第二次ロムール侵攻①
「くっ……やはりこのまま戦線を維持するのは厳しいですか」
ロムール王国の指揮官、戦う王女エーリカ・フォン・ロムールは、芳しくない戦況を見て歯噛みする。
戦場はティグリス川を挟んで矢の応酬が始まっている所であった。
しかし、相手が数の利を使ってか、無理やりにでも川を越えようとして少しずつこちら側の岸まで辿り着いてきている。
川の水は真っ赤に染まり、所々に死体が浮かんでいる。
それでなお、怯まずに帝国兵はロムールを目指して迫りつつあった。
「姫様、何卒お早めのご決断を……! 右翼をガイウス殿、そして左翼を客将のジャガラール殿がなんとか抑えてくれておりますが、このままでは戦線の崩壊は必至! このまま乱戦となれば、某では姫様を護りきれるか自信がありませぬ!」
今や大将軍の任を得た老将のハルパレオスが、本陣で厳しい顔で唸るエーリカにそう提言する。
ティグリス川を突破されてしまえば、王都ロムーリアまでの距離は目と鼻の先。
そして今、総動員で前線の維持に当たっているので、本国の守りはほぼ空なのだ。
乱戦になって王都に帝国兵がなだれ込む前に、籠城して守りを固めようというのは正常な判断であった。
「いえ……それはなりません! 何とかしてこの場を維持しなければ、後ろにある農村部や小麦の畑などが完全に焼き払われてしまいます! そうなると王都に飢えが蔓延することになる! そもそも、孤立した我が国が籠城した所で、一体何処の国が助けてくれるというのです?」
ハルパレオスの言葉に、エーリカは反論する。
「そ、それでは……魔性の森から更なる援軍を……!」
「既に魔性の森からはかなりの数の援軍を出して頂いています。これ以上は彼らとていい顔はしないでしょう。大陸南東の小国家群も帝国と対峙できるほどの兵力はありません。そもそもこれは我が国の問題、我らがここで何とかして食い止めるしかないのです!」
「くっ、畏まりました……」
エーリカにそう言い負かされて、ハルパレオスは渋々引き下がる。
しかし、そうは言うもののエーリカ自身もそろそろ限界を感じていた。
六倍の兵力差は如何に地の利を活かし、用兵の妙を尽くしてもどうにも覆し難く、このままではティグリス川を越えられて、ロムール軍は平地で乱戦する事態となってしまう。
そうなったらもはや軍としての体裁すら保てない。
そうなる前に、エーリカは指揮官として苦渋の決断を下す必要があった。
(悔しい……ここまで来て帝国に降るなんて。だけどまだ、交渉の余地がある内に動かないと……!)
エーリカは親指の爪を噛みながら懊悩する。
帝国と交渉が出来るのも、こちらの軍が健在なうちである。
軍を撃破されて占領されてしまえば、もはや交渉の余地すらなくなる。
その際はロムールは全てを奪われ、愛する国民全員が奴隷化されてしまうだろう。
そうならない内に、帝国と出来るだけマシな条件で講和、実質的な降伏をしなければならない段階まで追い詰められていたのだ。
幸いなことにこちらには、帝国の第三皇子という、条件交渉ができるだけの手札がある。
あとはその手札を、どのタイミングで切るべきか、エーリカは決めあぐねていた。
「ゾディアック様……私は一体どうすれば……」
『――お呼びですか?』
「!?」
エーリカが縋るように呟いた言葉に、突如として応えるものが一人きりの本陣に現れた。
――そこには、以前見たものと同じ、赤い光を灯した、円盤のようなものがエーリカの前で浮遊していた。
「ゾ、ゾディアック様!?」
『お久しぶりです、姫様。少し所用で東大陸を開けておりまして。しばらく見ない内に随分と大変なことになっているようですね』
そう言って、円盤は中心のモノアイを軸にしてクルクルと縦に回る。
エーリカはその呑気な口調に少し腹立たしさを感じると同時に、深く安堵した。
彼女の知る限り、この円盤を使う謎の人物が現れて、何か悪いことが起きた記憶がないからだ。
かの人物は魔性の森に住んでいるらしく、今回の危機を前に連絡を取ろうと試みたことは何度もあった。
しかし今は魔性の森から離れているらしく、連絡も取れないという。
