再浮上
六
「ぷはぁっ!」
重力の重みがずしりと体に来る。四季は意識の底から現実の肉体――再びがらんどうになった春人の体へと這い戻ってきた。まるで長い潜水から浮上したように意識が朦朧としている。
(うー頭、いた……)
まだはっきりとはしない頭で四季は今の状況を考える。四季の意識が世界の最下層についたとき、今正に少女の命が奪われんとするところだった。その場面を見て四季の体は考える前に動いてしまう。“何よりも速く!”という思いが四季の体を一陣の風に変え、少女を救い出すことに成功した。そこから先ははっきりと覚えていない。ただ、無我夢中で逃げていたら、いつのまにか現実に戻ってきてしまっていた。
(……あれは)
四季は、金髪の少女を助け出す一瞬垣間見た鎌を持つ女の姿を思い起こしていた。
(母さんだった)
若々しい姿に代わっていたが、今ならわかる。
T大学精神医学部発令あ号計画 計画主任、生野萌華。『秋人』『夏輝』『冬香』の三人格を生み出した、彼らの母。冬香は幼いころたびたび彼女と対面したことがあった。今その知識は精神統合により共有され、四季にも自分の記憶のように思い出せる。
幼い冬香にとって、萌華は自分の唯一の理解者だった。自分の存在を知っているのは世界で三人だけ。けれど秋人にはこの秘密を明かすわけにはいかず、夏輝とは敵対していたため、心を許せるのは萌華ただひとりだったのだ。
内でも外でも決して弱さを見せない冬香が、萌華にだけは甘えた。背負っている大きな責任を捨てて、萌華の前だけでは年齢相応の子供になり、母さん、母さんと甘えた。そして萌華も不器用なりにそんな冬香を愛してくれた。
「ふゆちゃんはあたしを恨むべきじゃない?」
――萌華はよくこう尋ねた。
「ふゆちゃんの悩みはさ、全部あたしに原因があるんだよ。普通の子供だったら、存在を認められない辛さなんて味わうべくもないし、大きな責任を課せられることもない。あたしがそういうふうに作ったせいで、ふゆちゃんは特別に苦労してるのよ」
自嘲気味に薄く笑って、萌華は再び尋ねる。
「間違った世界に産み出された被造物は創造者を罰する権利があると、あたしは思うんだ。だってそうじゃない? 苦しむことが分かっていながら産み出すのは、苦しめる為に産むのと同義だよ。だからふゆちゃんは恨むべきじゃない?」
冬香はこの質問にいつも、いやいやと首を振った。理屈は分かるが、どうしても恨めない。だって、母は優しかったから……。
しかし、今、その優しかった母が同時に、自ら作った『玉響真弓』という少女を利用し、秋人を姦計にかけた憎むべき敵でもあるのだった。
愛憎入り混じった複雑な感情に四季は困惑してしまう。身の振り方を決めるにはあまりにも情報が少ない。
(とにかく、今はこの子が目覚めるのを待とう)
四季は自分の腕の中で眠る金髪の少女に視線を落とす。彼女は一体何者で、なぜ生野萌華と争っていたのか。聞きたいことはたくさんあるが、ひどく疲れているように眠る少女を無理やり起こすわけにもいかない。
とりあえず家に帰ろうと、眠る少女を抱きかかえて歩き始めると、道端に転がる何かに足をしたたかに打ちつけてしまった。危うく転びそうになるが、自分はともかく少女をコンクリートの地面に落とすわけにはいかない。ふんばってなんとか姿勢を保つ。月が陰り、外灯一つない倉庫街は一寸先も見えない。こんなところに物を置くなんてなんたる非常識か、と四季は憮然とし、心ない誰かへのいら立ちをのせて、そのさきほど足をつっかけた何物かを蹴り飛ばす。
「ぐうっ…!」
蹴った瞬間、苦痛に呻くような声が上がった。
一瞬で血の気が引く。恐る恐る、しゃがんで足元の物体に目を近づけてみる。
そこには血濡れの男が蹲っていた。
倒れているのは桐衛彰だ。
一瞬怒りの波に呑まれ、この半死人をさらに痛めつけてやりたいというどすぐろい欲望が頭を占領した。
(真弓の復讐を、ここで遂げてしまおうか)本気でそう思った。
しかし、内なる理性の声がすんでのところで暗い欲望を押しとどめる。
(落ち着け……彼も、被害者だ)
ここでこうして転がっているということは、彼も萌華になにかされたのだろうということは容易に推理できる。
(見捨ててはおけないな)
桐衛彰の身体はボロボロだった。このまま冬の波止場で放っておいたら、死んでしまう
かもしれない。そう考えると、とても見捨てるわけにはいかなかった。
(いや、別に助けるわけじゃない。コイツからも母さんの情報を聞き出せるだろうから、連れていくんだ)
葛藤の結果として、四季はこういう結論をだした。素直じゃないな、と自分でも苦笑す
る。今はもう、昔のように純粋というわけにはいかなくなった。
現実問題として、二人を担いで家まで帰ることはできそうにないので、四季は親戚で保護
者代わりの伊佐美紀奈子を電話で呼んだ。時刻は既に深夜三時を回っている。
ひどく、怒られた。