七話
手紙をしたためるという行動と、そして無理をして長い通路を歩いていた事がたたったのか、それとも思った以上に彼の体は牛の魔人の攻撃で損傷した後だったのか、ヘリオスは元居た特別病室に戻ろうとする途中、目を回して座り込んでしまった。
「……うう」
目が回り、ぐるぐると世界が回り、足元がふわふわとおぼつかなく、そしてこの感じは怪我の結果の発熱の状態である。
今までの長い旅路の間は、常に癒しの力を持つあれこれを着用していたため、これしきの事で、こんな風に座り込む事などなかったが、まさに自分は、装備品におんぶにだっこの状態だったのだろう、とヘリオスは苦く笑いたかった。
笑う体力もなかったのだったが。
どっと襲い来る疲労感に目を閉じる。そのまま意識が、暗く染まっていった。
耳に響き渡る何か大規模な喧噪の音。それらに混じる魔力の放出の響き。明らかに異常事態だ、とヘリオスの感覚が訴えて来て、彼はそこから飛び起きた。
反射的に腰の神剣を掴もうとして、手が空を切る。ジーナの心臓はここにはないのだ、と一瞬だけ寝ぼけたヘリオスの頭が、即座に怒鳴り散らす。
通路の柱の陰にもたれかかり、目を閉じていたヘリオスに、走り逃げ惑う人々は誰も気付かない様子で、彼等は悲鳴を上げている。
「魔性の軍団だ!」
「どうして!! こちらには勇者様たちがいるのに、どうして立て続けにここに攻めてくるの!!」
「外壁が破られた!! いかなる石巨人たちも通さなかったダズエルの外壁が!!」
「こんな時に、勇者様はどちらに!!」
「お仲間たちもいらっしゃらない!!」
「まって、まさか婚礼のために帰ったとか言わないですよね!!」
「死にたくない、誰か助けて!!」
「聖なる印がある建物に逃げ込め!! さすがにそこにまで魔性たちは来ないはずだ!!」
その言葉たちが頭に巡り、ヘリオスは目を見開き立ちあがった。魔性の軍団が撤退したのは昨日の昼頃で、今は夕暮れに近いはずだ。
魔王から取り戻した空の色で判断する。ヘリオスは人々の走る方角とは逆を目指し、そして目立たないように走り出した。
再び襲って来た魔性たちは、戦う力もすべもない、抵抗の手段を持ち合わせていない町の人々を思いのままに殺しまわり、血まみれで猛っている。数多の悲鳴、あまりにも多すぎる苦痛の叫びに恐怖の声、それらを聞くだけで頭がおかしくなりそうな物がそこには広がっており、ヘリオスは耳をふさぎたくなった。
だが自分は勇者だ。彼等を助ける事が役割だ。
だが、剣がない。戦うための武器がどこにもないのだ。
だれか、だれか、武器になるもの貸してくれ!! ジーナの心臓が見つからないままなのだ!!
ヘリオスは誰彼構わずそう言いたかったが、そんなに都合よく武器が落ちているわけもない。
しかし、自分は勇者の肩書を持つ、戦いに身を投じる役割を持った男なのだ。
何としてでも、魔性たちの軍団を、町から追い出す事に死力を尽くさなければならない。
『勇者は旗頭なんだよ。勇者が折れたら誰も立てなくなる。ヘリオス、だから絶対に、私は折れないから、あなたも折れないで』
走りながら、遠い昔に、言われた言葉が頭の中に蘇る。それはジーナが、出会ってすぐに、まずはお互いを知ろう、という神殿の判断で二人きり、庭園を歩かされた時の事だ。
見目だけはいい、整った顔立ちのヘリオスを見て、目を丸くして頬を染めた、普通の、飽きるほど見てきた反応のジーナを見て、最初はこの女も同じなのだ、とヘリオスが思った矢先の事だった。
聖剣と勇者のあれこれを話していた時、ヘリオスは問いかけたのだ。
「聖剣がつかえなくても、勇者と呼ぶにふさわしい心の人はいくらでもいるのに、どうして彼等を重んじないのだろうか。君はどう思う?」
意地悪な問いかけである、聞けばこの少女は、あまり恵まれない育ちをしていて、世界の事もあまり詳しくないし、神殿に見いだされてからはかなり訓練漬けで、しかし訓練の中で突出した物を発揮できなかった“出来損ない”だという。
そんな少女に、こんな事を言ってどうする、と思う自分と、こんな少女と婚約する事がどうしようもなく嫌で、厭味にいじわるな事を言ったつもりだったのだ。
