五話
暖かな、優しい何かだった。それが胸の中にどんどん満たされていって、痛みも苦しみも遠くなっていく。それでわかった、気付かされた。
私は、これを何度も経験してきている。
多分、私は、幾度もこの胸の激痛で、……死の淵に立たされ続けてきていたのだろう。
それを、この優しい何かはそのたびに、引き戻してくれていたのだ。
その事を口に出せなかったのは、私が女で彼が男で、そういった感情のやりとりをする間柄では無くて、だからだったのだろう。
私はそっと彼の服をつかんだ。怒る気も、ぞっとする気持ちにもならなかった。
彼は全てわかっていて、知られた時に裏切られたとか、咎められたり、怒り狂われたりする事すら想定済みで、だから私の意識がある時は、何もしなかったのだろう。
彼は私の友達で、私は彼の友達で。
裏切りたいと思わなくて、でも死ぬ事はどうにか阻止したくて、彼はこの方法を繰り返し続けたのだ。
そう思うと、次に思えたのは、彼ならいいか、と言う受け入れる感情だった。
ほかの誰かだったらおぞましくて気持ち悪くてたまらない。
でも、この人なのか魔性なのか、それとももっと違う何かなのかもわからなくなった相手なら、私はこのふれあいを受け入れられた。
彼はそれくらい、私を大事に思ってくれているのだから。
そうやって受け入れて、体の力を抜いていく。アフ・アリスは危ない事はしない。アフ・アリスは私に酷い事なんて一つもしない。
だから大丈夫。
そう思った時だった。
胸に何かがたまっていく感覚が、一気に早まって、体の中に何かができあがっていく感覚が、芽生えたのだ。
それは作り出される痛みというのか、先ほどまでの、壊されたり欠けさせられたりする感覚と違う、安心できるけれど痛いものは痛い、と言う感覚だった。
その痛みが怖いと思って、きつくアフ・アリスの服を握る。そんな私の背中に優しい手が添えられて、そっとなでられた。
私はここで、君に何一つ怖い事などしない。
そう、力加減ですら知らせてくる人に、私は安心して、彼に体を預けてそして。
胸の痛みが終わった時に、彼が唇を離して、私の目を見てこう言った。
鮮やかすぎるほど鮮やかな、毒のようにも、新緑のそれにも見える、命の翠が宿った瞳が、私の体の中の、内臓では無いどこかを見つめて、言う。
「いとしいしんぞう、せいなるつるぎ、君の新たな名前を告げよう。君のその名は、我が友ジルダ。私の夜明けのその名前」
優しい声が、それでも明瞭な断言である響きが、私にそういう。そうだったのか、私は彼の夜明けというなんかとんでもない物だったのか。
それはあの日、あの病室で友の夢を始めた時に始まった事だったのか。
そう思いながらも、もう私は、ジーナじゃなくていいな、と思えたのだ。
聖剣の鞘で、ヘリオスの婚約者だったジーナじゃなくて、ただのジルダで、ジルダとして隠れないで、生きていってもいいんだ、と素直に思えたのだ。
そしてその感情が、自分で納得できたその時。
とくん、と体の中で、何か大事な物が脈打った。
それと同時に、今まで外に出ていた何かとのつながりが、ぶちぶちと切れていくのも伝わってきた。それがどういう意味なのかはわからなかった。
でも、確かに、私は、欲しくなかった何かとのつながりが引きちぎれた事を理解した。
これは呼吸がとても楽になる感覚を伴っていて、大きく息を吸うと、もう久しぶりなほど、空気がすがすがしく感じられたのだ。
「……おはよう、ジルダ」
「今は夜だけれど」
「そうだったな」
アフ・アリスがそう言って、ちょっと強めに私を抱きしめてくる。でも、潰れないように気をつけているのがよくわかる、そんな抱きしめ方だった。
「すまない」
「なにが?」
「君に無体な事をした。女性は口づけに大事な物を持っていると知りながら」
「大丈夫だって、生かしてくれたんでしょう。それがどうしても必要だったから」
「ほかに方法があったかもしれない。神殿に助けを求めればもっと早いかもしれない、なのに私はそうしなかった」
「それは私の神殿が苦手だって言う思いをくんでくれたからじゃないの。大丈夫、怒ってないし傷ついていないし、不愉快にも思ってない」
抱きしめ返すために、手を背中に添えると、アフ・アリスが泣きそうな声で言った。
「君は優しすぎる。その優しさが、いずれ君を殺してしまいそうなくらいに」
「私は優しくは無いって。あなたが優しいから、その優しさを返しているだけだと思うんだけど」
「私はえこひいきが過ぎる男だ」
「そう言いつつ、村の誰もが信用するあなたは、本当にお人好し」
「褒められていないのは伝わってくる」
私は彼の胸の中でくすくすと笑えた。こういう心から笑えた気持ちなんて久しぶりだった。
いつぶりだろう。もうずっと胸が痛くて、うまい笑い方を忘れていたから。
「ねえ、朝になったら村に戻って、ちゃんとさようならの挨拶はしよう。それくらいはした方がいいし、いきなりとんずらしたら、皆心配してしまうから。余計な捜索をさせるのは悪いでしょう」
「……そうだったな。でも君は、必ず私から離れないでくれ。……村の外から来た集団は、礼儀という物があまりにもかけている集団だったから」
「あなたでもそう思うんだ」
「いきなり、君はいくらだの何だのと声をかけられてみろ。不快極まりない」
「私への言葉と同じくらいの最低さだ」
私の言葉にアフ・アリスは頷いた。
「……そうかもしれない。さあ、もう寝てしまおう。夜明けが来たら、村に一直線に戻れ、ば……」
アフ・アリスがそう言いかけた時だった。
どんっ、と。
私でもわかるような、重圧が辺りに広がったのだ。
アフ・アリスが視線をどこかにやる。それは村の方角なのだろうか。
そんな事を少し思っていた時だ。
「いけない」
彼は呟いた。
「村に、五王が迫っている」
「……え?」
星の術と、花の術で寄ってこないはずの魔性の襲撃を、彼が感知していた。




