表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/29

不思議な女の子


 逃げたい。このまま帰ってしまいたい。手紙で呼び出された校舎裏の広場で待つ間、ほぼ僕の思考はそれだけで占められていた。それは僕の保守的な性格によるものなのだろうか。『恋愛』という、今までの人生の中でその端緒すら掴めなかった未知なる事態が突如降って湧いたから、僕は困惑しているのだろうか。この嫌悪感は、未知なるものに慣れるまで付き纏うお決まりのもの……慣れてしまえばああ、そんなこともあったと苦笑をまじえて思い返せる、そんなものなのだろうか。それとも、僕、伊佐美秋人という人間は他人からの愛を、自分に対する侵略としか感じ取れない、欠陥製品であるのか。醜悪な巨人が注射針で僕の喉元から青酸を注入し、ピストンの引きざまに全ての肉々しい内容物を吸い上げる。そしてがらんどうになった僕を、自分の求めた形に固定し、針を突き刺して飾る。そんなイメージ。  

 僕は愛をそんな風にしか感じられないのか。

 僕は、前者であることを信じたいと思った。自分が人の好意を悪し様にしか受け取れない最低な奴だなんて、認めたくないから。

 夕日が西の空に落ちかけ、空が赤と黒の混じり合った気色悪い色に変わった時、彼女は突如として現れた。いやこう言うと少し語弊があるかもしれない。実際のところは、僕が「気色悪いなー」と空を見上げていたそのときに彼女は僕に近づいて来ていたから、突如現れたように見えただけ。どこぞの冬香先輩のように、彼女が瞬間移動や気配を消して接近してくる超常のモノ、というわけではない。いや、見てはいないから断定はできないが、よもや今日びの女子高生は瞬間移動が必修、というわけでもないだろう。けれど、そう冷静に分析しながらも、僕は驚いてわっと小さく声を出してしまった。責めるなかれ。目線を下げたら急に人がいるって、結構怖い。

「ご、ごめんなさい!」

「あ、いえ、ごめんなさい」

 謎の女生徒(以後便宜上A子さんとする)は開口一番謝ってきた。なので、僕も謝る。初対面のよく知らない人なので、腰を四十五度も曲げる本格派にしておいた。よく理由が掴めなくても、とりあえず謝られたら謝り返す。どんな金言よりも身を助ける処世術である。

「え……」

「え?」

 挨拶も済んで、それでは本題にはいりましょうと腰を〇度の位置に戻した瞬間、目に入ってきたのはなんと零れんばかり涙を湛えた瞳。意外な事態に陥ると思考が突飛な方向に行ってしまうものだ。その時僕はもしかしたらこの人は僕の生き別れた姉か妹だったりするんだろうかと考えた。そうでなければ、他人の顔を見てすぐ泣きだすようなことがありえそうもないからだ。いや待て、そんなはずはない。僕は深く息を吸い、冷静な思考を取り戻して、尋ねる。

「あの……どうかした?」

「いえ! いいんです! お気になさらず! 私、ちゃんと覚悟、してきましたから……」

 全力で頑張ったものの、会話の意味を解すことはできなかった。その間もA子さんは表情こそ冷静なものの、両目からはひきもきらず涙が流れている。ちょっと怖かった。

そして僕がなにか拭くものはないかとポケットをまさぐったそのとき、不意にA子さんは「さよおなら! 愛しき人!」と声を張り上げ駆けだした。芝居がかったセリフを言う子だな、とぼんやり思ったのも束の間、彼女の姿は夕日を背に浴び、黒点のようにしか見えなくなっていた。それを見て慌てて僕の足も駆けだす。なにがなんだかさっぱりわからないが……いや、だからこそだろうか。このまま終わらせるわけには行かないと思った。


 結局、追いついたのは二つ隣の町の河原だった。距離にして十数キロはある。僕がスパートをかけて彼女の肩を掴み、強引に草っ原に引きずり倒した時、僕の口からはとてつもなく凶暴な高笑いが出た。たぶん原始の記憶が蘇ったのだろう。すさまじい快感だった。

 見ると、運動で上気し、真っ赤になった顔で彼女も笑っていた。汗と涙で顔をナメクジみたいに濡らしながら、心から笑っていた。もっと息を吸わなければいけないのに、おかしくてしょうがなかった。ひとしきり笑った後、彼女はポツリと言う。

「なんで追いかけてきたんですか」

「え? なんでって……」

 ただ、なんとなく駆け出したのだった。強いて言えば本能だろうか。僕は少し困って言う。

「そりゃ逃げたら追いかけるでしょ、普通」

「それ、普通ですか」

 ツボに入ったようで、彼女はまたしても大きく笑う。

「む、なんだよ。こっちこそ聞かせてもらいたいんだけど、君はどうして逃げたのさ」

「どうしてって……それは」

 彼女は笑いを止め、俯いて顔を隠すようにしながら、

「負けたら逃げるでしょ、普通。敗軍の将は潔く、です」

「負けた? 負けたって、何に?」

「あーもう!」

 憤慨した彼女は草を抜いて僕にぶつける。根に付いた土で制服が汚れた。青臭さが僕の鼻腔の中に充満する。

「皆まで言わせる気ですか! この鬼! あなたが! あなたが私を……」

 彼女はしゅんとして、ほとんど聞こえないような声で「フったから」と呟いた。

 フッた? この僕が? 確かに内心イヤイヤ立っていたのは認めるけれど、それを表に出した覚えなんてない。僕の3分の3は優しさでできているのだ。

「どうやって」

「え?」

「どうやって僕は、君をフったの?」

 口に出してみるととても奇妙な質問。だけど僕は真剣にそれを知りたかった。

「ごめんなさいって……あなたが言ったんじゃないですか!」

 え? と発話する前に、数十にも及ぶ数の雑草が僕めがけて投げられた。一部は口に入る。どうやら遂に彼女の怒りを心頭に達しさしめてしまったらしい。

 しかし、これでようやく分かった。彼女は誤解している。

「待って!」

 雑草が織りなす濃密な弾幕を両手でガードし何とか口を開く。

「ごめんなさいって! ……ぺっ! それは誤解だよ」

「誤解……?」

 薄まる弾幕。好機とばかりに僕は声を張り上げる。

「そう誤解。謝られたら、謝り返す癖があるんだ僕。だからそういう意味じゃない」

「え……じゃあ私……」

 女の子は急に俯いて顔を手で覆った。

「あ! そんな気にしないで。勘違いは誰にでもあるし、今日は久しぶりに汗をかけて楽しかったよ」

 だから、そんなに気にやまないでと続けようとしたけれど、覆った掌の下の表情は意外にも笑っていた。

「私、ごめんなさいじゃ……ないんだ」

 うん、それは認めるけれど、彼女にとって『ごめんなさいじゃない』という言葉がどういう意味を持つのか。彼女の麻酔でも打ったように弛緩している顔をみると、僕はちょっと不安になる。『嫌いじゃない』っていうのは好きって意味じゃない……よ?

「私、玉響真弓です」

「あ、僕は伊佐美……」

「知ってるよ、秋人様」

「様!?」


 そのまま、うふふふふふと、じゃれつく仔犬を見る犬好きのような、決して世人に見せるべきでない笑顔を残して、玉響真弓は宵闇の町へ消えていった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