番外編4 回復への道のり
朝、目が覚めて最初にすることは、スマホの画面を確認することだった。
午前七時十二分。画面には、天気予報の通知と、大学からのメールだけが表示されている。緑色のトークアプリには、数字のバッジがついていない。
通知がない。新しいメッセージがない。
その事実を脳が処理するのに、まだ数秒の時間を必要とする。息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。肺に入ってくる空気の冷たさを、意識的に確かめる。
もう、三ヶ月以上会っていないはずなのに。
相馬弁護士を通してすべての連絡を絶ち、生活圏も少し変えた。物理的な距離と法的な壁は、確かに私を彼から切り離した。
けれど、私の内側に根を下ろした「彼」は、まだ完全に消えてはいなかった。
◇
クローゼットを開ける。
並んだ服のほとんどは、白、ベージュ、ネイビー、グレー。彼が「上品だ」「美咲に似合う」と評価した色ばかりだ。
右手を伸ばし、ハンガーにかかったベージュのブラウスに指をかける。無意識の選択だった。これを着ていれば、誰にも何も言われない。安全で、正しい選択。
その時、頭の中で声がした。
『美咲は自分で決めるのが苦手だから、俺が選んであげるよ。その方が安心でしょ?』
指先が、びくりと震えた。
声は、ひどく優しかった。私を案じ、私の不器用さを丸ごと包み込んでくれるような、完璧な保護者の声。
私はベージュのブラウスから手を離した。
代わりに、クローゼットの奥に押し込んでいた服を引き出す。淡い黄色のワンピース。あの日、彼に「軽い」と判定され、ネイビーのジャケットの下に隠された服だ。
袖を通す。鏡の前に立つ。
三ヶ月間、一度も着ていなかったせいで、シワが寄っていた。鏡の中の私は、以前より少し痩せていて、黄色の明るさが不釣り合いに見えた。
「変、かな」
呟いた言葉は、誰の許可を求めているのか。
胸の奥がざわつく。これを着て外に出たら、また誰かに「派手だ」「似合わない」と正されるのではないか。
両手で、ワンピースの裾を強く握りしめる。布の感触が、手のひらに伝わる。
深呼吸を一つ。
今日は、これを着ていく。誰のためでもない。私が、そう決めたからだ。
◇
駅前の雑貨屋で、小さな観葉植物を買った。
高さ三十センチほどの、ポトス。白い陶器の鉢に入って、値札には「580円」と書かれていた。
買い物かごに入れるかどうか、五分くらい悩んだ。
『観葉植物って、自己満足だよね。どうせすぐ枯らすんだし、無駄なお金使わない方がいいよ』
彼の声が、頭の中で響いた。
もう、半年以上会っていないはずなのに。
私は棚の前で固まったまま、鉢の葉っぱをじっと見つめた。光沢のある緑色が、やけに鮮やかだった。指先でそっと触ると、思ったよりも柔らかい。
「……これは、私のお金だし」
声に出してみる。
誰も、返事はしなかった。
その静けさを確認してから、私はようやくポトスを手に取って、かごに入れた。
◇
駅前のカフェで、麻衣と待ち合わせをした。
午後一時三十分。窓際の席に座り、麻衣は私の黄色のワンピースを見て、一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「その服、可愛いね。美咲、明るい色も似合うじゃん」
「……ありがとう」
頬の筋肉が、引きつる。素直に喜べばいいのに、「お世辞ではないか」と、脳の片隅で自動的に分析が始まってしまう。
店員がメニューを持ってきた。
「何にする?」
麻衣がメニューを開きながら訊く。
メニューの文字をなぞる。コーヒー、紅茶、フラペチーノ、季節のフルーツジュース。
『美咲はカフェイン摂りすぎない方がいいから、ハーブティーにしなよ』
また、声がした。
メニューを持つ手に力が入る。メニューの端が、少しだけ折れ曲がった。
