トリオ
二
僕は夕暮れに染まる山の斜面を見ながら呆けていた。もう季節はすっかり冬だ。禿げあがってしまった山はあまり目の保養にならない。目の疲れが取れないから勉強を続ける意欲がわかない。でも、勉強以外他にやることもないので、仕方なく山を見ている。ダメな循環に陥ってるな、と僕は一人苦笑した。
実は放課後の教室で、一人冬枯れの景色を見つめているなんて、僕ちょっとかっこいいんじゃないか、なんて思ってもいる。もちろん、恥ずかしいので意識に上ってきた瞬間に消すようにしているけれど。無意識と言うのは制御がきかないから無意識と言うのだ。断じて僕の責ではないことを付言しておく。しかし、そういう無意識のナルシスト分をかき消すときにしてしまう「やれやれ、俺って奴は」という感じの軽い笑みが『輪を掛けてキモい』と先日冬香先輩に言われたのを思い出した。しかし、僕は思う。じゃあ、僕にどうしろって言うんだ、と。
僕は笑って、視線をノートに戻す。するとそこには大きく「き も い」と落書きされていた。馬鹿な……さっきまでこんな文字はなかったはず……。もしやこのノートあれか! 何者かの魂が封じ込められていたり、名前を書かれたものが死んじゃったりするオカルティックな奴なのか! と一人パニくっていると、突如後ろから背中を叩かれた。
振り向くと冬香先輩が、笑っていた。
「いやこれは、親切心から言うんだけどね、秋人、貴方なんでも顔に出し過ぎだよ? そんなんじゃ社会出て、奸佞邪知の輩と渡り合っていけないんだから」
「え? かんねい……? なにそれ」
冬香先輩は「かーっこれだからゆとりは!」と嘆じた。あんただって同じ世代だろうに! と反射的に言語野のニューロンが発火したが、僕はすんでのところで自分を律し、ツッコまない。
「というかね、秋人。なんで貴方こんな時間に教室にいるの? 部活も委員会も麻薬もやってないでしょ?」
「……いくらボケ続けたって僕はツッコミませんよ。それに、そのことは別に先輩には関係ないでしょ」
「『べ、別に先輩には関係ないでしょ』か。成程、私を待ってたんだ!」
「いやそんな上ずった声してなかったし! 判決を告げる裁判官顔負けの冷静さだったはずだけど!」
「上出来よ」
しまっ……乗せられた。と思った時にはもう遅い。幼少の頃から先輩に鍛えられてきた僕は、今や脊髄反射でツッコむ悲しいツッコミマシーンと化してしまっているのだ。先輩にだけならいいのだが、赤の他人に対しても不用意な発言を聞くやいなやツッコんでしまうので、実は切実に直したい。
けれど、そんな僕の思いを知らず、冬香先輩は腹を抱えて大笑する。芝居じみた、大げさな笑い方だ。このパターンはあれだろう。大げさ笑いから転じて……。
「で、だ」
ピタリと、冬香先輩は笑うのを止めてまた僕を見る。静と動との一瞬の入れ替わりが最高に大物なんだね! とは冬香先輩ご本人の言だ。彼女お気に入りの所作である。見ている方はこの動作、無性に腹立つのだけれど。
「なーんでこんな時間まで学校に残ってるのか、気になるなーお姉ちゃん」
「……」
「頭ん中で消滅呪文唱えても私は消えないよ~。ここに、情報公開請求権を行使します!」
「し、してないわそんなこと! いいかげんしつこいよ。勉強しろ受験生」
「ふん。そんな俗事に囚れていては飛べぬのだよ。いいじゃんかよ~教えろよ~」
そう言って、先輩は体をくねらせながらの体当たりを開始した。うざい。すごくうざい。特に、体をくねらせる動作が全く何の意味も効果もないのがミソだ。うざさを一挙に次のステージへと上げる。しかし、冬香先輩の場合、うざがらせるのも作戦の内だったりするのだ。この人は阿呆に見えてその実恐ろしく頭が切れるので気が抜けない。
今までの僕は、先輩のその手練手管によって意のままにいじられてきた。しかし、今回こそはどうしても、あの事を看破されるわけにはいかないのだ。僕は再度、固く決意する。
するとそのとき、全方位から体当たりを仕掛けていた先輩が「なん……だと」とつぶやいて、不意に止まった。ひやりと冷たい汗が頬を伝う。震える瞳で先輩を見ると、案の定その手にはしっかとピンク色の便箋が握られている。
なん……だと。僕は知らず、先輩の言葉を復唱していた。同時に、血を吐くような嘆息が僕の口から洩れる。冬香先輩はいち早く僕の口から情報を割ることを諦め、うざさ極まる体当たり攻撃を隠れ蓑に、虎視眈眈と決定的な情報を強奪しようとしていたのだった。恥ずかしながら、尻のポケットに入れていたのに、全くすられたことに気付けなかった。僕は気を抜いた覚えはない。もはや技と言うより、奇跡と形容したくなる神業だった。
「しっかしまぁ」
冬香先輩はニヤニヤと便箋をながめつつ話す。
「この寒いのにもう春が来ちゃったわけだ、秋人には。色男は季節感が無くて嫌だね」
「うるさいな訴えるぞ和製ルパン! うまい事いってんじゃないよ!」
言いながら、僕は左足で床を強く蹴り、冬香先輩に向かって一気に踏み込む。
不意打ちだ。
やられたらやり返す。盗られたなら盗り返すのだ!
