第二次ロムール侵攻②
「ハルパレオス将軍!」
エーリカは本陣のテントから出るや否や、自身の部下に声を荒げる。
配下に指示を出していたハルパレオスは、突如として真剣な雰囲気に変わったエーリカに、ついに決断したかと安堵する。
「姫様、とうとうご決断召されましたか……! ならば、ただちに撤退の伝令を走らせます!」
「――いいえ、ハルパレオス将軍。撤退ではありません。進軍です。隊列を組んで、敵軍に向かって進軍するのです」
「……………………はい?」
ハルパレオスは、エーリカの指示がさっぱり理解出来ず、たっぷり十秒ほど沈黙してから聞き返す。
エーリカはそれに大きく息を吸い込んだあと、言った。
「天啓が下りました。この戦、我々の勝利です。隊列を組んで、勝利に向かって行進するのです」
「ひ、姫様!? お労しや……やはり少女が背負うにはあまりに酷な重責であったか……」
パルパレオスはエーリカが狂ってしまったのかと思い、無念そうに唇を噛み締める。
「ハルパレオス将軍、私は至って正気です。この王笏を掲げ、敵軍に向かって行進すれば、天からの助けの軍勢が来ると――」
そう言ってエーリカが王笏を掲げた瞬間――先端に付いた大粒のエメラルドが激しく光を放つ。
これはダンが遠隔からレーザーを当てて光らせているのだが、その場にこのトリックに気付く者などいるはずもない。
その光景は、エーリカが持つ王笏が、まさしく神から授かった選ばれし者の証であるという説得力を与えていた。
「ひ、姫様、そ、それは……!?」
「そう……これこそ神から授かった王笏! ロムールの勇敢な兵士たちよ! この光の元に隊列を組みなさい! 勝利はもう目前です! 神々の援軍が来てくださいます!」
「おおお、姫様が光輝いて……!」
「あれこそ光の聖女だ!」
「戦乙女万歳!」
「戦姫エーリカ、我らに救いを……!」
そのエーリカの呼び掛けに、兵士たちは絶望的な状況に希望を見出したように、彼女の掲げる光の元に集う。
「ま、まさか、姫様は本当に……?」
ハルパレオスすらその光に魅入られ、エーリカの放つカリスマの下に付き従う。
やがてエーリカの周りに兵が集い、鋒矢の陣形が整えられる。
エーリカはその先端に騎乗して座し、教皇の王笏を高く掲げた、次の瞬間――
「…………!?」
ゴーン、ゴーンと、天上から鐘の音が高らかに鳴り響く。
その不可思議な現象に全員が固まり、戦場が一瞬静まり返ったあと――どこからともなく、天上から涼やかな歌声が響いた。
『――|Amazing grace《驚くべき神の恵み》, |How sweet so sound《なんと甘美な響きだろうか》.』
それと同時に、ロムール軍の真上から雲間を裂いて、背中に機械式の翼を生やした銀髪の少女――ノアが歌声を響かせながら姿を現した。
その荘厳な景色に敵味方問わず一瞬呆気に取られたあと、兵士たちは震える声で口々に呟いた。
「あ、あれは、天使様……?」
「天使様が、我らの下にご降臨召されたぞ!?」
「なんと美しい歌声だ……」
「やはり姫様は神に選ばれし聖女だったんだ!」
「――そ、総員、隊列を保ったまま前進! 我らの敵は神の敵です! 恐れることはありません! 既に勝利は約束されています!」
エーリカはあまりの奇跡に内心でパニックになりながらも、どうにかゾディアックに指示された通りに兵を動かす。
あんなとんでもない存在を召喚できるゾディアックとは一体何者なのか?
