夢の中で
四
これは夢の中。そう、僕は眠っている。玉響さんと隣町まで走ってくたくただったので、アパートに帰るなり布団に直行したのだった。
夢というのは不思議なものだ。夢を見ているうちは、それが夢だと決して気づかない。僕は時たま思う。脳に備蓄された情報だけでこれだけのリアルを再現できるなら、もはや外界の現実など必要ないのではないか……と。
いや、夢の中ではそれが夢だと気づけないのなら、僕達が現実と呼ぶ景色もまた、本当は夢である可能性を拭えない。
これは、荘子の、『胡蝶の夢』という奴だ。
荘子は夢の中で蝶になり、楽しく飛んで遊ぶ。けれど夢から覚めると自分は一人の荘子という人間であって、蝶ではなかったことを知る。しかし、今の人間としての自分も、蝶が見ている夢なのかもしれない……といったお話。真実がどちらとは、誰にも言えない。
ならば……と更に思考を展開しようとしたとき、僕は気づいた。
美しい、天子のような金髪碧眼の少女がこちらを見つめ、微笑んでいる。
いや、これは微笑んでいるんじゃない。
これは……うずうずしていると言った感じだ。何かをしたくて堪らないが、そうしていいのかどうか分からず、欲求をぎりぎりのところで抑えている。
マテの命令を下された犬のような……と表現するのは、彼女に失礼かもしれないけれど。
しかし、彼女は何がしたいのか。
僕の夢の世界は、いつも花畑だ。咲き誇る色とりどりの花を摘みたいのか? と考えるも、そうでないことはすぐに分かった。ここは誰かの管理下にある庭というわけではない。ここにある花はすべて野花だ。取りたいなら、取ればいい。また、彼女の眼はじっと僕を見つめている。それは花を愛でるあどけなさからはかけ離れた、何と言うか、知性の光を宿したような眼。
そう、知性。あどけない少女の姿をしていながら、万巻の書物に通暁した老学者のような、そんな老成の感を、少女から感じる。
僕は、彼女に興味を持った。近寄って、話してみようと決意した、その時――
「私が思うに――」
彼女は、突然僕に向けて語りだした。まるで、僕が彼女と語りたいと思ったことを読み取ったかのようなタイミング。
「ああ、そのとおりですよ。私、貴方の思考を読むことができています」
まさか――僕の心に、強い否定が浮かぶ。
「お疑いになるのも分かりますが、本当です。ここは貴方の心象世界であることをお忘れですか?」
ああ、そういえば……ここは僕の夢の中だったか。夢の中なら、何が起きても不思議じゃないな。
「そう。そういうことにして置いてください。で、ですね……貴方の先ほどの思考の、私なりの考えなのですが」
「先ほどの思考?」
「声に出されなくても、思ってくださるだけで大丈夫ですよ?」
「生憎、そんな器用じゃなくてね」
「そうですか……先ほどの思考とは『胡蝶の夢』の話です」
「そういえば、そんな思考を展開していたんだっけ。夢と現実に区別など付けられない……という話だったけれど、君ならどう考える?」
「私は、夢と現実の区別は明白だと考えます」
「なるほど。その理由ももちろん聞かせてくれるんだよね?」
「はい、もちろん。夢と現実を分かつ決定的な分水嶺は、『それが夢かもしれないと疑えるか否か』という点です」
「それが夢かもしれないと疑えるか否か……か。難しいな」
「例えば、先の『胡蝶の夢』で言えば、蝶になっているときはただ飛ぶ快楽を味わっていただけで、なんらの疑いを抱いていなかった。しかし、人間に戻った途端に荘子は『これも蝶が見ている夢なのかもしれない』と自己の存在に対する疑念を抱くのです。これは、蝶の時には決して生じなかった疑問です。夢と現実が対等で、区別がつかないものであるとするなら、蝶も『自分は人間が見ている夢なのかもしれない』と自己の存在を疑わなければ、成り立ちません」
「……言われてみれば、なるほどって感じかな」
「なるほど……ですか。もっとよく考えてください。自分の存在を疑えると言うこと。それが無限に循環する『これは現実か、否か』という底なしの問いの底になるのです」
「底なしの問いの底って……おかしくない?」
「いいえ、おかしくなんてありませんよ? 底なしと言うものは常に底なのです。底ということはそれ以上下がないということなのですから」
「あぐぁ……君と話していると、頭がねじ切れそうだよ。一体僕の中のどこにそんな知識が入っていたんだ?」
「貴方の中……? それは、どうしてですか?」
「だって、ここは僕の夢だ。僕の脳が溜め込んだ情報を元に再現されている幻想だ。だから君も、僕が作り出したものであるのに、創造主を超えた知能を持っているから疑問なのさ」
「ふふ……もう一度今の話を考え直してみるといいかもしれませんよ」
もう一度……今の話を。僕は言われたとおりに考え始める。最初から……この夢を辿りなおす。すると……。
「これは……どういうことなんだ」
僕は今、夢を見ている。そういう自覚がある。しかし、夢の中でそんな自覚をもってはいけないのだ。
僕は今、自分の存在を疑えている。
これは、蝶が自分の存在を疑えている状態だ。夢の中の存在なのに、自分が夢見られている幻の存在だと疑えてしまえる。さっきの話……『疑える』と言う事態が存在の確証であるとするなら、今の僕は、夢の中の存在であるのに確かに存在していると言える……。
僕が実在するなら、実在する僕が今いるこの場所が実在していないはずがない。
つまり……
「この夢は、実在している?」
混乱した頭で、僕は美しい少女に問いかける。
いや、縋りついたといった方が正しいか。
けれど、彼女は笑って、笑ったまま、遠ざかっていく。
「待って!」
僕の叫びも虚しく、彼女は立ち止まるそぶりすら見せず離れていく。
いや、違う。
離れていっているのは……僕のほうだ。
僕の体は知らず、何かに引きずられるように彼女から引き離されていた。
「また、明日。きっと会いましょう。アキト――」
僕の名前を……? 何で!? と思うも、彼女は答えてくれない。
その代わり、最後に一言だけ彼女は僕に言葉を贈ってくれた。
「大丈夫、全て忘れてしまいますから」