表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
守ってるつもりだった俺、実はDV加害者だった 番外編 「愛情だと思っていたのは、支配だった」  作者: そらのことのは


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/4

番外編2 友人として見ていた異変

 最初に違和感を覚えたのは、既読のつかないトーク画面だった。


 六月の水曜日、午後四時十二分。ゼミが終わって、スマホを開く。グループラインには、くだらないスタンプとレポートの愚痴が並んでいる。個別のトーク欄を親指でなぞっていくと、「美咲」のアイコンが目に入った。


 最後のメッセージは、俺からのものだった。


「金曜、いつものメンツでご飯いかね?」


 送ったのは、三日前の夜九時十八分。その横の余白には、いつまで経っても「既読」の二文字が浮かんでこない。


 あいつが返事を放置するタイプじゃないことは、よく知っている。高校からの付き合いだ。遅くても、寝る前には何か一言は返してくる。それが、三日間空白のままだった。


 その日は、「まあ忙しいんだろ」で終わらせた。


 見なかったことにするのは簡単だった。友人の異変は、気づいた瞬間に責任が生まれる。だから、気づかないふりをする。


 俺も、その一人だった。



 美咲の笑い方が変わったのは、いつからだったか。


 正確な日付は思い出せない。でも、確かにある時期を境に、彼女の笑顔から何かが抜け落ちた。声は出ている。口角も上がっている。でも、目が笑っていない。そういう笑い方をする人間を、俺は何人か知っていた。


 十月の昼休み。学食の窓際の席で、美咲は小さなサラダとパンだけをトレーに乗せていた。以前なら、唐揚げ定食を美味しそうに頬張っていたはずの彼女が。


「最近、随分ヘルシーだね」


 何気なく言った俺の言葉に、美咲は箸を持つ手を一瞬止めた。


「胃が弱くて」


 そう答える声が、妙に平坦だった。感情の起伏を意識的に抑えているような、借り物めいた響きがあった。


 レタスを細かく裂くように動かすフォークの先が、皿の底を何度もこする。カチャカチャという小さな音が、妙に耳についた。


「彼氏と上手くいってる?」


 麻衣が身を乗り出して訊いた。


「うん、すごく優しいよ」


 美咲は笑った。でも、その笑顔は、どこか義務的に見えた。口元だけが形を作って、目元は、雨で濡れた窓ガラスみたいに冷たかった。



 服装が変わったのも、その頃だった。


 美咲は元々地味な服を好む方だったが、それでも時々は明るい色のものを着ていた。水色のワンピース、薄いピンクのカーディガン。そういう服が、彼女を少しだけ明るく見せていた。


 それが、いつの間にか白、ベージュ、グレー、ネイビーばかりになった。


 十一月の朝、キャンパスの中庭で彼女を見かけた時のことだ。午前九時四分。まだ一限が始まる前で、人影はまばらだった。


 ベンチに座っている美咲の隣には、背の高い男がいた。濃い紺のコート、黒いマフラー。小鳥遊だった。


 二人の距離は近かった。肩がほとんど触れている。恋人同士としては、自然な距離感だ。


 俺は、声をかけようとして、足を止めた。


 理由は簡単だった。美咲の顔が、笑っていなかったからだ。


 小鳥遊が何か話している。口が動く。表情は穏やかそうに見える。手には、美咲のスマホ。親指で画面をスクロールしている。


 美咲は、その手元をじっと見ていた。自分のスマホを、自分以外の誰かが操作するのを黙って見ている。膝の上の手は、ぎゅっと握られていた。指先が白い。ここからでも分かるほど、血の気が引いている。


 小鳥遊が何か言うたびに、美咲の肩が、ほんのわずかに震える。泣いているわけでもない。怒っているようにも見えない。ただ、全身で「ここにいたくない」と訴えているみたいだった。