そう疑問が渦巻くも、今はただ目の前の帝国軍へと集中する。
一方帝国軍側でも、目の前の異常な状況に混乱が起きていた。
「なんだ、この透き通るような歌声は……女?」
「おお、神よ! 神が戦場にご降臨召された!」
「だが降りたのはロムール側だぞ?」
「どういうことだ、この遠征は神に祝福されたのではなかったのか!?」
「うろたえるな! あれはロムールが行ったまやかしの術に過ぎない! 依然神は我らにあり! 矢を射かけろ!」
帝国側の指揮官がそう命ずると、ロムール側に向かって大量の矢が放たれる。
しかし次の瞬間――突如として激しい逆風が吹き荒れると同時に、全ての矢が風によって打ち落とされる。
『|I once was lost《道を踏み外し彷徨っていた私を》, |but now am found《主は救いあげてくださり》. |Was blind but now I see《かつては見えなかった恵みを、今は見出すことができる》.』
奇跡を起こしながら、戦場にノアの歌――アメイジング・グレイスが響き渡る。
その歌声はビットアイのスピーカーを介したサラウンドシステムで戦場全てに満遍なく響き、遠くから響いているのに、すぐ耳元で歌っているような不思議な感覚を兵士たちに抱かせた。
これも穏やかな歌声で戦意を喪失させると同時に、相手の心に畏怖を抱かせるダンの演出の一環であった。
「う、嘘だろ……!? や、矢が突風に……!」
「ええい狼狽えるなァ!! あれは神ではない! 神であるはずがない! 神の加護は我が帝国にあり! 魔導兵、前へェ!!」
指揮官は恐怖と混乱で半狂乱になりながらも、部下に命令を下す。
帝国兵たちは非常に信心深かった。今まで帝国が敗戦した国を蹂躙してきたのも、全ては東方聖教会の出す『神の赦し』という免罪符があったからだ。
故に彼らは神の名の下に虐殺を行い、民を奴隷にし、そのことに何の疑問も抱かなかった。
――しかしここにきて、神敵と認定されたはずの戦姫エーリカ率いるロムール軍に、神の奇跡が起きようとしている。
そのことは少なからず帝国軍に動揺を与えた。
「目標、前方の聖女を名乗る神敵である! 広範囲殲滅火砲、構えーーっ!」
しかしそれでなお、帝国軍は止まらない。
今度は魔法使いばかりを集めた魔導兵団が、杖を構え一斉に巨大な火球を出して、ロムール軍を焼き払おうと試みる。
しかし次の瞬間――
「……何故だ、詠唱途中で魔法が消えた!?」
「こちらもだ!」
「魔法陣が出せない!?」
「魔力も全く感じられないぞ!?」
唐突に起きた魔法の不調に、魔導兵たちは恐慌状態に陥る。
『――あなた方の魔法行使の権限を剥奪致しました』
その時、魔導兵たちの頭の中に、ナノマシンを通じて冷淡な少女の声が響き渡る。
見上げるとそこには――天上で歌声を奏でながら、無機質な瞳で下界を見下ろすノアの姿があった。
『――|Twas grace that taught my heart to fear《私の心に畏怖を与えたのは神であり》, |and grace my fears relieved《そして私の恐怖を和らげてくれたのもまた神であった》.』
「だ、駄目だ……魔法は、神から与えられた奇跡、それを神に向けるなど許されるはずがない!」
魔導兵の一人が、自身の犯した過ちに気付いて悲痛な声を上げる。
「か、神よ、どうかお許し下さい! 私たちはあなたのことを知らなかったのです!」
「まさか……戦姫エーリカは本物の聖女だったのか?」
「だとしたら、帝国が神敵ということになるぞ!?」
「もう終わりだ! 侵略と破壊を繰り返す国を、神が赦すはずなどなかった!」
途端、魔導兵たちは阿鼻叫喚となり、その場に跪いて天に許しを請い始める。
魔法を剥奪された彼らはただの一般人と変わりがない。帝国自慢の魔導兵団は、ほんの数秒で烏合の衆となり果てた。
