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敏腕編集への道  作者: むかしむかしあるところでね
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横道




「大した量じゃありません。直ぐです」


 呉羽先生の威圧的な物言いに、イラストレーターは臆した様子で原稿に手を伸ばした。


 普段は穏やかな口調の先生が、初対面の相手にすら投げやりな態度だったことに驚いて、咄嗟になんのフォローもできなかった。


 まだ若いイラストレーターは、言われたとおりに原稿を読み始めたものの、眉を顰めている。


 悪い先入観で作品を読んで欲しくないと思ったが、もう手遅れだった。


 難しい顔をしてゆっくり読み進む様子に多少の申し訳なさを感じつつ、せめて3人分のコーヒーをテーブルに供した。





 作家としての『呉羽隆生』は、真摯にストイックに作品を生み出す秀才肌で、紡がれるストーリーは、時に深く、時に優しく、人間の心理を探る。


 世に『呉羽隆生』の名を広めたのは三作目、とある文学賞を受賞して一躍脚光を浴びたが、自分は最初から『呉羽隆生』を知っていた。


 本として最初に出版されたよりも前の、雑誌に単発で載った小作。原稿用紙にして百枚程度だろう短編が、『呉羽隆生』との最初の出会いだった。


 犬の散歩をする老人の話。公園で繰り広げられる何気ない日常。それだけの話だ。


 なのに、気付けば繰り返し繰り返し読んでいた。初読の印象は、正直覚えていない。それでも不意に流麗な文章が思い出され、読み返したくなる。読めば読むほど新たな発見がある。違うものの見方に気付かされる。そんな話だった。


 その頃の自分は、念願の出版社に就職できたは良いが、希望の文芸編集とはまるで違う営業に配属され、腐っていた。


 目の前のことを大切に着実にこなすことを、教えられた。



『呉羽隆生』はその後も、言っては何だが地味に作品を発表していた。出版された一作目、二作目は、静かに深く人間を描くもので、誰しもが経験する不条理と矛盾がテーマだった。禅問答にも似た問いかけの文章。読む者の心の内に答があるのだと、その解答は人それぞれだとただ肯定する潔さが、胸に突き刺さった。


 しばらくして念願かなって文芸に配置換えになった。『呉羽隆生』は他社でしか作品を発表していなかったけれど、できるなら『呉羽隆生』の作品に携わりたいと強く願った。


 漸う出た『呉羽隆生』の三作目は、今までとはガラリと変わったスケールの大きさで、しかし人間を冷徹に見詰める筆致はそのまま、極限の深層心理までも抉り出していた。


 この作家に何があったのかと衝撃を受けた。


 その三作目が、その年、賞の候補に挙がり、そして選ばれた。


 人間としての呉羽隆生を見たのは、その授賞式の時だ。


 フラッシュを浴びて静かに微笑む青年が『呉羽隆生』と、俄かに信じがたい。それくらい作品でのイメージと本人の容姿がかけ離れていた。


 著者紹介で、年齢はまだ若いと知っていた。だが思い描く文学青年のイメージとは、まるで180°ちがう。


 洒落たスーツをスマートに着こなしたモデルのような端正な青年だった。受け答えにも立ち居振る舞いにも品があり、年齢以上に落ち着いた雰囲気で。


 勝手ながら、地味で大人しい人物像を思い描いていた自分は、一度興ざめしたのだ。『呉羽隆生』に裏切られた気分だった。


 それでも『呉羽隆生』の本が出たら必ず読んでいたし、雑誌も必ずチェックした。


 生きた人間の心を表現することでは、当代随一の作家だと評価していた。


 文芸での仕事にも多少慣れたころ、編集部内の飲み会で作家の話になったときに、酔っ払ったあげくに『呉羽隆生』について熱く語った、らしい。酒に飲まれていたので覚えていない。


