月下氷人
三
「後味の悪ぃ仕事押しつけやがってクソババァが……」
眼を見開き、苦悶の表情を浮かべたまま血だまりに倒れた秋人を見て、小躯の男……桐衛彰は毒づいた。そっと屈んで、憐れみながら秋人の瞼を閉じる。
そうした後、彼は無残に横たわる玉響真弓の躯に向かって、
「おい、いつまでも死んだ振りしてんじゃねぇぞババァ」
と言った。
もちろん、死んだふりが可能な状況ではない。玉響真弓の心臓部には深々と大きな穴が空いていて、その穴からは今も止めどなく血液がアスファルトへと流れ出している。
一般に、人間は体内の血液の半分を失うと死んでしまう。真弓の場合、その体重から換算して約一・五リットルがそのデッドラインだった。そして今、真弓と秋人が寄り添うように倒れている血だまりは、優にその量を越えているのだ。
たとえ世界で最も力のある医者を呼んだところで、ここからの蘇生など断じて不可能。生き返れるとするなら、それはもう人ではない。
それは神だ――。
突然、玉響真弓の骸から白煙が上がる。
熱の正体は、生成熱と呼ばれる、化合物が合成されるときに放たれる反応熱だ。
今、真弓の体内では恐ろしい速度で肉体の再生が始まっていた。
損壊を受けた部位の細胞が発熱し、元あったように傷を塞いでいく。乳房を形成する細胞が出来、固まり、筋繊維が傷を埋める。外皮の損傷が治癒し、血液の流出が収まったところで心臓が修復される。破壊された心臓を一度マテリアルの状態に戻し、再結合。誕生時、母の胎内において行われたことを、局所的に再現する。……修復、完了。命のポンプが、再び動き出す――。
「……まったく、毎度のことながら呆れるな。お前はサーカスでも食って行けるだろうぜ」
「そう、ありがとう」
低く冷たい、大人の声。
「褒めてねぇよ、皮肉ってんだ。一体なにをどうすりゃどこぞの救世主よろしく復活なんてできるのかね。それとも、あんたの大学に通えば復活の術も教えてくれんのかよ。え、生野萌華教授?」
生野萌華……それが玉響真弓の本名だった。『玉響真弓』は萌華が自己暗示によって作りだした人工人格にすぎない。『玉響真弓』という人格を作り出したのも、体を若く作りなおしたのも全てはこのため。秋人に封じられた記憶を解放するために仕組まれた姦計だった。
「救世主ね……懐かしいわ」
萌華は過ぎ去った過去に思いを馳せるように遠くを見つめる。
「そうだ。貴方にはここまで協力してもらったお礼をあげなければいけないわね。何が欲しいか言ってごらんなさい彰」
「俺は春人が助かるだけで充分だ」
「さすがは忠義の侍ね。けれど、それではあたしの気が収まらないわ」
萌華は少し小首を傾げて考えたのち、言う。
「そうだわ、じゃあこの復活の術を伝授してあげましょう。これならあなたにも嬉しい贈り物でしょう?」
「そう簡単に教えたりできるものなのか……?」
「大丈夫、意外と簡単よ。まずはそうね、そこに跪いて」
「……こうか?」
疑いながらも、桐衛は言われた通り跪く。復活の術。武芸の道を志す者なら是が非でも欲しい術であった。
「そう、それでいい……ふふ」
「それで、これからどうすればいいんだ?」
「そうしたらね、そのまま……」
跪く桐衛に、萌華の冷たい声が頭上から落ちてくる。
「死になさい」
「!?」
桐衛が危険を感じたのと同時に、その首に鋭い手刀が落ちてきた。まるで電源を抜いたかのように、瞬時に意識が落ちる。桐衛彰は固いアスファルトのどっと地面に倒れた。
「人を信じやすいというのも考えものね、彰?」
蒼ざめた月光の下、生野萌華は残忍な笑みを浮かべた。