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兄妹の絆 下

 伊佐美朽葉は必死に走っていた。病院内は錯乱した患者達でひしめき、地獄のような惨状を呈している。常駐の警備員も、医者達も、マトモなものは全て発狂した患者達に食われて死んだ。

(捕まれば、私も――)

 体に怖気が走る。実際のところ、怖くて怖くて仕方がなかった。朽葉の中の弱い部分が言う。

(逃げ回っても、生き延びれるわけがない。この病院から抜け出せても、外も変わらぬ地獄で、自分を助けてくれる人もいない。なら、いっそ……)

(ここで手首でも切って、死んだ方がいい)

 狂者に食われて死ぬより、その方が遥かに楽だろう。もうこれ以上、恐怖に耐えて逃げるのは限界だった。

(けど、まだ私は死ねない!)

 兄がその心を引き換えにして救ってくれたこの命。こんなところで散らしたら申し訳が立たない。朽葉は胸に手をやり、心臓の鼓動を掌で感じる。それは、あの事件以来の朽葉の癖だ。兄がその心に代えて守ったものなら、自分の命は兄の心そのものだと朽葉は思う。心臓の一拍一拍が、生きろ、生きろと兄が自分を叱咤してくれているように思える。

(ええ兄さん、貴方の朽葉はこんなところで負けませんとも!)

 顎が上がり、口の中に鉄の味が滲むが、朽葉は弱音を噛み殺し走り続ける。病棟を抜けられさえすれば、生き延びる可能性は十分にある。なぜなら、この精神病院の近くには町や村、人間が多数居住しているところなど無い。ここは全くの隔離地なのだ。辺りには山と森と海しかない。だから、人間が敵となる今、ある意味では好都合な立地だった。

(ここさえ抜ければ!)

 病院の正面玄関に辿りついた時、視界の端に消化器が見えた。咄嗟に手を伸ばして追いすがる錯乱者達に煙を噴射し、その隙に朽葉は玄関を抜け外に出る。煙は人体には無害で、目くらましにしかならないが、朽葉は振り返って噴射し終わった消火器を玄関の自動ドアに向けて投げつけた。五キロほどの重い消火器は、女の力で投げてもガラスを破壊するには十分な威力を持ち、自動ドアのガラスは粉砕され、玄関のリノリウムの床に破片がばら撒かれる。   

即興のまきびしだ。入院患者というものは普通スリッパで病棟内を移動するもので、走っていれば当然脱げる。だから、追跡者たちは素足でガラスの破片の上を通ることになるのだ。後方から聞こえる悲鳴に朽葉はしてやったり、と笑みを浮かべる。

(よし! このまま森へ入ってしまえば――)

 しかし、朽葉の笑みはそのまま引き攣った痙攣に変わってしまう。

(そんな……)

 病棟さえ抜ければ大丈夫なはずだった。他に人がいるはずなんてなかった。

 けれど、今朽葉の眼前には恐ろしい勢いで外から侵入してくる錯乱者の群れがある。

(そんな、まさか麓の村から登ってきたというの? ありえない! より多く正常なままの人間を殺したいなら人の多い街中――病院とは逆方向に行くのが筋なはず! どうして、山を登るなんて苦労をしてまで――)

 ハッと、言いかけて気付く。

(もしかして奴らは無差別に人を襲うのではなく、特定のターゲットを狙っているとしたら……そして狙われているのが、私だとしたら……)

 辻褄は合う。しかしその場合――

(私が生き延びられる可能性は、万に一つもない)

 後方から病棟を抜け出してきた錯乱者達の足音がしたので、朽葉は反射的に足を動かして逃げる。しかし、前方からも病院の正門からやってきた錯乱者達が向かってくるので、丁度病棟と正門の中間の広場で、朽葉の足は止まる。

(逃げられない――)

 四面楚歌というのはまさにこのこと。四方を囲まれ、逃げのびるという選択は消えた。

(逃げられない――なら!)

 朽葉は転がっていた大きめの石を拾い、前方を見据える。

「闘うだけよっ!」

 右手に石を固く握りしめ、前方の錯乱者の群れに吶喊する朽葉。無論、石で武装しただけの少女が狂者の群れを突破し逃げのびるなんてことができようはずもない。確率は限りなく零に近く、悪あがきという言葉がもっともふさわしい行動だ。

(けど、奇跡が起こるか起こらないかは、常に二分の一!)

 普段では考えられない、頭の悪い思考。そんなことは分かっている。けれど――

「私はまだ死ねないんだからっ!」

 振り上げた石を先頭にいる錯乱者の顔面に振りおろそうとした、その時。

 突然糸が切れたように錯乱者が倒れ、朽葉の体に覆いかぶさってきた。

 朽葉の鉄槌は虚しく空を打つ。

 ピクリとも動かない覆いかぶさってきた体、その肩の向こうに朽葉は見た。

 奇跡の至りを。

「しゃがんでろ、見分けつかないから」

 影が言う。

朽葉が慌ててしゃがんだころには後方にいた狂者達も根こそぎ薙ぎ払われていた。

もう、この病院内で動くものは謎の男と朽葉の二人きりしかいない。極限に零に近似な確率――“朽葉がこの状況を生き延びること”はあまりにもあっけなく、出来すぎたように華麗に達成された。

「ありがとうございます。貴方は……?」

「桐衛と言う。お前の兄貴の友達さ」

「兄さんの!? そんなまさか!」

 桐衛は訝しむ朽葉の肩を指でちょいと叩き、前をみるように促す。

「そん、な」

 振り返った先には一人の男と、三人の女がいた。しかし、朽葉の瞳は、吸い込まれたようにその男に固定され、殆ど女達を見ることができない。それだけの衝撃があった。朽葉の脳に焼きつけられた、最も大切な映像。もう見ることはできないから、思い出の中で何度も何度もころがして眺めてきた映像。

 しかし、今確かに。

 その像が現実に焦点を結んでいる――。

(兄さん!) 

 恥も外聞もなく今にも駆け出して、その胸に飛び込みたい。けれど、どうしても体が言う事を聞かない。脳では完全に目の前の男を兄だと認識しているのに、まるで体がそのことを認めていないかのような齟齬があった。

(まるで兄さんの外見だけ同じで、中身が入れ換わってしまったような)

 精神病院での日々の中で、そんな症状を持つ人を多く見かけた。家族がいつの間にかエイリアンなどとすり変わっているという妄想は、統合失調症などにおいて割とポピュラーなものだ。朽葉は今までそんな症状を持つ患者達を冷めた目で見ていたが、今ならその気持ちが良く分かる。

 形容できない違和感。なにかが違う、としか言えないもどかしさ。なるほどこれは、エイリアンが知らない内になりかわったと表現するしかない事態だ。

「あなたは……だれ?」

 愚問だと自分でも思う。兄以外の何物でもないと理性は判断している。それでも朽葉は聞いてしまった。声に出した途端後悔する。兄に頭がおかしくなったと思われるかもしれない。もしくは、もう朽葉は兄のことなど忘れてしまったのだと落胆させてしまうかもしれない。

 しかし、兄であるはずの謎の男は朽葉の予想に反し、笑った。

「朽葉、やっぱり君なら分かってくれると思ってた」




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