デート
十
学園までは徒歩で軽々行ける距離に住んでおり、滅多に遠出などしない僕にとって、未だに電車に乗ることは非日常だ。
やり慣れないことをすると肩がこる。
一体今日一日で僕の肩はどうなってしまうのか。
そんなことを、潮を含んだ風の臭いを嗅ぎながら、ぼけらと考える。
今日は記念すべき初デートである。
気分は接待ゴルフに付き合わされる会社員のそれだが。
まだ先の事だと思っていたが、先週の一週間は早かった。といっても、「現在」という地点から「過去」を振り返ると常に、あっというまに過ぎてしまったと感じるものだ。光陰矢のごとし。少年老いやすく学なりがたし。しかしなぜこんな感慨を常に持つことになるのか。
僕が思うにそれは、人は自分で過ごした「時」を、永遠に全て記憶できないからである。
時が過ぎゆくほどに、過ごしたはずの「過去」の記憶が欠落していく。しかし人は顧みた時、欠けてしまったピースに気付けないから、「過去」そのものの断片しかなぞれない。
だから感じるのだ。短い、早いと。
わずかに残ったピースだけが、自分のすごした「過去」だと誤認するのだ。
人は記憶できた時間しか生きたことを感じられない。忘れてしまった過去なんて存在しなかったと同義なのだ。
しかし――頭ではそう考えていながらも、僕は自分で自分に疑念を持つ。
僕は、幼少期の記憶を持っていない。失ったはずの両親と妹のことも全く思いだせない。
ならば、それも存在しなかったと、そう言ってしまえるだろうか。
そう言えるとしたら、通りゆく仲睦まじい兄妹を視界に入れるたびに生じる、この寂しさはなんなのだろうか。
……。
そんなことを考えながら物憂く駅から吐き出される人の群れをを見やっていると、特別目に止まるものがあった。
白いワンピースを着た、令嬢然とした女性が人ゴミを掻きわけて走っているのだ。
それは小走りとかではない。
全力疾走である。足も折れよといった野生の走り。三年間の集大成を見せつけようとしている陸上部員のそれだ。
普通、町中において全力疾走中の人間などそう見れるものではない。ましてや、それが女性であればなおさらだ。僕以外にも、何人かの人がその珍しい光景を見ている。
なにかしら、狂気じみていて怖い。
僕はそんな女性を見て、口避け女の話を思い出した。昭和の子供達を恐怖のドン底に陥れたというアレだ。なんでも口裂け女という奴は百メートル三秒で走る らしい。いくらなんでも速すぎだ。チーターの二倍くらい速い。狙われたら逃げられそうもないので僕は「ぽまーどぽまーど」と念の為対抗呪文を先んじて詠唱 しておく。これでもう近付けまいと、すこし安心し、再度女性に目線をやる。
しかし―――僕の心臓は大きく爆ぜた。
段々と、女の姿が視界の中で大きくなってきているのだ。着実に、着実に僕との間合いが詰まる。
僕を狙っている――?
いや待て、ハハ、そんなわけないじゃないかと逃げ出そうとする足に理性で渇を入れる。口裂け女なんているはずないじゃないか。昭和ならともかく、今は平 成だ。マトモに考えて……そうだ! 僕の後方には水族館の入口がある。多分彼女はこの水族館の従業員なのだろう。遅刻したんで走って職場に向かっている最 中なんだよ。このまま彼女は僕を一顧だにせず通り過ぎ、水族館の入り口をくぐるハズだ。大丈夫、大丈夫――
――では、なかった。
白ワンピースの女が、火花が散りそうな急ブレーキをかけ僕の目前で止まる。
終わった……。
僕は恐怖の余り生を諦めた。なぜか冷静に自分の葬儀代は誰が払うのか考え出してしまった――
その時。
「ごめんなさい! 遅れちゃって……」
言いながら、口裂け女(仮)は疾走で顔の前に垂れてしまっていた長髪を払いのける。
そこには、例のごとく疾走で顔を赤らめた玉響真弓の姿があった。
「イエボクモイマキタトコデス」
恐怖と驚きで、言うべきセリフのイントネーションがおかしくなってしまう。しかし、無理からぬことだった。
「今度から、走ってくるの禁止……」
「え、え!? それじゃあ秋人様待たせちゃう!」
「いいんだ。僕、ドMだから。寧ろもっと待たせて」
本当の理由は言えないので適当にでっちあげてしまったが、もっとマシな理由はなかっただろうか。変なキャラ付けをしてしまった。
「じゃ、じゃあ、秋人様って呼び方も、ホントは嫌だったり?」
「まぁ……ね」
別にドMだからとかではなく、単に気恥ずかしいからなのだが。
「うん、じゃあ……」
彼女は面映ゆそうな表情を僕に向け、
「秋、人……」
と、初めて名前を呼び捨ててくれた。
正直、ドキッとした。
世界全体を読み込みなおし、再構成したような、新鮮な感触。新しく開けた視界。
全く、名前を呼び捨てられたくらいで、ちょっと単純すぎやしないか……?
自分へと向けられた苦笑。しかし今は、そんな所作は照れ隠しでしかない。
まさか、僕……
恋に落ちたのか……?
目の前で笑う彼女がなんとも愛おしく思える。しかしそれは小動物や幼児に対して抱く愛おしさとは微妙に違って……なんといえばいいのだろう。
視線が、玉響さんのボリューミィなお胸に向かう。向かってしまう。
そう。そんな邪な欲情を含んだ、清濁併せ持つ、熱狂じみた愛おしさを、今僕は抱いている。
「女を見たら欲情する。それが男の定義だぜ! アキ、お前は何も間違っちゃいない」
「秋人、落ち着いて。あなたの脳内では今一時的に脳内麻薬物質であるドーパミンとエンドルフィンが多量に生産されている状態にあるわ。その多幸感はそのため。勢いで公序良俗に反したりしたらダメなんだから!」
そんなことを口ぐちに言う先輩と夏輝の姿が目に見えるようだ。
「秋人! ねぇ水族館開いたみたいだよ、 行こう?」
突然、僕の右腕が彼女の両手で絡まれ、そのふくよかな胸の前へと引っ張られた。一瞬一本背負いでもかけられるのかと思ったが、
これは「腕を組む」と表現できる事態だ。
途端、ポーカーフェイスで鳴らした僕の顔面が真っ赤に燃え上がった。
ライジングサンである。
自分のことはもっと達観した、クールな人間だと思っていたが、今日限りその看板は下ろさなくてはいけないようだ。
人間、自分自身のことが一番よくわからない。