兄妹の絆 上
伊佐美朽葉は自分の名を呼ばれた記憶が殆どない。彼女のような年ごろの女の子であれば、毎日高校に通い、そこで友達に、教師に、恋人に数え切れないほどその名を呼ばれ、名前を呼ばれる喜びなんてものに感づかずに日々溌剌と生きるのが普通だ。しかし朽葉はこの外界とは隔絶された精神病院で、名もない患者として一人孤独に生きていた。
本名を出すことは禁じられている。
これは、こと精神病院においてはそう珍しいものでもない。現代の日本でも、家から精神病者が出たとあっては誇りある家の名誉が傷つけられると考える風潮が廃れていないためだ。朽葉の素性を知っているのは院長のみで、後は朽葉を担当している医師ですら彼女の本名を知らない。
(名前を失って、もう十年にもなる……)
何らの病気も患っていないのにこんなところに押し込められて十年。
最愛の兄、伊佐美春人が朽葉を守るために両親を殺してから、十年――。
朽葉の物心がついたときから、両親の夫婦仲は冷めきっていた。特にどうという理由もないのだろう。元々好き同士がつがったわけではなく、家同士のつながりによる見合いでできた夫婦なんてこんなもの。両親たちは決められた役柄を演ずるように家族であった。そう求められたから、そう振舞っているだけにすぎなかった。一たび人目を離れれば父も母も暴君となり、ストレスのはけ口を子供たちに求めた。外では聖人君子でいなければならないというのはそういうことだ。人間である以上、どこかに息を抜くところが必要で、彼らにはそういう場所が家庭のなかにしかなかったということだ。
そんな両親たちを冷淡に見つめる兄の春人とは違い、幼い朽葉は自分の感情に素直な少女だった。
彼女は両親を嫌った。幼い彼女は、自分に暴力を振るうからというより、むしろその二面性というものが許せなかった。家では互いを罵倒し合っている間柄の癖に、いざ人前に出ると良き夫婦を演じる両親を汚らわしく思った。普段は体のいいサンドバックにしている朽葉たちを“愛する子供達”と呼ぶたび虫唾が走った。悪にも善にも成りきれない卑小な存在を朽葉は憎み切った。
彼女は徹底して反抗した。両親の言う事を聞かず、家の中では兄とだけ話した。家族総出で出席するパーティーの席上でも、演技をしている両親を皮肉るようなことばかりを言って面目を潰した。
(嘘を吐くあいつらなんかより、私の方が正しいの!)
(だから、言う事なんか聞く必要、ない)
意固地な正義感。反抗期という事もあったろうが、それは彼女の偽りを憎む本質によるところが大きかった。
そんな、強大なものに対抗してでも自分の正義を貫く朽葉を春人は尊敬していた。子供というものは両親に寄生しなければ生きていけない。子供の視線から見れば親というものは神にも等しい存在なのだ。そんな弱みから、自分を曲げ、両親の言う事を全て聞く心ない人形と化していた春人にとって朽葉は妹ながら眩しい存在であったのだ。
どうかそのまま、強く純真に育て――春人は壊れやすくも美しいガラス細工を見るような目で朽葉を見守った。
けれど、正義を貫くということはこの不完全な世界ではとても愚かしい行為。
折れないなら、折れるまで。認めないなら、認めるまで。
強ければ強いほど、チキンレースは加速してゆき、遂には――
行きつくところまで行ってしまう。
しかして、その行きつくところとは?
それは、死だ。
朽葉とその両親の闘争は、日々激化していった。両親たちは何もここまでの熾烈な状態を望んでいたわけではない。彼らは悪にも善にも成りきれない普通の人間。ただ、自分達の優位性を示し、朽葉をストレスの発散に使いたいだけだった。
しかし、朽葉はいつまでも折れないから、仕置きはどんどん酷くなった。
それはもはや“仕置き”という語の範疇を超え
“虐待”の名を冠するまでに。
争いの渦中にある朽葉と両親たちは気付かない。
しかし、一人客観的な視点から事態を見つめていた春人には未来が視えた。
それはこの戦いの終りのカタチ。その凄絶な景色。
仲裁は最早不可能。言って止まるくらいなら、初めからこんな事態にはなっていない。春人の前にあるカードは、“傍観”か“介入”だ。このまま黙って事態の成り行きを外から眺め、定められた未来を見るか、あるいは朽葉に与し、自らの力で運命を変えるか。
春人は一人煩悶した。ひどい親だと言っても、親は親だ。育ててもらった恩もある。彼らも憐れむべき存在であることも分かっていた。“伊佐美”という名門の血が、彼らに人間らしく振舞う事を禁じたから、彼らは子供にあたらざるをえなかった。
(けれど、それでも、だとしても……)
春人は朽葉の華のような笑顔を思い起こす。
不器用で、敵の多い彼女がただ一人、
最愛の兄の前でだけみせる表情を――
(僕は朽葉を、死なせたくない……!)
理由も理屈も倫理もいらず、ただそう望む。そう決めた。
現実を達観し、斜に構えて冷たく生きてきた少年が、あるいは初めて見せた意思。
その後、春人は意思を現実のものにする力を探し、手に入れ。
彼ら子供にとっての神を殺した。
怒りにでも憎しみにでもなく、
ただ自分の意思のみに依って神を殺し、
守りたいものを、守った。
果てしない全能感が春人を襲う。
自分の目で見たもの、耳で聞いたもの、口で味わったもの、手で触ったもの、それらの集合が《世界》だ。
だから、自分の限界が世界の限界。
彼は今、世界の限界を超えた。
衰弱し、殆ど骨と皮だけになった朽葉が、春人を見て泣いている。
(そんなに泣き喚いたら、骨が折れてしまうんじゃないか。心配だな)
どこか遠く、春人はそう思う。
無理もない。
春人の魂は、肉体を抜け出て空へ空へと舞い上がって、山を越え、空を越え、成層圏を抜けて、宇宙をも越えた。
世界の限界を超えた魂が行きつくのは、世界の外。
その限界を超えるということは、それ以上になるという事だから――