 それでも、立ち上がらない。何も言わない。視線だけが、スマホと地面の間を行き来していた。


 画面をこちら側に向けた一瞬、アイコンが見えた。LINEの画面。いくつかのトークルーム。うち一つに、俺の名前が並んでいた。


 胸の奥が、冷たくなる。


 俺はその場で身を翻した。見てはいけないものを見ているような、居心地の悪さに耐えられなかった。


 そして、その選択をした自分を、今でもよく覚えている。



 決定的だったのは、サークルの飲み会での出来事だった。


 十一月の金曜日。駅前の居酒屋。夜十時五十分。美咲は来ていない。最近、彼女はサークルの集まりに一切顔を出さなくなっていた。


 小鳥遊は俺の隣に座っていた。ビールグラスを傾けながら、五分に一度のペースでスマホの画面を確認していた。


「美咲から?」


 俺が聞くと、小鳥遊は困ったような、それでいてどこか満足げな笑みを浮かべた。


「今、ゼミの課題が終わって帰るところらしいんだけど、夜道が危ないから、駅に着くまで通話繋いどいてって」


「課題で夜の十一時?」


 俺は眉をひそめた。


「男って、用事だけならこんな時間に連絡してこないよ」


 小鳥遊はスマホの画面をタップし、メッセージを打ち始めた。


『今どこ? 周りに変な人いない? 着いたらすぐ電話して』


 画面の文字が、ふと目に入った。それは「頼られている彼氏」の文面というより、まるで保護者か、あるいは監視者のように見えた。


「なあ、ちょっと過保護すぎないか?」


 ビールの酔いも手伝って、俺は踏み込んだ。


 小鳥遊の、画面を打つ親指が止まった。


 居酒屋の喧騒の中で、そこだけ音が消えたような数秒間。


 ゆっくりと顔を上げ、俺を見る。その目には、いつもの穏やかな光はなかった。薄暗い居酒屋の照明の下で、ガラス玉のように冷たい無機質な瞳が、俺を真っ直ぐに射抜いていた。


「健太、お前は美咲のこと表面的にしか知らないからそう言えるんだよ」


 声のトーンは、全く荒らげていない。むしろ、普段よりも静かで、理路整然としていた。


「俺は二年近く一緒にいて、彼女がどういう時に困って、どういう時に無理をするか全部分かってる」


 グラスの氷が、カランと音を立てて溶けた。


「美咲は自分で正しい判断ができない時があるんだ。俺が守ってやらないと、すぐ他人に利用されたり、傷ついたりする。俺は、彼女のためを思ってやってるんだよ」


 言い返せなかった。隙のない、完璧に組み立てられた自己正当化の論理だった。


 俺は何も言い返せなかった。他人の恋愛に首を突っ込むべきではないという常識が、俺の口を塞いだ。


「それが分からないなら、口を出さないでくれないか」


「……ごめん、言い過ぎた」


「分かってくれればいいよ」


 小鳥遊はすぐにいつもの笑顔に戻り、スマホを耳に当てた。「もしもし、美咲?」と語りかける声は、ひどく甘く、優しかった。


 俺は手元のビールを飲んだ。なぜか、ひどく苦く感じた。



 最後に美咲と話したのは、十二月の図書館だった。


 午後二時三十五分。レポートの資料を探していると、隅のテーブルで美咲が一人座っているのが見えた。スマホを握りしめて、画面を凝視している。その表情が、あまりにも緊張しているように見えて、声をかけるのを躊躇った。


 でも、彼女の肩が小刻みに震えているのに気づいて、俺は近づいた。


「美咲?」


 彼女は顔を上げた。目が、少し赤い。


 季節外れの長袖のブラウスを着ていた。首元までボタンが留められ、色はくすんだベージュ。以前の彼女なら絶対に選ばないような、地味で、彼女の年齢よりもずっと老けて見える服だった。