 が、その翌日、編集長がそんなに好きなら当たってみろ、と一つの連絡先をくれた。


 そこからは、自分でも可笑しくなるくらい必死だった。女性を口説くときにもここまではという熱意で猛アタックした。


 編集の立場で接してみれば、呉羽隆生は厳格で真摯で、作品どおりの人物だった。外見に惑わされた自分を恥じた。


 初めて担当した『呉羽隆生』の作品は、穏やかな日常を優しくつづった小作で、何度も何度も繰り返し読んだ犬の散歩をする老人の話を髣髴とさせた。





 イラストレーターは、どうやら文字を読むのが遅いらしい。目線が何度も同じところを行ったり来たりして、その分文章を味わって読んでいるように見受けられた。


 最初はしかめ面で読んでいたが、徐々に物語りに引き込まれていく様子が如実だった。


 その手の内の原稿を窺わずとも、クルクル変わる喜怒哀楽の表情で、物語のどのシーンまで読み進んだのかわかる。


 まだ3分の1程度、この調子なら読み終えるのに一時間以上かかるだろうと軽食を用意して戻ったとき、気付いた。


 先生の空気が、柔らかくなっている。


 先生は、主人公と同じ表情になって物語に没頭しているイラストレーターを、じっと見詰めていた。



 唐突に理解した。


 自分は、編集という立場で原稿を読んでいた。ただの一読者として物語に没頭できる立場ではなくなっていた。


 評論だの批評だの評価だのそんなものではない、ただ、綴る想いが誰かの心に響くかどうか。


 作家が物語を綴る、原点ではないだろうか。


 今、目の前の一人にはこの物語が確かに届いた。そのことが今の先生にとってどれほど重要か。気付かなかった自分を内心罵倒して、百面相するイラストレーターにこっそり感謝した。




 平素、充分すぎるほど礼節をわきまえている先生が、最初投げやりな態度だったのには理由がある。


 先生は、受賞以降、爆発的に売れはしないものの、順調に良い作品を世に送り出し、出版不況にあって売れっ子作家と呼ばれるまでになった。


 それでも先生はストイックに、独自の世界を深めていた。


 そんな折、先生の本に映画化の話が持ち上がったらしい。他社のことで詳細は分からなかったが、その大手出版社の過去の映像化作品などを見るに、いかにも商業ベース、派手な宣伝キャンペーン重視で、肝心の中身は原作ファンからすると噴飯物の出来も多い。もちろん良いものもあるのだから一概には言えないが、やはりその話を聞いたときには危惧が先に立った。


 結果的に、悪い予感が当たってしまった。


 事の顛末は、腹が立つので詳細には説明しない。だが、この一件で、先生が業界全体に不信感を持ってしまったことは致し方ない。


 その後先生が、他社を含めて、新規の仕事は請けず継続中の連載だけに絞って、しかもそれが終わると新たな連載は断っていると聞いて、焦った。


 もしかしたら、このまま筆を折ってしまうのではないか。


 いや、書くだけなら、別に出版業界にこだわる必要はない。むしろビジネスの都合上制約が多い。


 もし先生が業界に倦んでしまったのだとしたら。


 作家『呉羽隆生』が、消えてしまうのではないか。


 その可能性に恐怖して、ない知恵を絞って、どうにかして先生を引き止めたいと思った。


 編集長や同僚にも相談して、苦し紛れに出した企画が、名前を伏せて別ジャンルのライトノベル。


 全く乗り気でなかった先生に、拝み倒すようにして一年間の猶予をもぎ取った。





 グズ、と鼻をすすって、ぺらりと原稿を捲る。イラストレーターは、妙齢の女性にはあるまじき顔で泣くのを堪えている様だ。終盤の別離のシーンだろうか。


 コレだけ素直な表情を見せる成人女性も滅多にいないだろうと、感心してしまった。引き結んだ口の端が震えている。


 こっそりティッシュの箱を前に置いたが、多分気付いていないだろう。


 横目で先生を見やると、読者の反応を見逃すまいとするように、じっと見詰めていた。


 その口元が僅かに笑んでいて、……先生は、大丈夫かもしれないと思った。



 そうして、イラストレーターが最後の一枚を読み終えた。


 開口一番何を言うのかと、つい身を乗り出してしまったが、彼女は間を置くように、ティッシュで鼻をかんだ。


 ……この年の女性が人前で堂々と鼻をかむのも、そういえば珍しいような。


 ほう、と目を伏せて息をついて、彼女が口を開いた。


「はい。スカートは膝下10cm、了解しました。是非とも色は紺じゃなく黒にしたいと思います。スカーフは緑です。リボン結びじゃなくタイにして。髪の毛はストレートロングを後ろで一つに結わえて前髪はパッツン、眼鏡は黒縁」


 物語の感想は、と身構えていたら、挿絵についての話だった。


「ついでに作中にはないですが、前歯に矯正器具つけていいですか」


 許可を求めながらも、その口調から拒否されるなど思ってもいないのだと分かる。


 先生が、黙って満足げに頷くのを見て、苦し紛れのこの企画が成功するのを確信した。




 後日、上がったイラストを見て、正直舌を巻いた。


 文章を受け取ることに慣れている自分が、無意識にビジュアルというものを軽視していたのだと知った。


 同じようにイラストに魅入っていた先生が、急に原稿を手直しする、と言い出した時には驚いた。


 しかし、添え物に過ぎないと思っていたイラストがこれほどの説得力を持つなら。文章での説明が不要になる。余分な説明をそぎ落とせば、もっとテンポの良い展開になる。


 ごみごみした編集部の隅の空き机で、先生は、むしろ嬉々として完成原稿に線を引いていた。


 ……あの『呉羽隆生』に、完成原稿の手直しをさせた。


 イラストレーターは同期の緒峯の紹介だったが、来歴を詳しく聞いておこう。


 


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