『|How precious did that grace appear, The hour I first believed《信じることを始めた時、その恵みのなんと尊いことか》――』
ノアがそう歌った瞬間、天上から高らかにヴァイオリンの調べが響き、勇壮なドラムの音が大地を揺らす。
それと同時に雲間からダンの船が降臨し、それを守護するように数百、数千、数万にも上る、天界の軍勢が姿を現した。
これも、エヴァが操るビットアイによる演出であった。
周辺のナノマシンをスクリーン代わりにして、立体映像を映し出していたのだ。
しかし、恐慌状態の帝国兵にその精巧な映像の真贋を見極めることなど出来ない。
彼らには本当に天界の軍勢が地上に降臨してきたかのように見えていた。
空では何千騎もの天馬に跨った白銀の騎士が轡を並べ、ロムール軍の後備えをするように行進している。
その両側には二頭のライオンが引く、炎を纏う銀輪の戦車兵軍団が隊列を組み、威圧的に下界を見下ろしている。
頭上では剣と盾を携えた戦乙女たちが両翼で飛び交い、ホホホ、と帝国兵たちを嘲笑うような声を響かせていた。
少々演出過剰気味だが、今回エヴァがやたらと張り切ってしまったのと、帝国側に対する示威行動なのでダンも多少やり過ぎくらいがちょうどいいと考えた。
帝国を心底震え上がらせ、二度と領土的野心を持たぬよう、心をへし折ることが目的なのだから。
『|Through many dangers, toils and snares, we have already come. 《多くの危機、挫折や誘惑を乗り越え、私たちは今ここに居る》| T’was Grace that brought us safe thus far and Grace will lead us home《ここまでの道のりは全て神の恵みに寄るものであり、その恵みは私たちを故郷へと導くだろう》.』
ノアがそう歌いながら手を振りかざすと、ティグリス川が一斉に凍結して、行進するロムール軍の前に氷の橋が架けられる。
「進みなさい、ただ前に! 神は我らと共にあります! 恐れることはありません!」
「聖女様と共に!」
「天は我らと共にあり!」
「このような奇跡に立ち会えるとは……生きていて良かった……」
兵たちは全員神々が味方してくれていることに奮い立ち、歓呼の涙を流しながら、一片の迷いもなくエーリカに付き従う。
そんな中、鋒矢の陣の先端に黒い影が
「ふっ……あの御方がご帰還めされたか。この戦は勝ったな」
ガイウスが左翼側の前線を引き上げて、エーリカの側へと戻ってきていた。
「ガイウス! 左翼側はもう良いのですか?」
「ああ、もう帝国側も戦意を喪失したようだ。あんなものを見せられて、今更戦う気も起きんだろうよ」
ガイウスは、ロムール軍と歩調を合わせて頭上を進軍する神の軍勢を見てくっく、と喉を鳴らす。
「あの御方……ゾディアック様とは一体何者なのですか? こんな凄まじい存在を呼び寄せる事ができるなんて……」
エーリカは畏怖と感嘆を交えながら、頼もしげに天界の騎士たちを見上げる。
「ふむ、姫よ。お前にだけは教えてやろう。あれは"まやかし"だ。実体のない影のような存在にすぎない」
「まっ……!?」
「――しっ、声には出すな。兵たちに動揺が広がる。我は吸血鬼故に、生きている者と死んでいる者は気配で分かる。……だがあれは生きても死んでもいない。つまり"存在しない者"だ。どうやっているのかは分からんが、あの御方はこの場にいる我々に壮大な幻影を見せて、帝国側を退かせようしているのだ」
ガイウスはそう推察する。
「で、ではもしそれが帝国側にバレたら……!」
