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守ってるつもりだった俺、実はDV加害者だった 番外編 「愛情だと思っていたのは、支配だった」  作者: そらのことのは


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3/4

番外編3 専門家が見た典型的事例

 相談室のドアを開けた瞬間、私は既に大まかな見立てを持っていた。


 二十三年間、家事事件を専門に扱ってきた弁護士としての経験が、椅子に座る前から、この事案の本質を告げていた。


 午後二時十五分。白いブラウスにベージュのロングスカート。控えめな色調で統一された服装。膝の上で組まれた手は、指先を内側に折り込むように握られている。視線は私の顔を避け、テーブルの木目を左から右へ、機械的になぞっていた。


 典型的な被支配者の身体言語だった。


「山田美咲さんですね」


「はい」


 声は小さく、震えてはいないが、何かを押し殺したような響きがある。


 彼女はバッグから、黒い表紙のノートを取り出した。付箋がびっしりと貼られ、カバーの角が擦り切れている。何度も開いた痕跡だった。


「これを、読んでいただけますか」


 差し出されたノートを開く。一ページ目の上部に、丁寧な字で日付が記されている。


『2021年4月17日 初めて服を選んでもらった日』


 私は内心で息を吐いた。


 二年分の精緻な記録。日付、時間、場所、会話の断片。感情的な修辞は一切なく、事実のみが淡々と記録されている。


 これは、被害を「証明」しなければ自分の感覚を信じてもらえないと思い込まされた人間が残す、典型的な自己防衛の記録だった。


「たくさん書かれていますね」


「はい。最初は、私が悪いのかもしれないと思っていて。でも、これが普通なのか、そうでないのか、分からなくて」


 彼女の指先が、ノートの端を軽く押さえる。爪は短く切られ、マニキュアの痕跡もない。


「彼は、とても優しい人なんです」


 最初に出た言葉がそれだった。


 私は表情を変えずに頷いた。この「でも」の前に置かれる「優しい」という言葉も、典型的なパターンの一つだ。


 ◇


 ノートをめくりながら、私は事案の構造を頭の中で整理していた。


 服装の指定と写真による確認。

 友人関係への介入。

 アルバイトの禁止。

 GPSアプリによる位置情報の監視。

 一日平均百件を超えるメッセージの送信と即時返信の強要。


 教科書に載せてもいいほど、教科書通りの精神的DV事案だった。


「山田さん、これらの項目に該当するものがあるか、確認していただけますか」


 私は机の引き出しから、一枚のチェックリストを取り出した。


 服装を指示される。交友関係を制限される。

 スマホやSNSを監視される。

 行動を逐一報告させられる。

 経済活動を制限される。

 意思決定を尊重されない。

「あなたのため」と言われて罪悪感を抱かせられる

 ——他にも複数の項目が続いていた。


 十五項目のうち、十三項目にチェックがついた。


「これ、全部当てはまります」


 その声は、初めて震えていた。


「山田さん」


 私は、彼女の目を見た。


「あなたの彼氏の行為は、精神的DVに該当します」


 彼女の身体が、小さく跳ねた。ノートを握る手の指が、白くなるまで力が入る。


「でも、彼は私のことを心配してくれているだけで」


「『心配』や『愛情』という名目で行われても、相手の自由意志を奪う行為は、支配です」


 私は、できるだけ感情を排した声で続けた。


「『拒否しなかったから同意だ』『嫌なら嫌と言えばいい』。そういう論理で、彼らは自分の加害を正当化します。しかし、拒否しづらい状況を作っているのは、彼ら自身です」


 彼女は涙を流し始めた。安堵、罪悪感、恐怖、解放への期待。全てが入り混じった、名前のつけられない涙だった。


 ◇


 一週間後の午前十時三十分。私は当事務所の第一会議室で、加害者である小鳥遊と対峙していた。


 彼は約束の時間の十分前に到着し、身なりは清潔で、言葉遣いにも淀みがない。一見すれば、好青年にしか見えない。


「美咲が弁護士の先生を立てる理由が、全く分からないんです。私はただ、彼女の体調を心配して」


「小鳥遊さん」


 私は彼の言葉を遮り、手元のファイルから通知書を取り出した。


「美咲さんに対する、接近禁止ならびに一切の連絡の禁止を求める通知書です」


「接近禁止? どういうことですか。私は彼女の恋人ですよ。彼女は精神的に不安定なところがあって、私が支えてあげないと」


「あなたが過去二年間にわたり、美咲さんに対して行ってきた行為について、客観的な記録を確認しました」


 私はテーブルの上に、印刷した資料の束を置いた。


「毎日の服装の指定。友人関係への介入。アルバイトの禁止。位置情報の監視。これらは全て、美咲さんの自由意志を奪い、あなたに依存せざるを得ない環境を意図的に作り出す行為です」