「あ――」
先輩は正に唖然、という表現がピタリとはまる表情のまま棒立ちしている。対して僕は、駿馬が地を駆けるような美しいフォーム。そのうえ、先輩の息を吐くタイミングを完璧に捉えて動き出した。
先輩とて人の子である。息を吐くその一瞬には筋肉が緊張を解き、急に動くことはできない。
ゆえにこれは、不可避の一撃だ。
僕はしたり、と口の端を歪ませ、胸元に当てられた、手紙を握っている先輩の右手へと手を伸ばす。この勢いで行けば、手紙だけをひったくるというわけにはいかない。僕の手はその先の柔らかいクッションまで到達してしまうだろう。セクシャルハラスメント。そんな言葉が刹那、脳裏を過ったものの押し殺す。断じて僕は先輩の胸など触りたくはないのだが、大切なものを取り返すためには仕方がない。ここは戦場なのだ。先輩が悪いんですからねぇ!
僕は満面の笑みを浮かべながら吶喊した。
……けれど。
確実に捉えたはずだった。桃色の封筒も、その先にある桃色の感触も。しかし、今握っているのはただ空のみ。これがホントの色即是空なのか。僕はそのとき確かに、悟りの一端を垣間見た。
「未熟千万! って秋人、あんまり無理に動いたらダメでしょ?」
背後から声がし、振り返る。そこには当然のように、今まで眼前にいたはずのお姉さまがいらっしゃる。誰が呼んだか不動学園の紺青彗星、双樹冬香。敵に回して僕ごときが敵う相手ではなかった。彼女は余裕をしゃくしゃく咀嚼し、悪戯小僧のような目線を僕に向ける。
「お兄ちゃんにはもう私がいるのに、この雌豚が色目を使ってきてるんだね。うん、分かってるよお兄ちゃん。今日の晩御飯までには始末しておくよ……」
「年上の妹とか時代が追いついてないから! あーもう! だから知られたくなかったのに」
知られたくなかったのに、はぁ…。僕は急激な脱力感に襲われた。この人にかかると、いつもこれだ。神出鬼没で天衣無縫。おまけに容姿端麗で博学偉才という遺伝子操作でも受けているんじゃないかと疑うほどの優秀な人間であるが、そのガキっぽい性格により、その能力はもっぱら僕をいじるために使われる。
「あはは。悪い悪い。そんなふてくされんなよー。お姉ちゃんが相談乗ったげるからさ」
「いらないよ!」
「またまた。実は結構悩んでんでしょ? どう返事したらいいもんかって。『僕は恋愛なんて興味ないけど、相手を傷つけることもできない』でしょ?」
僕はハッとした。冬香先輩の言ったことが図星だったからだ。僕は実際、僕と深い関係になることを欲しているその誰かを、心のどこかで嫌悪していたのだ。なぜか、他人が僕に、強い感情を向けているのがたまらなく嫌だった。もちろん、誰からも構われたくないわけじゃない。友達は欲しいし、できるだけ多くの人と仲良くしたい。だけれど、ある一定のラインを越えて親しんでくる人は嫌なのだ。気持ちが悪いのだ。僕自身、なぜそう思うのかは全く分からないのだが。
そんな僕の秘密を、僕が決して表には出さない感情を、なぜ先輩は知っているんだ。
「秋人ん中じゃ自分より他人の方が優先する。告白されたら、断われないだろうね」
「なんでそんなこと……」
「分かるよ。竹馬の友なめないでよ?」
それに秋人は読みやすいからねと先輩は笑う。
「いいんじゃないかな。これからの長い人生、色恋沙汰なんて事故みたいに起こる。ここらで対処法を学んでみるのも、さ」
夕日に照らされているせいか、そう言う先輩の表情は少し寂しげにも見えた。
「まぁでも、私の可愛い弟に悪い虫がついたら困るし、厳正な審査が必要ね。まずは文章力チェーック!」
童女のような弾む「ちぇーっく!」の声。さっきまでの神妙な表情は神隠しにあってしまった。ダメだ、読ませるの、ダメ。そんな意思が浮かぶ。しかし、その意思を現実のものにする力がないことは先ほど学んだ。力なき意思のなんと歯がゆいことか。先輩は桃色の封筒の口に手を入れ、今正にその純白の、ちょっといい香りのする内容物を引き出す――
「止めとけよ」
手紙を引き出す正にその刹那、隼を思わせる黒影が先輩の手を通り過ぎ、そのまま僕の傍に舞い降りた。
「ほいよ、アキ。危なかったな」
「夏輝!」
声をかけられ、手紙を受け取って初めて僕の眼は夏輝を捉えた。人間の視覚には、実は見えておらず、想像で補っている部分があると言うが、夏輝はそれを利用しているとでもいうのか。人間とは思えない登場だ。揃いもそろって僕の友人達の身体能力は凄まじすぎる。僕は、もうこいつら語尾ににんにんとでも付けた方がいんじゃなかろうかと混乱した頭で思う。
