのに。
「分かってんならさっさと行け」
……っ!
立ち上がって、慌てて財布を探っていると。シッシと犬を追い払うかのように手を振られた。
「ツケとく」
大将、どうしたんだ。一生分話したんじゃないか。
「ありがとうございます! 次は必ず!!」
言い終わるのと店を飛び出すのとどっちが早いか。兎に角、走った。
一度大通りに出たが、タクシーは見当たらない。
緒峯は、もう車を拾ったか。
どうせワンメーターの距離だ、と、最短の道のりを、走った。
ネクタイと上着が窮屈で、赤信号で足止めされたうちに、ネクタイを外して上着を脱いで丸めた。
ビールで張り付く髪が邪魔で、気付けば握り締めたままだった台布巾で雑に拭いた。
必死に、走った。
途中からは、赤信号でも車がいなければ突っ切った。
これほど必死に走るなんて、久しぶりだ。
もう少し。
あと角二つ曲がれば。
もう直ぐ。
緒峯のアパートが見えた。二階の角部屋。部屋の電気は点いていない。
階段を駆け上がって、インターホンを押した。
「緒峯! いるか!?」
返事はない。
まだ帰っていないのか。
立ち止まった途端に、汗が噴出した。
冷や汗も半分だ。
もしかして、家に帰らずどこか別の場所に行った? それともまさか無視されてる?
「緒峯! 緒峯いないのか!?!」
近所迷惑も考えず、ドアを叩いた。
「いるわよ」
ぼそり、と、後ろから声が聞こえて、見ると緒峯が外階段を上がってくるところだった。走り去る車の音。なんだ、いつの間にか追い越していたのか。
「こんな時間にうるさくしないでよ。苦情がきたらどうすんの」
「すまん、間違えたんだ! 違うんだ! お前の話じゃなくて!」
憮然と迷惑そうに言われて、騒いだことを謝るべきと分かっていたけれど、滑り出た謝罪は、その事に関してではなく。
「お前だけの話じゃなくて! お前と俺が! 俺たちが! どうなんだ、ってことを、言いたくて!」
必死に言いきった。
「俺とお前の話をしたいんだ!」
言って、緒峯の顔を見ると。
さっきの思わずといった様子でビールをかけた時と同じく。
口を真一文字に引き結んで、言いたいことを飲み込んでいるような顔だった。




