深層世界論考
七
長い長い夜が明け、四季の自室に太陽の光が差し込みだした頃、金髪の少女が目覚めた。
目覚めた当初、彼女は暴れた。「なんで助けたんです!」「貴方のせいでもう私は……」と四
季にとっては意味不明なことを叫びながら手当たり次第、暴風のように暴れた。おかげで部
屋は物盗りにでもあったかのように散々に荒れたが、四季は決して怒らず、やりたいように
させておいた。彼女は聞き分けのない子供というわけではない。暴れるには暴れる理由があ
るのだと分かっていた。そうやって体を動かさなければ発散できない感情もある。四季にはそれがよくわかっていた。少女は小一時間暴れ通し、喚き通して、やっととまった。
「……すいませんでした」
「いや、いいさ」
内心、あまりよくはなかった。一度静観すると決めたので無理をして貫いてみたが、高価
な電子機器が破壊されるたび顔が蒼くなった。
「とりあえずさ、自己紹介しておくよ。俺は伊佐美四季という。君は?」
暗い雰囲気を打破するように四季は明るい声を出す。
「名前……ですか、名前……」
「名前は……忘れちゃいまして……」
少女はか細くつぶやいた。
「あーうん、名前って案外ど忘れするよね。テストなんかで他の回答は全部埋まってるのにあーくそ、名前思い出せねーってなってそのまま零点とかよくあ……ってオイ!」
四季のチョップが空を切る。人生初のノリ突っ込みに少女はくすりともしなかった。
「もしかして、俺嫌われてます?」
「いえ、別に教えたくない、というわけではなく、本当に……」
「名前を忘れたと仰る?」
「信じられないかもしれませんが、本当に忘れるんですよ……。いえ、忘れたと言いますか失われてしまったというほうが正しいかもしれません。使われない言葉ってそれがなんであれ、無くなってしまうものなんですよ」
「使われない言葉って……。じゃあ、ずっと独りで、君はあの神殿にいたってこと?」
「はい、すくなくとも数千年は」
数千年……自分の名前を忘れてしまうほどの孤独。想像して、四季は絶句した。
「個人としての私は世界にとって必要なかったんです。だから私の名前は失われました。私は“世界の統治者”という役割を与えられた一つの車輪であればよかった。一つのシステムとして生きていれば……」
「……大変だったんだね」
四季自身も伊佐美春人の体を動かすために作られた存在であるから、システムとして生か
される存在の辛さが良く分かった。
「まぁでも、もう君は“統治者”じゃないんだろう? そんなことをさっき喚いてたもんな。今まで御苦労さまでした統治者様。そしてようこそ! この素晴らしき世界へ!」
「……ありがとう、ございます」
少女は微笑した。そんな彼女を見て四季は、
「うーん、『ファナ』っていうのはどうだろう」
「なんのお話ですか?」
「いや、君の名前。ないと不便だろう? この間読んだ歴史の本に“ファナ女王”っていうのが出てきてさ、もう女王っていうとファナって言葉が出てきちゃうんだよね」
「ファナ……良い名前ですけど、もしかしてその本に出てきたファナ女王とはカスティリヤのインファンタ・ファナなのでは?」
「あ、そうだよ。良く知ってるね」
「……まぁいいですけど」
十三世紀にカスティリヤ王国の女王に即位したファナは死んだ夫の棺を数年間馬車に乗せ
て放浪させたというエピソードが有名な「狂女王ファナ」として知られる人物である。当然、あまり縁起のいい名前ではない。少女は複雑な心境だった。
「じゃあお互いの名前も知りあえたし、そろそろ本題に入ろうかな」
「本題……? なんでしょう」
「いろいろと教えてくれると助かる。俺はこの世界についてなにも知らないんだ」
そんなことでしたら喜んで、とファナはその柔らかな声音で答えた。
「おおざっぱに分けて、人の意識には三つの層があります。今こうして肉体と共にある意識は私たちが“表層意識”と呼ぶもので、その名のとおり最も表層の意識です。一番ふつうなやつです」
言いながらファナはマジックペンを用いてきゅっきゅっと紙に逆三角形を書き、三分割した内最も上のスペースに“ひょうそう”と書いた。もしかしてファナは漢字が書けないんじゃないかということと、マジックが裏移りしないかということの二つを四季は器用にも同時に心配した。
「で、次が“深層意識”の層ですね。この層を一般的な人間が感知することは殆どありませんが、実は毎夜、人はこの意識状態に降りてきます」
「毎夜……それはつまり、夢の世界……っていうこと?」
「正解です」
きゅぽん、とマジックの蓋を取り、逆三角形の真ん中のスペースに“しんそう=ゆめ”と書くファナ。真相=夢と読めてしまい、そんなオチだったらやだなと四季は思う。
「この深層意識の領域はもう個人の場所ではなく、人類という単位で共有される領域です。人の心は夢において全てつながっているというわけですね。ちょうどいくつもの川が一つの海へと繋がっているように」
人類規模のネットゲームみたいなものか……ユングの“集合的無意識”という学説は真相を射抜いていたんだな、と四季は冬香の知識を使って考えた。
「また、一般的にこの層から想いを具象化する“創生”という権能が付与されます。このように……」
