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欠陥製品

 

 五


 「昨夜はお楽しみでしたね」

 舞台俳優のような、無駄に張りのある声で発せられた一言は、冬のすがすがしい空気に満ちた清廉な朝を見事にぶち壊した。反対に、その発言主は満足げな、何かをやり遂げた顔をしている。

 そこには勿論冬香先輩がいた。

「楽しんでなんかいません!」

「あれあれ? その割には大分遅めの御帰宅だったみたいだけど?」

 常人なら三十、四十年は生きないと身に付かないであろう嫌らしい口調で先輩は僕をからかう。いつもの朝だ。登校時に夏輝が合流することは稀である。よって、先輩の茶目っ気はもうだれにも止められない。

「別に、ちょっと二つ隣の町まで行っていただけです」

「成程ね」

「え? なるほどって」

「なかなか頭が回るじゃない。近場だと知人に発見されちゃうかもしれないからね」

 ダメだ。どうあらがったところで、昨日の恋文ネタでいじられる運命がつつがなく決定していた。今は夏輝の自由人ぶりを恨む。

「あまりおイタしちゃダメなんだよ? ノーモア不純異性交遊!」

「ノーモアって、僕は不純異性交遊なんてしたことありませんよ」

 それ以上~しない、という意味のはずだノーモア。こんな表現では、僕が不純異性交遊の快楽を貪る性獣で、もうこれ以上はやらせん! 俺の命に代えても、ここで止めてみせる! って感じじゃないか。

「ほー、てことは秋人ちゃんはアレですか、純潔なんですか」

「そうです。穢れを知らぬ体です」

 そういって朝の清浄な空気に纏われた清きわが胸を張る。力強い太陽の光が額に気持ちいい。

「じゃあ、童貞だ!」

 今度は男のプライドとして軽々しく首肯できない表現が使われた。同じ事象を表すものであるはずなのに、なぜこうも受ける印象が違うのか。言葉というものは不思議だ。知らない内に僕の背骨が曲がり、視線はアスファルトに固定されていた。対して、先輩は「きゃはっ」っと溌剌とした笑い声を上げる。

 凌辱だった。 白昼堂々、辱められた。

 これ以上深い精神ダメージを負う前に逃げなければいけないと脳の前頭前野が指令を下す。まだ使ってもいない剣をへし折られてはかなわないのだ。気付かれぬようストライドはそのままに、僕は足を動かす回転率を上げた。ほとんど走っているような速度までスピードが上がる。もちろん、どんどんと遠く、小さくなっていく先輩の姿。

 俺のケツでも拝んでな! 口の悪いレーサーならそう言語化するであろう、勝利の快哉を胸に感じる。

――が、しかし、

「ま、冗談はともかくとして」

 しれっと、先輩は付いてきた。普通に並走していた。膝が折れる。落胆――先輩からは逃げられない――!

「本当にこれから付き合っていくつもりなの?」

 アスファルトの上に尻もちをつき、女の子のようにへたりこむ僕を助け起こしながら先輩はそう聞いた。さきほどまでとは一転して真剣な面持ちだ。

 それを見て、ああ、そうだったのかと僕は気付く。先輩が本当にしたかったのは、この質問だったんだ。さっきまでの冗談は、先輩なりに空気を和ませようという努力の産物、または気恥ずかしさをごまかすためのものであったのだ。

 僕を…心配してくれている。そう考えると、さっきまでの自分の行動が気恥ずかしくなってくる。先輩の心中を察することができず、凌辱だの、逃げるだのと……。

 僕は真剣な表情に謝罪と誠意を込め、先輩の視線を受ける。

 しかし、『これから先、本当に付き合っていくのか』とは答えづらい質問だ。

 昨日話してみた感じ、玉響さんは悪い人ではない。だけれど、好きか? 愛しているか? と問われれば、それは違うとはっきり言い切れる。

 ならば、付き合うべきではないのだろうか。

 いや、『愛』なんて出会い頭に突如風雲急を告げて落雷のように落ちてくるものじゃない。長い交わりのなかで、徐々に芽吹いてくるものなのではないだろうか。だとしたら付き合うか否かを判じる材料とすべきなのは、相手を将来的に好きになれるかどうかということになる。

 しかし、『相手を将来的に好きになれるかどうか』なんてなにをどういうふうに判断すればいいのか見当もつかない。

 第一、そういう観点から付き合うことを決定した場合、最初は当然のごとく『好きではないけれど付き合っている』という状態になる。これは道義的に正しいのか。

「僕はどうするのが正しいんだろう」

 思考の袋小路に嵌って、僕は思わず答えにはなりえない、単なる思考を漏らしてしまう。けど、これが僕の正直な質問への回答だった。答えに行きつかないということが、答え。言うなれば僕の限界だった。

「私に決めて欲しいの?」

 先輩に言われてハッとなった。そうかもしれない。僕は先輩に決めて欲しがっているのかもしれない。なぜか、それが自然な事のようにも感じる。

 また一方で、それを強く否定する自分もいる。自分が下すべき「決定」を他人に任せたら、それは自分が自分である必要が無いということだ。僕が僕であるために、その選択の自由を無くしてはいけない。

 うん。確かにそうだ。僕は自らの思考に同意する。ならば自分の意思で決定しよう。そう思ったのも束の間、僕の頭ははた、と動かなくなる。

 《決定不能》

 あれ? 自分の意思で決めるって、それはどうやるものだったんだっけ? 今までの十七年間、それを続けてきたはずなのに、僕はそのやり方を知らない。そうできない。

 ……なんで知らない? なぜできない? なぜ、僕は冬香先輩が決定するのが自然だと思ってしまうんだ? 

 ぐちゃぐちゃに撹拌する思考。僕は気分が悪くなった。まるで湯あたりしたように足に力が入らなくなって、再び膝を付く。

 すると、頬に冷たい手が添えられた。冬香先輩の柔らかい掌が僕の頬を撫でてくれる。

「『価値は選ばれたがゆえに、その意味を持つ』何が正しくて、なにがそうでないのかなんて、自分でしか分からないの」

 ひんやりと、気持ちのいい先輩の手。しかし頬に感じる、先輩の冷たい手の感覚は一秒ごとに薄くなり、無くなってゆく。

 それは先輩が消えてゆくようでいて、

 実は僕が消えてゆく感覚。

「いつか、秋人が自分で選べるようになるといいね」

 耳朶に響く優しい声色。先輩はいつも僕をからかうけれど、優しいから、好きだ。しかし、段々とその優しい音も低く硬質になっていくのが悲しい。ドップラー効果。距離が離れていく証拠。もしくは僕の聴覚が力を失っていっているのか。


 感覚が遠ざかっていく感じは、深い穴に落ちていくようだ。大いなる重力に引き裂かれ、意識は塵に帰りながら、どこまでともしれず僕はただ落ちていった。



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