「カモミール……」
言いかけて、口をつぐむ。
私は今、本当にカモミールティーが飲みたいのだろうか。それとも、彼が設定した「正しい美咲」の枠組みから、まだ抜け出せていないだけなのだろうか。
「この、ベリーミックスのフラペチーノにする。ホイップ多めで」
言い切った瞬間、心臓が早鐘を打った。
甘すぎる。カロリーが高い。体に悪い。彼なら絶対に許さない選択。
運ばれてきたフラペチーノは、鮮やかなピンク色をしていた。ストローを差し込み、一口吸い込む。
冷たさと、強烈な甘さが、口の中に広がった。
甘すぎる。正直に言えば、半分も飲めないかもしれないと思った。
それでも、私はストローから口を離さなかった。この強烈な甘さは、私が私自身の意思で選び取った、確かな味だった。
◇
「最近、どう?」
フラペチーノの氷をストローでかき混ぜながら、麻衣が静かに切り出した。
「うん。少しずつだけど、眠れるようになってきた」
「そっか。よかった」
麻衣は、それ以上深くは聞いてこなかった。私が彼と別れた理由を、彼女は詳しく知らない。
「ねえ、美咲。来月、大学の友達でバーベキューするんだけど、来ない?」
一瞬、息が詰まった。
大勢の人がいる場所。男性もいる場所。彼が最も嫌悪し、私から遠ざけようとした空間。
『男がいる飲み会なんて、絶対に行くな。美咲が変な目で見られるのが耐えられないんだ』
手のひらに、じわっと汗が滲む。フラペチーノのグラスを持つ手が、微かに震えた。
「……ごめん。まだ、ちょっと、そういう大勢のところは、怖い、かも」
声が震えた。自分が情けなかった。三ヶ月経っても、私はまだ彼の影に怯えている。
麻衣は「そっか」と短く言い、私の手に、自分の手をそっと重ねた。
「謝らないで。無理しなくていいよ。美咲が行きたいって思える時が来たら、その時また誘うから」
その手の温かさは、彼が私を縛り付ける時に握った手の温かさとは、全く違っていた。
何も要求しない、ただそこに在るだけの温もり。
◇
バイトを始めたのは、それから一ヶ月後だった。
駅前の書店。レジと品出しが主な仕事。初日の朝、制服に着替えながら、胸の奥がざわついた。
以前、カフェのバイトを始めようとして、彼に止められたことを思い出す。
「男の客に声をかけられる」「疲れて俺と会う時間が減る」。
あの時の私は、彼の言葉を信じた。彼は私を心配してくれている。だから、従うべきだと。
でも、今なら分かる。あれは、心配ではなかった。支配だった。
レジに立って、最初のお客さんを迎えた時、手が震えた。
「いらっしゃいませ」
声が、裏返った。
お客さんは中年の男性で、文庫本を三冊持っていた。私がバーコードをスキャンしている間、スマホを見ていて、特に私に視線を向けることもなかった。
会計を済ませて、お釣りを渡す。
「ありがとうございました」
男性は軽く会釈して、店を出ていった。
それだけだった。
変な客に声をかけられることも、ナンパされることもなかった。彼が言っていたような「危険」は、どこにもなかった。
世界は、彼が言っていたほど危険ではなかった。
あるいは、私は彼が言っていたほど無力ではなかった。
◇
相馬弁護士の事務所を訪れるのは、月に一度になっていた。
午後三時。会議室の時計の針が、ちょうど「3」と「12」の間を指している。
「最近、どうですか」
向かい側に座る相馬先生は、いつもと同じ淡々とした口調だった。
「少しずつ、落ち着いてきました」
「具体的には?」
私は、膝の上で組んでいた手をほどいた。指先が冷たい。
「夜、あまり起きなくなりました。前は、二時間おきくらいに目が覚めてたんですけど、最近は、気づいたら朝になっていることもあって」
「友人とは、どうですか」
「少しずつ、連絡を取っています。まだぎこちないですけど、普通に話せるようになってきました」
「『普通』というのは?」