いきなりファナは中空にその右手を伸ばし、何かを掴もうと拳を握った。そこにはもちろん空気以外の何物もなく、手の中に何も入っているはずはない。しかし……
開いた掌からは飴玉が二つ出てきた。
「ちょっと待てよ」
四季は訝しげな視線をファナに向ける。
「今ここは、夢じゃない。現実だよな? ファナはさっき夢の世界でないとその……“創生”はできないと言ったじゃないか。なんでここでできるんだ」
「一般的には、と私は言いました。私は一般の範疇からは外れます」
きっぱりと言い放つファナ。しかし四季は混乱を隠せない。
「夢の世界でなんでも自分の思い通りに何かを作れる、というのはわかる。でも、ここは現実だろ? 心の中の世界じゃない。ぽんぽん思い通りに飴玉をだせるなんておかしいじゃないか。質量、エネルギー保存の法則はどうした? 原子はどこから調達する? 真空か? 真空なのか? ハイゼンベルク定理を援用するんだな!? そうだな!?」
「ちょっ……痛いですよシキ。飴あげますから落ち着いてください」
混乱した四季をファナは力づくで引きはがす。
「この“現実界”が心の一環でないといつ言いましたか? ここは“現実”というあり方をとった心の場なのです。それにさえ気付いてしまえば……どうしましたシキ?」
「…………」
四季はがっくりと肩を落とした。今まで物理や化学に費やしてきた時間はどうなるのだ、と考えていたら茫然自失となってしまったのだ。
「想像しうる全ての事象は、起こりうる現実である」
「それはそうですね」
「飛行機が空を飛ぶのは」
「誰も落ちると思っていないからです」
「体を通して出る力……? そんなもので、モビルスーツを倒せるものか!」
「? よく分かりませんが……たぶん倒せます」
「……ふぅ」
一息ついて落ち着く。日々変化する情勢に柔軟に対応できるのが若者の特権だ。逆に若いうちに知っておけてよかったと思うことにした。科学の発展に人生を捧げ、老境の域に入ってこの事実を知らされたとしたら多分発狂しただろう。四季がもう落ち着いたとファナに目で合図すると、ファナは自分が創生した飴玉をくれた。
「哲学者A・N・ホワイトヘッドは言った『普遍的な心と普遍的な時間空間はおなじものなのだ』と。心は我々の臓腑がその体内にあるのと同じ意味で我々の内部にあるわけではない……と。いきなり飴玉なんかだすからびっくりしたけど、頭で考えればそういう世界解釈もまぁ……アリだ」
「インテリなんですね」
「苦しゅうない」
実は冬香がため込んでいた知識を流用しているだけなのだが。
「ではシキのインテリぶりを見込んで講義を次の段階に進めますね」
そういってファナは逆三角形の最下層のスペースに“とうち”と書いた。
「心の底、その最深部は“統治領域”です。ここでは、世界のあらゆる事をみることができ、またそれを操ることができます。人が神になれる場所……そう考えてもらえるとイメージしやすいと思います」
「あの神殿があったところか……」
四季の脳裏に荘厳な神殿と争い合う二人の女のイメージが映る。
「しかし、統治者の能力が場所に依存するものだったとは……。僕がファナを連れ出してしまったから、今は……」
「ええ、統治者の任は生野萌華に引き継がれました」
ごくり、と四季の喉が鳴る。気付かぬうちに自分はとんだ大それたことをしでかしてしまったものだ。他ならぬこの僕が、神をその玉座から引きずり落としたなんて……。
「ごめんな、ファナ」
四季は頭を下げた。
「いえ、謝らないでください。あの時シキが助けてくれなければ、確実に私は消滅していました」
ファナは四季が下げた頭を無理やり押しあげて目線を合わせる。
「ありがとう、シキ。貴方のおがげで、私はまだ存在している。まだ……」
ファナは勇猛な戦士が見せるような雄々しい笑みを浮かべる。
「闘うことができる……!」
その一声で大気が静かに震えた。ファナの凄絶な気迫に呑まれて、空気が浮足立っている。彼女はかつて裁きの神ヤハウェとも呼ばれた存在であって、見た目通りの可憐な少女ではないのだ。四季はファナの不敵な笑みから、その本質の一端を垣間見た。
「ファナはやっぱり、あの人と――生野萌華と、戦うつもりなんだな」
「彼女の思想は危険すぎます。世界を任せるわけにはいきません」
「そうか……なら、僕も共に行くよ」
「なぜです?」そんな四季をファナは怪訝な表情を浮かべて見つめ、言う。
「シキ、貴方が私と共に行けば、私ともども消しさられるか、自らの母が私によって焼き払われるのを見るか、どちらかの運命を辿ります。貴方が私と共に来る理由はないように見えますし、貴方を連れていくことで私に利点があるようにも思えません。貴方はここで待つ方が、私達二人にとっての最善の選択では?」
「違う」
四季は即答した。
「この体は春人の体だ。だから、聞こえるんだよ……春人の声が。春人は今、助けを求めてるんだ。だから僕が助けてやらなきゃいけない。これが理由だ」
「同時に――」と四季は続ける。
「春人を助けることは、生野萌華の武器を奪うことにもなる。ファナを苦しめていた黒い影……あれは春人だ」
「なんですって……!?」
共有する肉体が、四季と春人を繋げていた。春人の悲痛な叫び、唯一の願いが、四季にだけは聞こえる。四季にだけは、救われぬ彼の魂を救済する術が分かった。
「俺は妹に会いに行かなきゃいけない。一緒に行こう、ファナ」