夢中の白き神の座
五
《シアーハートワールド》の最下層、意識の海の底に、その神殿はあった。
テンプル・オブ・ザ・ルーラー。
統治者の神殿。
外壁も列柱も眼を痛ませるほどの白さで塗られた、世界を統べる者の住まい。
世界の至聖所であり、最果て。
今もたくさんの魂が、流星のごとく落ちゆき、神殿の屋根に当たっては、閃光を放って消えてゆく。この至聖所の敷居をまたぐには彼らは疲れ過ぎているのだ。果てしなく続くかのように思われる意識の海を、自我を保ったまま降りるというのは至難の業だ。道中で、必ずと言っていいほど潰れてしまう。
魂の最後の輝き。そんな悲しい光を瞳に写し、少女はその幕屋から空を仰ぐ。
少女……統治者の彼女は、今次世界の黎明から、この部屋で世界を見続けてきた。
彼女がこの任を受けてから、どれほどの時が経過しただろうか。
就任当初は、右も左もわからず、その管理権限を用いて世界を混乱に陥れてしまった。
今思い返せば、強大な自分の力に酔っていたのかもしれない。
彼女は自分の意にそぐわない人間を全て殺した。楽園を追い、悪徳の街を焼き払い、天衝く塔を壊した。
火で炙り、雷で撃ち、大切な人を隠し、恐怖で悪を撲滅しようとしていた。
しかしそんな暴君じみた行いも、彼女なりに熟考し、選び抜いたもの。
懸命に努力していたのだ。
夜昼となく地を見張り、悪を探した。体と心を削りながら、虱潰しに。彼女とて、元は人の子だ。同じ人間を傷つけ、殺すのは辛い。
しかし、それでも彼女には信念があった。
平和で、幸福に満ちた正義の世界。人間だった時の彼女が痛切なまでに望んだ、理想郷を実現するために。
もう誰も、自分が過ごしたような悲惨な人生を生きなくても済むように。
(全て悪は滅ぼし、全て善を守る! 私は誰も、何も見捨てはしない――)
強い意志が彼女を突き動かす。彼女が目指したのは『完璧な世界』。一つ悪を滅ぼす毎に、世界はそれに近づいていると、彼女は無垢に信じ込んでいた。
けれど、幾千の昼と幾千の夜を越えて、ある日彼女は気づいてしまう。
(ああ――人の本性は、悪なんだ)
殺しても殺しても、悪が絶えることはなかった。どんな厳しい言葉で、どんな厳しい罰を課したとて、人はそれでも悪をなした。
いつまでもいつまでも。繰り返し繰り返し。
まるで彼女の努力を嘲笑うかのように。
子供は親を殺し、親は子を殺し、他人を奴隷にし、女を犯し、隣人を憎み、汚い嘘をついた。
だから彼女はついに嫌気がさして――
全てを更地に戻した。
洪水を起こし、汚い人間ごと全て大地を洗い流したのだ。
(あはっ! あははははははははははは!)
暗い笑みがこぼれる。爽快だった。彼女を長い間煩わせてきた、学習能力のない醜く汚い地上の蚤が一掃されたのだから、当然だ。
(全て壊して、また新しく始めればいい)
(私にはそうできる力があるのだから!)
地を睥睨し、生き残りの人間を探す。知らず、サディスティックな快感に目覚めていた。
さて、どうやって痛めつけ、殺してやろうか――それを考えると、胸が躍った。
すると、彼女は山上に一人の生き残りを発見する。
思わず舌なめずりしてしまう。口角が悪魔的に上がった。
(そうだわ! 《神殿》から殺しても面白くない。現世へ降りよう)
大地に降り立った彼女は、生き残りの人間を見つめる。
生き残りは、まだ年端もいかぬ少女だった。
少女は降り立った《統治者》にも気付かず、熱心に小さく盛った土の山の前で、ぶつぶつと何事かを唱えていた。
――神への、祈りの言葉だった。
「あ……」
思わず、《統治者》は驚きの声を上げてしまい、少女が振り返る。
その時になってようやく気付いた。
彼女の、澄んだ瞳に映る自分は――
化け物だった。
強大すぎる統治者の座、彼女はいつしかその魔力にのまれ、人の心を失っていたのだ。
少女の瞳に映る醜悪な自分を見て、涙が溢れた。まるで外見相応の、感じやすい少女ででもあるかのように、透明な涙が止めどなく流れ続ける。
長い時を生き、とうに摩耗しつくしたと思っていた感情が最後の火を灯していた。
(何をやっているんだ……私はっ!)
彼女は気付き、自分の罪を悔いた。そして二度と繰り返してはならぬ戒めとして、心に深く刻み込んだ。
《裁きの神》の時代が終わる。
それから彼女は、人間の内に混じって暮らした。無くしてしまった人の心を取り戻すために。もう一度人の痛みを感じるために。
その生活の中で、いままでは見えてこなかった人の優しさ、素晴らしさを感じることができた。
その中で、彼女は新しい救いの道を見出す。
《裁き》ではなく《愛》で統治する優しい世界の可能性を。
《愛》による新しい福音を説く彼女はいつしか人々から《救世主》と呼ばれるようになった。
もう一度地に降り、同じ視点から世界を視ることで、彼女は人の善性を信じるようになった。人は強制されず、自由に自分の道を行くことで、最終的には善き心を持つに至るのだと。
彼女の人としての生は、磔にされて終わった。釘で手足をうちつけられ、いや増していく肉体の痛み。それでも彼女は最後まで笑っていられた。彼女の思いを裏付けるように、彼女を突いた槍兵は悔い改め、彼女の教えを広めることに後の生涯を費やした。
《愛》の神の時代が始まる。
彼女はそれから、人の世に干渉することを止めた。何もしないということをするのは容易なことではない。毎日世界ではたくさんの悪がなされ、傷つき倒れる多くの人がいる。
彼女がその気にさえなれば救えた人達が死んでいく。
それは、彼女が殺しているのとほとんど同義だ。毎日、無能な神を呪う言葉が彼女を苛む。
しかしそれでも彼女は決して救いの手を伸ばさない。
(本当に大事なことは、自分で掴み取ることでしか得られない)
そこには人間に対する深い信頼があった。
彼女がその力を行使するのは、人という種が滅びてしまうような大災厄を防ぐ時だけ。
忍耐強い母親のように、彼女は人間を見つめ続けた。
しかし今、彼女の統治を深い黄昏の色が覆う。
神殿に侵入者があった。彼女の親政に不満を持ち、革命を為すためにこの意識の底に隠された神殿を暴き、乗りこんできた人間がいるのだ。
(遂に人間は、ここまできたのね)
自分に仇なす忌まわしい存在であるはずの侵入者ではあるが、どうしても彼女は自慢の子供のように思えてしまう。かつての人類では、神への造反など決してできるものではなかったのだ。できないことができるようになることを「成長」と呼ばずしてなんと言おうか。子供の成長……それは母としてなによりの喜びだった。
だから彼女は、侵入者が幕屋にその姿を見せた時も弾んだような、待ち焦がれた相手を迎えるような声でその名を呼んだ。
「こんにちは生野萌華さん」