独力で解決するつもりではあったものの、心の何処かで当てにしていたゾディアックとの繋がりが途絶えたことに不安を覚えていたのは確かであった。
それがこの土壇場で急に復活したことに、エーリカは久方ぶりに肩の荷が降りたような気分になった。
「大変なこと、どころではありません! 小国の悲しき定めか、再び我が国は存亡の危機です! 何度も連絡を取ろうとしたのに、ゾディアック様は一体何処に居られたのですか!?」
それ故か、エーリカの戦姫の仮面は剥がれ、年相応の少女の如くつい声を荒らげて八つ当たりしてしまう。
『ははは、申し訳ありません。ちょっと全ての大陸を見て回っていたのです。南大陸から西大陸、北大陸まで。今は用事を全て終え、東大陸まで戻って参りました』
ゾディアックはそう言うと、その赤い光を点滅させながら言った。
『さて、姫様。私としても今の状況は余り望ましくはありません。ロムールが帝国に侵略されれば、今度は我らの魔性の森まで帝国兵が押し寄せてくるのは必定。また義勇兵として参加した、私の可愛い部下たちも死なせてしまうことでしょう。……ならば、姫様さえよろしければ、この状況を私が切り開くことも出来ます』
「そ、そんな事ができるのですか? ゾディアック様のお力を疑う訳ではありませんが、相手には魔導兵もいるのです。しかもこれほどの兵力差を覆すだなんて……」
『容易いことです。本来私は人間同士の争いに首を突っ込むつもりはありませんでした。私が介入することで戦力の不均衡を起こし、より一層混乱が激化し、東大陸が血に染まることを恐れたからです。……ですが姫様は、素晴らしい人物を私の元に送ってくださった』
「素晴らしい人物……それは、ランドルフ殿下のことですか?」
エーリカはその聡明な頭脳で推察する。
『そうです。私は彼を皇帝の座に据えるつもりです。穏健派の彼を皇帝にして、帝国の侵略と奴隷制を是とした方針を改めて貰います。そして、この東大陸に平和と安定をもたらします』
ゾディアックは声に合わせてランプをチカチカと光らせながら続けて言った。
『彼が味方についてくれたことで、私が直接戦争に介入しても、上手く状況を収める算段が付きました。これより私はロムールに完全勝利をもたらします。どうか私の指示に従ってください』
「ほ、本当にここから勝てるのですか? 我が国は……」
その根拠のない自信に溢れた言葉に、縋るように聞き返す。
『信じて下さい。私が必ず貴国を勝たせます。貴女は戦列を組み、ただまっすぐ敵軍に向かって進んで下さい。それだけで、貴女は完璧な勝利を手にするでしょう』
「進むだけ? 戦ったり、矢を射ったりもしなくて構わないということですか?」
エーリカはその理解不能な指示に首を傾げる。
『はい。むしろ余計なことは一切しないでください。貴国が戦闘に参加して混戦になると、敵味方の区別が付かなくなってかえってこちらが手助けし辛くなります。敵の矢は貴女まで決して届きません。敵の突進は貴女の前で脆く崩れ去ります。それを信じてください。ただその腰の教皇の王笏を高く掲げ、ゆっくり敵に向かって勝者のごとく凱旋してください』
ゾディアックはそう言って、エーリカの腰に取り付けられた、教皇の王笏をライトで照らす。
これは、ダンが海底からサルベージしたものをジャスパーを介してエーリカに売却したものだ。
聖教会においては特別な聖遺物であり、これを持つ者は神に祝福された選ばれし者であるという権威を持つ。
エーリカは、それを取り外して手に持ち替えたあとじっと見やる。
そして、腹が決まったのか、大きく息を吸ったあとに言った。
「分かりました……。もはや私たちにはあなた様に縋るしか道がありません。ゾディアック様、どうか我が国に勝利を……民をお護り下さい」
『お約束します。貴女は正しい道を選びました。全てが終わった時、貴女は神話の勝利を手にするでしょう』
「…………そう、願います」
この土壇場で全てを顔も知らない他人に委ねるという、捨て身に近い決断を下したエーリカは、震える手で縋るように王笏を握りしめた。