「相手の言動を、全部『正しいかどうか』で判断しなくても済む感じです」
言いながら、自分でもその表現が少しおかしいと思った。でも、他にうまく言い換えられなかった。
彼と一緒にいた二年間。私は常に、「これは正しいのか」「彼にとって正解なのか」を基準に世界を見ていた。
最近、やっとその計算が少しだけ遅くなってきた気がする。
「順調ですね。でも、まだですね」
「まだ?」
「『自分で決める』ことに対する恐怖は、完全には消えていません」
図星だった。
ポトス一つ買うのに、五分かかったことを思い出す。
◇
帰り道、一人で駅前の通りを歩く。
午後四時五十分。西日がビルの隙間から差し込み、アスファルトに長い影を落としている。
ショーウィンドウに、自分の姿が映った。
黄色のワンピースを着た私。
あの日、彼に否定され、重いネイビーのジャケットの下に隠された私とは違う。
完全に元通りになったわけではない。ふとした瞬間に彼の声がフラッシュバックし、パニックになりそうになる夜もある。自分で何かを決める時、異常なほどの恐怖と罪悪感に襲われることもある。
私の輪郭は、まだところどころ欠け落ちたままだ。
でも、少しずつ、拾い集めている。
今日は、黄色のワンピースを着た。甘いフラペチーノを頼んだ。行きたくない誘いを、自分の口で断ることができた。
ショーウィンドウの前の私に、もう一人の背の高い影は寄り添っていない。
私は歩き出す。
足元で、黄色のスカートの裾が、風を孕んで小さく揺れた。
明日も、自分が着たい服を選ぶ。ただそれだけのことが、今の私には、何よりも尊い戦いだった。
家に帰ると、ポトスの葉っぱが一枚、少しだけしおれていた。
窓際の棚に置いた小さな鉢。朝、水をやったはずなのに、土は思ったよりも早く乾いている。
「ごめんね」
思わず声が出た。
葉を指で支えながら、机の引き出しから霧吹きを取り出す。水を吹きかけると、葉の表面に小さな水滴がいくつも生まれる。
しおれた葉は、すぐには元に戻らない。でも、根元の茎はまだしっかりしている。
「大丈夫、大丈夫」
まるで自分に言い聞かせるみたいに、もう一度呟いた。
夜、ベッドに横になって、天井を見上げる。
あの頃と同じ白い天井。前は蓋のように感じていたそれは、今は少しだけ高く見える。
目を閉じると、黄色いワンピースの色が浮かぶ。
明日、それを着て大学に行こうかどうか、迷っている自分がいる。
誰かに何かを言われるかもしれない。
でも、多分、その「誰か」は、もう彼ではない。
そして、何を言われたとしても、最終的に「着る/着ない」を決めるのは、私自身だ。
そう思えるだけで、以前よりはずっと呼吸がしやすい。
ポトスの葉が、暗闇の中でかすかに揺れる気配がした。
あの小さな植物が、来年の今頃も同じ場所にいてくれるかどうかは分からない。私自身が、来年の今頃どんな服を着て、どんな人たちと笑っているのかも分からない。
でも、その不確かさを、楽しみに思える自分がいる。
それを、人は「回復」と呼ぶのかもしれない。
まだ途中だと、分かっているけれど。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
別れたら終わり、ではありません。美咲の頭の中には、まだ彼の声が残っています。それでも、黄色のワンピースを選び、甘すぎるフラペチーノを頼む。小さな選択の積み重ねで、少しずつ自分の輪郭を拾い集めています。
回復は、痛みを伴う長い道のりです。でも、その不確かさを楽しみに思えるようになったこと自体が、彼女の大きな一歩です。
美咲の窓辺のポトスが、これから先も彼女のペースで静かに葉を伸ばしていくことを願っています。
番外編全4話、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。




