十二話
鐘の音がなんなのか、そもそもそれは鐘の音だったのか。
全くわからない。わからないけれど……私は、変貌を目の当たりにする事になったのだ。
金属のわっかはばらりとほどけて……一瞬にして、とても精緻な蔓が編み上げられたようなわっかに変貌した。
そしてそれを頭に乗せていた魔王のしもべの、かぶり物がばらばらと崩れていき……私は何度目かわからない衝撃に襲われていた。
何よりも黒い黒い髪。
まぶしいという様に細められた瞳が開かれると、それはまばゆいまばゆい命の翠。
世界中の何者よりも整った顔立ちと、それが乗るにふさわしい見事な体。
私はこの姿を見間違えようが無かった。
だってこれは、アフ・アリスだ。
……魔王が乗っ取ったはずだ。なのにどうして。
彼がここに居る。
言葉を失い呆気にとられ、ただただ彼を見つめていた私に、アフ・アリスと同じ姿の彼が口を開く。
「君は本当に夜明けそのものだ。世界の夜明けと言ってもいい」
ジルダを夜明けと言ってくれるのはアフ・アリスだけだ。彼の夜明けだと、前にアフ・アリスが言ったのだ。
まさか、この変化した見た目でも、私がジルダだと気付いてくれていたのか。
目を見開き硬直する私に、アフ・アリスなのか、彼が目を細めて笑う。
「もうずいぶん前に、君を自由にするために、聖剣の勇者が聖剣の鞘の安否を感知できないように焼いた、胸の火傷の痕は、君のそれだ。胸と、両手と。城が崩壊し落下する中、道具も手順も足りなくて、時間も無くて、それくらいの事しか君に出来なかったあの時に、君にした精一杯」
「!」
私は言われて思いだした。ダズエルで意識を取り戻したあの当時、私には身に覚えの無い大火傷があったのだ。
それは聖剣の痣を焼くように、胸と、両手のかなりの面積に広がっていた火傷だ。
「あの当時……周りを見て、聖剣の鞘という決戦の要を、誰も君を守らない光景を見て。君を誰も助けようとしないし、君が死んでも誰も、聖剣の勇者ですらそこまで嘆かないだろうとわかった。君にとって聖剣の鞘という事は呪いに等しいのだろうと。……だから、君がそうであると誰にも気付かれないようにするために、なけなしの魔力で焼いたんだ」
それと同じ痣だ、と彼がいう。
ああ、彼はアフ・アリスだ。間違いない。
魔王の城が落下する時に、一番最後の記憶にいるのは、この緑の瞳なのだから。
「君は呪いを受けたのか。……ずいぶんと程度の低い呪いだ。これくらいならすぐ解除できる」
アフ・アリスなのだろう彼が、私に手をかざす。ふっとわずかな風が吹いたという認識しかできなかったけれど、両手を見ると人間の手に戻っていた。
「殻の心臓を持つ人。王の戴冠式を行える人。……君がそうだとは誰も思わなかっただろう」
からのしんぞう。その言葉を聞いて、私はシェーラの予言を思い出した。
ほしくずのつるぎを、からのしんぞうが持って、天の階段を上がる。
……これを意味したのだろうか。
「殻の心臓の意味が、君はきっとわからないだろう。……聖剣の鞘でなくなった人の事だ。聖剣の鞘とはすなわち、中身が聖剣である心臓を持つ人だが……聖剣の鞘でなくなった人を、聖剣を守っていた殻だった人と言う意味で、殻の心臓と呼んだんだ」
じゃあ、ほしくずのつるぎは。
どこにあるのだ。剣はどこにも無いじゃないか。
辺りを見回しても、彼をまじまじと眺めても該当しそうな物は無く……ただ金属のわっかがきらめいている。
「……ああ、ジルダはほしくずのつるぎを全く知らないのか。……千年以上前の物だから、人間は誰も知らないかもしれない。……これの事だ」
アフ・アリスはそう言うと、被っていたわっかを両手で大事そうに持った。
「これは、星紅頭の蔓器。遠い昔に、魔性を統治する王が、魔性のむやみな争いを止めるために、信じた神の力を借りて打ち出した神器だった。
これを正しい手順で被った者は、全ての魔性に命令を下せる。
それを戴冠式と魔性は言い表していて……同時に人間との約定の印でもあった。
大昔、人間と魔性は生きる場所を分け合い、関わり合いたい者だけが関わると言う約定を取り決めた。人間は魔性の領土を浸食しない。魔性は領土を荒らさないならばむやみに人を殺さない。そういう。
……だが運の悪い事に、当時のとある国の姫が、狩りの途中で見つけた黄金の鹿を欲しがり、莫大な報酬を掲示した事で、その約定が破られ……魔性と人の殺し合いが始まった。
人間側は魔性が約定を破り人を殺したという考えを持ち、約定を変えるために魔王を倒す勇者を選び……魔王の討伐にむかわせた。魔王を倒したところで、星紅頭の蔓器の所有権は人間側に移る訳では無かったとも知らずに」
……それが、アフ・アリスが最初に魔王を倒しに行く理由だったのだろう。
きっと平凡だった運命が変わった理由だ。
「魔王討伐のさなか、この神器を安置する場所に、エド・エリスが忍び込み……一滴の血を流す事無く持ち去った。この知恵を神器は認め、エド・エリスが所有者となるはずだったが……一度彼は、父に権利を譲渡した。彼の父は、人間が領土を広げても言いように約定の撤回を行い、次の戴冠式の際に、エド・エリスに権利を返還した」
アフ・アリスは大きく息を吸い込んで吐き出した。
「その後、エド・エリスがこの神器に、一度だけ行えるあらゆる願いを叶える権利で、何を願ったのかは知らない。だが……巡り巡って、私が権利を手に入れてしまった」
そう言ってアフ・アリスは周囲を見回した。そこで私も周りを見て……魔性が一匹残らず、膝をつき平伏しているのを見た。
この神器はそれだけの格が、あるのだ。
「……何を願うか。そんなものは一つだけ、大昔から決まっている」
アフ・アリスはそう言って微笑んだ。美しい、優しい、彼の本当の心を表す笑顔で。
「世界よ、別れてくれ。もう人と魔性が争う事が起きないように」
その時、高笑いがあたり一杯に広がった。
「魔王様だ」
「魔王様がいらっしゃった……!?」
高笑いがどこから響くのかもわからない中、魔性達がざわつきそして……
「さすがだ、真なる勇者、権利の所有者、戴冠した者、アフ・アリス! 全てはこの時のためにあったのだ!」
その大声が響き渡って……アフ・アリスの体が、まるで脱皮する皮か何かのように。
彼の胸が引き裂けて、そこから、彼とは似ても似つかない、いかにも魔性らしい肌色の、魔性なのだと一目でわかる、圧倒的な力を持った存在が出てきたのだった。
そして、胸の裂けたアフ・アリスは、おびただしい血を流して、どう、と倒れ伏した。