「安心しろ。あの銀の船と、あそこで歌っている天使、ノア様だけは本物だ。あの御方たちが居れば帝国軍などどうとでもなる。最悪一撃で戦場を焼き払うことだって出来る方々だからな」
「ほ、本当にそんな事ができるのですか? 以前ゾディアック様がガイウスに勝ったというのは知っていますが……」
「ふっ……我などとは比べものにならん。お前の思っているものとは少し違うかも知れないが……あの御方は"神"だ。少なくとも魔性の森の亜人どもは心からそう信じている。我は神など信じておらぬが、あの御方なら信じられる」
「あなたがそこまで言うだなんて……分かりました。ゾディアック様を信じましょう。元より私たちにはその道しかないのですから」
エーリカはそう言うと、凛と背筋を伸ばしたまま、光り輝く王笏を掲げて進軍する。
帝国はそれに気圧され、六倍もの兵力差がありながら、ジリジリと後退しつつあった。
「帝国は神の怒りを買ったんだ……!」
「神よ、どうかお許し下さい!」
「地獄に落とされるのは嫌だ! どうかお慈悲を!」
「帝国はもう終わりだ……」
兵士たちは圧倒的に数で勝っているにも関わらず、もはや敗戦が決したかのように項垂れる。
しかしその時――
「うろたえるなッ!」
若々しい青年の声が響くと同時に、帝国軍の兵士たちはハッ、と顔を上げる。
声の出処を見るとそこには――ローブを着て、眼鏡を掛けた神経質そうな青年が、剣を掲げて兵士たちに檄を飛ばしていた。
その人物こそ、これまで後方に隠れていたが、出てこざるを得なくなった、ランドルフの腹違いの兄、第二皇子マリウスであった。
「あんなものはただの幻でしかない! その証拠に、あの空で舞っている天の軍勢は、見ているだけでこちらに一切攻撃をしてこないではないか!」
「それは……」
「た、確かに……」
マリウスがそう指摘すると、僅かに兵たちの動揺が静まる。
第二皇子マリウスは、帝国の三兄弟の中で最も聡明と言われている。
それ故に、相手の行動の違和感をいち早く見抜いたのだ。
「そもそも神の坐す聖地である東方聖教会は我が帝国の領内にある! 神々は我らと共にあるのが真実だ! ロムールのまやかしに騙されてはいけない、あれは偽の神々だ!」
「し、しかし殿下……! 我らが魔法を使えなくなってしまったのは……!?」
そう演説するマリウスに、魔導兵の一人がそう尋ねる。
「恐らくあの"歌"だ……! あの女の歌声によって、我々側の魔法が妨害されている可能性がある! 恐るべき術師だが……神ではないなら勝てぬ道理はない! 我々は圧倒的な兵力を持っているのだぞ!」
「そ、そうだ……! 俺たちはまだ、終わってねえ! 勝てるんだ!」
「偽の神なら怖くなんかねえ……!」
「ビビらせやがって、ロムールの糞ども、皆殺しにしてやる……!」
単純なのか愚かなのか、帝国兵たちはマリウスの檄により徐々に士気を取り戻していく。
マリウスの言葉は、なんの根拠もないそうであれば良いというただの願望に近いものであった。
しかしそれでも、恐慌状態で縋れる物を欲していた帝国兵たちに、なんとか戦意を立て直すきっかけを与えることに成功していた。
「さあ隊列を組め! 敵がどんな手を使おうと、相手の先頭に立つあの聖女気取りの背教者を討ち取れば終わりだ! 神の任は果たされ、お前たちの死後の安堵は約束される! 怯むな!」
「う、おおおおッ!」
「帝国万歳! マリウス殿下万歳!」
「やってやる! ロムールなんぞ滅ぼしてやる!」
そう言ってマリウスの元に兵士たちが集結し、突貫の体勢を取る。
「ひ、姫様、このままでは……!」
「狼狽えてはなりません! 神々の加護を信じなさい! この神の光の前では、彼らの突進は脆くも崩れ去ります!」
エーリカはそれを冷や汗をかいて見つめながらも、動揺する兵たちを励ます。
――そして、互いの陣営が覚悟を決めたことで、この史上最大規模の会戦が行われようとしていた。