彼女は聖剣の鞘である。彼女の胸に宿る聖なる印が、自分の右手に浮かび上がる印と同じだから、彼女こそ自分が振るう聖剣の持ち主だとわかっても、あまり仲良くしたくなかった。
ヘリオスは自分の見目の良さや、求められている振る舞いを知っていて、それらを貫くためには、何か素敵なご褒美が欲しいと思っている、普通の少年だったのだ。
あの時は幼過ぎた、とヘリオスは反省していたが、彼女は平凡な顔で、じっとヘリオスを見て、そう言ったのだ。
絶対に私は折れないから、あなたも折れないで。
それは、ヘリオスの肩にのしかかる数多の重圧の事を示しているようにも、これから始まる過酷極まりない戦いの旅が、終わらなくても諦めないで、と言うかのような言葉で、そしてヘリオスが恥ずかしいと思うほど、勇者の考え方だったのだ。
あの時、硬直してしまったのだ。彼女の覚悟が、見えたから。
彼女の方がきっと色々な物がのしかかってきて、重たくてたまらないはずで、ただの少女だった彼女の方が、恐ろしいはずで、そして聖剣の鞘である以上、自分の心臓を聖剣とし戦う恐怖は、並の物ではないはずで。
しかし、彼女は勇者は旗頭で、それを最後まで支える、と言外に言っていたのだ。
それだけの覚悟が、果たして自分の中にあったか。ヘリオスは考え、そしてないという事実に言葉を失ったのだ。
彼女は間違いなく、ヘリオス以上に“勇者の心”を持っていたのだ。
そして、見た目云々などどうでもよく、この言葉を聞いた時の頼もしさに加えて、ヘリオスは自分が恥ずかしくなったのだ。
彼女の隣に立つのに、あまりにも自分は心構えがなっていない。
彼女位勇者でなければ、“真の勇者”と呼べる存在にはなれない。
そして何より、彼女の隣に並ぶ事が、どうしようもなく恥ずかしかった。
彼女は聖剣の鞘として運命に選ばれているのは、間違いない。
でも、割を食った運命で、ヘリオスのように崇め奉られる事などほとんどない立場で、でも、勇者を支える言葉を知っていた。
ゆえに、立ち止まったまま動けなくなった自分を、不思議そうに見つめて来る彼女に、ヘリオスは誓ったのだ。
「君に似合う、一番素晴らしい勇者になるから」
折れたりしないで、そばにいてください。
思えばあの時、ヘリオスの心は、ジーナに預けられたのだ。
ヘリオスは、どこかに使えそうな武器がないかを探しながら、人々とは逆の方に進み、そして何も見つからないから、舌打ちをして……近くで悲鳴が響き渡ったため、そちらに目を向けた。
そこでは、子供たちが鎧の魔性に切りつけられそうになり、必死に逃げまどっている様子だった。
数人の子供が倒れている。ヘリオスはその時、ふと、ジーナだったらどうするか、と思ってしまった。
ジーナだったら、なりふり構わずに、あの間に割って入って、起死回生の一手を取る。
勇者とは最後まで希望を失わない存在であるべきで、たとえ武器がなくても、己の魔術で道を切り開く存在だ。
ジーナに恥ずかしくて顔向けできない人間にはなれない。たとえ黄泉の果てで再会したとしてもだ!
ヘリオスはそう思い、全力で走り、魔術の言葉を唱えて、思い切り強く、凍結系の魔術を、その鎧の魔性たちに叩き込んだ。
鎧の魔性は元々、凍結系にも燃焼系にも耐性がある。だがある程度の動きは封じられる。その間に子供たちを聖なる印がある建物に走らせる。
ヘリオスの頭はそう計算し、子供たちを見て怒鳴る。
「聖なる印がある建物に、早く走って!!」
「は、はい……!!」
子供たちが、仲間を連れて走っていく。あちらは寺院の聖堂で、聖なる印は間違いなく描かれているべき場所だ。
そこは、今きっと、人々が押しかけ、すごい人口密度かもしれないが、行かないよりはましだと思えた。
ヘリオスは凍結系の魔術で、動きが鈍くなったその鎧の魔性を蹴飛ばし、その手から剣を奪い取り、勢いよく一刀両断した。
じじじじ、と嫌な音を立てて、剣の柄が煙を上げているのは、聖なる勇者と魔性の剣は相反するものだからかもしれない。
だが他に武器がない。落ちてもいないし、寺院の武器庫など場所がわからない。
だから今は、これしかない。
ジーナの神剣もない、戦うにはこれだけだ。
それゆえに、ヘリオスは、魔性たちを睨み、魔性の剣を握る自身の右腕に、何か得体のしれないオーラが巻き付きだすのも無視して、魔性たちに向って行ったのだった。