「意図的?」


 小鳥遊の眉間に、深い皺が寄った。


「先生、何か誤解されています。私は彼女を守っていただけです。彼女は優しすぎて、他人に流されやすい。だから私が、彼女が傷つかないように正しい道を示してあげていたんです」


「それを、世間では『支配』と呼びます」


 会議室の空気が冷えた。


「あなたの行為は、精神的DVに該当します」


 その一言を放った瞬間、私は彼の顔から、すべての表情が抜け落ちるのを見た。


「……DV?」


 口からこぼれ落ちたその単語は、彼の辞書には存在しなかったものらしい。


「ふざけるな」


 声は低く、しかし全く感情を伴っていなかった。怒りではなく、自身の完璧な論理が外部から否定されたことに対する、純粋な拒絶反応。


「俺は、彼女を愛している。彼女も、俺を頼っていた。『ありがとう』と言ってくれた。俺の判断に『任せる』と言ってくれたんだ」


「それは、あなたがそう言わざるを得ない状況に彼女を追い込んだ結果です。選択肢を奪われた状態での『同意』は、真意に基づく同意とは認められません。」


 私は時計を一瞥した。


「本日をもって、美咲さんへの一切の接触を禁じます。これに違反した場合、法的な措置に移行します」


 ◇


 小鳥遊が退室した後、私は一人で会議室に残った。


 彼はおそらく、今でも理解していないだろう。自分が加害者であるという事実を。彼の認識では、自分は「不当に恋人を奪われた悲劇の保護者」として位置づけられているはずだろう。


 精神的DVの加害者の多くは、自身を「加害者」だと認識していない。彼らの認知の枠組みでは、支配は「保護」であり、束縛は「愛情」であり、意思決定の剥奪は「指導」に変換されている。


 だからこそ、厄介なのだ。


 悪意を持って相手を傷つける人間よりも、善意と愛情を確信して相手の精神を解体していく人間の方が、はるかに対処が困難だ。


 私の仕事は、彼を治療することではない。被害者を彼の支配領域から、物理的・法的に切断することだ。


 ◇


 三週間後、美咲から連絡があった。


「先生、ありがとうございました。彼との関係を完全に終わらせる決意が固まりました」


 電話越しの声は、まだ震えていたが、以前よりはしっかりしていた。


「彼から何か接触はありましたか」


「私のスマホに長文のメッセージが届きました。『俺は、お前のためを思ってやってきたのに』『お前は、俺の愛情を裏切るのか』って」


 典型的な、加害者の反応だった。


「返信はしていませんね?」


「はい。先生に言われた通り、読んですぐに削除しました。それで私、気づいたんです。彼が言う『愛情』は、私が思っていた『愛情』とは違うんだって」


 彼女の声が、少し強くなった。


「愛情って、相手を縛ることじゃないですよね。相手を尊重して、相手の幸せを願うことですよね」


「その通りです」


 電話を切った後、私は窓の外を見た。


 美咲が自己の輪郭を取り戻すには、彼が彼女を解体するのにかけた時間と同等か、それ以上の年月が必要になるだろう。


 私は職業として、数多くの類似事案を見てきた。形は違えど、支配のロジックは驚くほど似通っている。


 だからこそ、私の視点はしばしば「冷たすぎる」と評される。


 しかし、法的な判断に感情を持ち込めば、救えるものも救えなくなる。必要なのは、事実の抽出と冷静な分析だ。


 支配は、「愛情」という名前で包めば、どんなものでも正当化できる。そして、被害者も、加害者も、周囲も、それを「愛情」だと信じ込む。


 だが、愛情と支配の違いは、実は単純なところにある。


 相手の「嫌だ」を尊重できるかどうか。それだけだ。


 美咲のケースは、その意味で教科書的な典型例だった。そして、この国には数え切れないほどの「典型例」が存在している。


 私は、専門家として、それらの一つひとつに向き合い続ける。


 それが、この仕事を続けている理由の一つだ。

第3話をお読みいただき、ありがとうございました。


この話で描いたのは、感情に流されない専門家の視点から見た「愛情に偽装された支配」の構造です。


相馬弁護士にとって、美咲のケースは数多く扱ってきた事案の一つに過ぎません。その客観性は冷たく見えるかもしれませんが、当事者同士では判断できない愛情と支配の境界線に、事実に基づいて線を引くことこそが、被害者を守る唯一の方法です。


「相手の『嫌だ』を尊重できるかどうか。それだけだ」


この一文が、この作品で最も伝えたかった判断基準です。


次回、最終話では美咲の回復過程を描きます。


4月2日(木)20時更新予定です。

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