「しっかし、ギャーギャー煩いからでてきてみれば、なんつー低レベルな争いしてんだか。今日び小学生だってもっと高尚な議題で争うぜ」
言いながら嘆息。呆れかえったという顔を先輩に向け、幼児を慰めるような手つきで僕の頭を撫でる。
「むっきー! 何よ人のことを悪者みたいに! 私は秋人の保護者として、当然のことをしようとしたまでで!」
「過保護すぎんだよババァ。手紙を検閲するとか、お前は戦中の特高警察か」
「一個年が上なだけでババァ呼ばわりするなとあれほど……!」
両者の視線が交差する線上は正に戦場の趣を呈して、火花が惜しみなく散っている。登場から三分も経っていないのにここまで険悪になれる二人を僕は他に知らない。水と油といおうかトムとジェリーと言おうか。
僕は今正に繰り広げられている壮絶な舌戦を尻目に、この闘争の根源的理由を考えてみる。すなわち、双樹冬香と氷沼夏輝の相容れなさについてだ。まず客観的なデータが挙げられる。冬香先輩は女性で、身長は百五十センチ後半。体重は教えてくれない。対して夏輝は男性で背は百八十センチを超える長身。体重はその細身の外見とは裏腹に、蓄えた筋肉の重さで平均より少し重い。並べてみて気付いたが身体的データだけではなにも判ずることはできないようだ。強いて仲の悪さに関連付けるなら、幼少時の二人は身長が今と逆で、夏輝は先輩にさんざんチビと言われ続けていたが、最近は夏輝に逆襲されていることぐらいだろうか。
試論二。今度は性格面から考える。冬香先輩は僕を相手にするときこそ茶目っ気たっぷり(婉曲表現)だけれど、普段はとても謹厳実直な人だ。家の方針とやらで格闘技から茶道まで種々雑多な習い事をしているが、その全てにおいて手を抜かず、高い技術を習得。なおかつ勉学においても成績上位の座を明け渡したことはなく。その上委員会、行事などでは率先して長の座に就き、人を纏める……。さしずめ彼女は、時間を有効に使うとこんなふうにもなれるんだよ! というモデルルームといったところか。ルネサンス期の文化が抱いた万能人の空想が結実したような、人間の完成形。地を這う俗人とは隔絶した、天空の紺青彗星。
そんな自分に厳しい彼女は、他人にもまた厳しい。ルール、約束、目標からの逸脱は基本的に許さない。悪く言ってしまえば口やかましいのだが、それも人の上に立つのに必要な資質なのだろう。僕は嫌いではない。
対して、自由人なのが夏輝だ。僕は彼との長い付き合いの中で、彼が約束の時間を守ったのを見たことがない。本当に一度もだ。そのせいで、昔は一緒に登下校をしたものだが今は冬香先輩と二人で帰るようになった。寧ろ最近は学校に来ている方が珍しい。聞くところによれば街を社会の学校と自ら定め、日夜サバイバルすることで特殊な技能を習得しているらしい。氷沼流フル課外授業だ。試験もなんにもなく、朝は寝床でぐーぐーぐーだとか。羨ましい。しかし、そんなフリーダムでリバティーな彼ではあるが、その風評と外見とは裏腹に、本当は仁義を重んじる心根の優しいやつだったりする。誰が呼んだか不動学園の御大将。ただし行動基準が夏輝自身にしかないため、たまに無茶苦茶をするので注意が必要である。夏輝を嫌う人達からはセンター街の暗黒皇帝と呼ばれている。好き嫌いが竹を割ったように真っ二つに分かれる性格の持ち主だが、僕は好きだ。
「おいアキ、時間はいいのか」
夏輝からの声を受けハッとする。試論に熱中し過ぎて、手紙に書かれた約束の時間が迫っていることに気付かなかった。しかし、
「夏輝に時間について言われるなんてね」
遅刻魔の夏輝に、である。皮肉ではなく、感動した。自分の子が初めて歩いた時の感触に近い。
「ふっ、俺は女との約束は破ったことがねぇ」
「反証一!」
冬香先輩が跳ねるように大きく手を挙げる。しかし夏輝はそれをまるで視界に入っていないかのように黙殺した。
「いいか、恋愛は電撃戦だ! 押していけ! 後で童貞喪失祝いに赤飯持っていってやる!」
アイサーと夏輝に間延びした返事を返し、僕は教室を出た。冬香先輩はもごもごと必死に何か言おうとしていたが、夏輝の大きな掌に口を塞がれ無念にもその志を遂げられなかった。
合掌。