「健太くん」


 彼女は慌ててスマホを伏せた。でも、その動きが不自然で、何かを隠そうとしているのが明らかだった。


「大丈夫?」


「うん、大丈夫」


 彼女は笑った。でも、その笑顔は、今まで見た中で一番痛々しかった。


 その時、彼女の左手首に、うっすらと赤い痕があるのが見えた。強く掴まれたような痕。


 俺の視線に気づいたのか、彼女は慌てて右手を左手首に重ね、袖口を引っ張った。


「美咲、もし何か困ってることがあったら」


 その瞬間、美咲の顔に明らかな「恐怖」が走った。


「何もないです!」


 悲鳴に近い声だった。


「彼は、すごく優しいです。私のこと、誰よりも分かってくれてるし、全部私のためを思って言ってくれてるから。私が駄目だから、彼が直してくれようとしてるだけで……」


 早口で、まるで暗記した呪文を唱えるように、彼女は言葉を紡いだ。息継ぎすら忘れたようなその喋り方に、俺は背筋が寒くなるのを感じた。


 これは、彼女自身の言葉ではない。小鳥遊が、彼女の脳内に植え付けた言葉だ。


「だから、健太くんは心配しないで。彼に、変なこと言わないでください。お願いします」


 美咲は深く頭を下げると、逃げるように走り去っていった。



 俺は、被害者ではない。


 あの歪んだ関係のなかで、一番傷ついたのは、美咲だ。次に、関わらざるを得なかった家族や、相談に乗った誰か。俺はただ少し離れた場所から見ていただけだ。


 だから、本来なら、俺が罪悪感を持つ必要なんてない。そう、何度も自分に言い聞かせてきた。


「彼女の彼氏が少し独占欲強いくらいで、いちいち口出しするのは、ただのお節介だ」


「大人の人間関係に、第三者が首を突っ込んでいいわけがない」


「もし問題があるなら、本人たちが専門家に相談すべきで、友人の役目はそこまでじゃない」


 こういう理屈を、俺は器用に組み立ててきた。


 でも、夜中にふと目が覚めて、天井の模様をぼんやり見つめているとき、思い出すのは決まってあの朝の中庭だ。


 ベンチに座る美咲。自分のスマホを他人の手の中に預けたまま、膝の上で握りしめた自分の手を、白くさせていたあの瞬間。


 あのとき一声かけていたら、何か変わっただろうか。


 この問いには、「変わらなかった」と答えることもできるし、「変わったかもしれない」と答えることもできる。どちらを選ぶかは、俺の良心の問題だ。


 俺は、前者を選ぼうとしている。


「どうせ俺が何をしても、大きな流れは変わらない」


 そう思えば、責任を手放せるからだ。


 でも、本当は知っている。


 支配は、密室の中でだけ起こるわけじゃない。廊下で、教室で、カフェで。ほんの一瞬見えたその兆候を、周囲の人間が「変だ」と口に出すかどうか。その小さな声の積み重ねで、誰かの世界の形は少しずつ変わる。


 俺は、その「変だ」の一言を、飲み込んだ側の人間だ。


 たぶん、俺みたいな人間のことを、専門家は「周囲の沈黙」とか、「傍観者」とか、そういう言葉でまとめるのだろう。


 それは、便利な括りだ。そこに入ってしまえば、一人ひとりの顔や、声を飲み込んだ瞬間の体温なんて、全部ぼやけていく。


 でも、俺の中ではまだ、はっきり残っている。


 既読のつかないトーク画面を見つめた水曜日の午後。


 ベンチで震える指先を、遠くから見ていた朝のこと。


 居酒屋で、小鳥遊の冷たい瞳に射抜かれた瞬間。


 図書館で、美咲の手首の赤い痕を見てしまった時の、胸の奥の冷たさ。


 あのとき、俺は何もしなかった。


「友人として見ていた異変」というタイトルをつけられたら、聞こえはいいかもしれない。けれど正確に言うなら、「見てはいたが、見ていなかった異変」だ。


 俺は、都合のいいところだけを切り取って、「心配していた」と自分を慰めている。


 本当は、見て見ぬふりをしただけだ。


 そう認めるには、もう少し時間がかかりそうだ。

第2話をお読みいただき、ありがとうございました。


この話で描いたのは、「気づいていたのに、何もしなかった」第三者の心理です。


健太は特別に冷たい人間ではありません。友人の異変に気づきながらも、「他人の恋愛に口を出すべきではない」という常識や、責任への恐怖から沈黙を選んだ。それは、私たちの日常にも潜む、ごくありふれた自己防衛です。


支配は、周囲の「沈黙」によって、より強固なものになっていきます。


でも、それを責めることはできません。誰もが健太になり得るからです。


次回は相馬弁護士の視点から、専門家の目に映った「典型的事例」を描きます。


次回は3月31日(火)20時更新予定です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