五話
「立ってヘリオス!!」
二度と聞く事は叶わないと思っていた、途方もなく体に力を沸かせ、絶望を薙ぎ払う声が、その時に聞えた。
永遠に聞く事は叶わないと思っていた声だった。その声を聞けば、いついかなる絶望的な状況にあっても、起死回生の選択肢を取れるとまで思っていた、それだけ彼の体に力を沸かせ、耳元に甘く終焉の息を吹き付ける、死神を振り払うだけの気力を生み出す声が、確かに、ヘリオスの耳に届いたのだ。
ああ、彼女がまだあきらめていない。
ぼやけた意識の中で、彼はそんな事が頭の中に浮かび上がってくる。
そうだ、まだ、彼女が。彼女が立っている。
ヘリオスが想像もできないほどの激痛に、身をのたうち回らせたくなっても、立っている、あまりにもまばゆい彼女が、どんな時でも絶対に、諦めない彼女が、逃げの一手を打つ時だって、何が何でも、生きるという事をあきらめない彼女が、立っている。
ああ、立ち上がるだけの力を、いますぐに。
僕の魔力よ、今一度、この体を癒し、彼女の前に立ち、彼女を守るだけの力を。
牛の頭をした凶悪な魔人との、あらゆる意味での力の差で、どうしようもなく諦めかけていた心が、頭が、思考回路が、魂が、彼女の声を耳にした事で、諦めまいと吼え始める。
立つための力を、彼女の“勇者”に相応しいだけの根性を、今すぐに。
そう思っても、体を守る鎧も、盾も、兜も、そしてこれだけはと握りしめていた神剣も、手元にないせいか、回復の速度が恐ろしいほどのろまで、それでも立ち上がるだけの力がわいたならば、彼女の前に立ちはだかり、彼女に笑いかけるのだ。
何時だって、彼女が隣に並ぶにふさわしい勇者でありたくて、彼女が隣で笑うのにふさわしい男でありたくて、そうふるまい続けて、血で血を洗う戦いに身を投じているのだ。
だから、彼女が戦っているなら、絶対に僕は、倒れたまままんじりと死を待つなど、認めない。
体の中の魔力を急速に、回復に回していく。剛力極まりない牛の頭の魔人の攻撃の結果、いたるところの骨が粉砕していて、立ち上がるほどの回復が追い付かない。
それでも、それでも、それでも。
彼女がいるのならば、絶対に、絶対に、何が何でも、彼女だけを戦わせるなんて事はしない。
彼女はだって弱いのだ。彼女の心は勇者を上回るほど希望を捨てず、そして諦めが悪く、時にずる賢く、生き延びて起死回生の手段を探す、という事に特化しているけれども、肉体ばかりは、他の誰と比べても、ただの人間程度の弱さなのだ。
いくら彼女の心臓を、聖剣として取り出した結果、彼女の体が平凡よりは頑丈になったと言っても、それにも限度があるのだ。
ヘリオスという、勇者と比べたら、彼女はとにかくか弱いはずなのだ。
だから、だから。
彼女を守るための力を、今、神よ、与えてくれ。
ヘリオスは最大の速度で体を癒していく。元々それらに特化したわけではない勇者の回復速度は、願うほど早くないのだ。
それでも、ヘリオスは、立ち上がるために、力を尽くして、そして。
「哀れな恋する乙女、勇者とともに死んでもらおう!!」
立ってくれ、お願いだ!!
彼女を守れない、彼女の盾にもなれない、いいや、彼女の性分を考えると、自分の盾になろうとしてしまう!
彼女を再び失うかもしれない、というその恐怖が、絶望が、はらわたを氷点下まで冷やすほどのおそろしさが、全身を包んだその時。
目を閉じて、回復に集中していたヘリオスでもわかるほどの、何者か、そう、とてつもなく強大な力を持っている何者かが、飛び出してきたのが、空気から伝わってきた。
そして殴打音が響き、何か重たい物が、思い切りよく吹っ飛ばされる音と、建物か何かに叩きつけられて、建物が崩落する音と、肉と骨がひしゃげる音に似た物が響き渡ったのだ。
だれが、ああ、ありがたい、彼女を助けてくれて、ありがとう。
それを言おうとしたのに、無茶な回復をしようとした結果、魔力が枯渇し、意識が急速に薄れていく。
待ってくれ、まだ、彼女をこの目に見ていない、彼女の笑う顔を見ていない、彼女のさしさす手を握っていない。
そういう思いに駆られたというのに、意識はぶつりと切れて、何も見えなくなり、何も考えられなくなり、真っ暗の闇の中に、ヘリオスの意識は落ちて行った。
「ヘリオス!」
夢を、見ていたのかもしれない。
ヘリオスは、ぼやけた意識で瞳を開き、自分を見つめる仲間たちを見やった。
そこに、生きていたら絶対にいるべき彼女の姿がない。
「……じー、なは」
ヘリオスがかすれた声で言うと、仲間たちは口を閉じた。顔がこわばっている。
「ねえ、夢でも見たの? ジーナはあなたに神剣を与えて、死んじゃったじゃない」
そう言ったのはシンディだった。彼女は、魔法使いという能力を駆使して、探索魔法を使って、ジーナの遺体を探してくれて、彼女の遺体がもはや回収不可能な程損傷しているという事を伝えてきた。
それを疑った事は、今まで一度もなかった。それほど彼女の探索魔法は正確無比で、そして嘘を言う理由がなかったと思って来たからだ。
それだというのに、どうしてこの現在、シンディの言葉が嘘めいたものに聞えているのか。
「ジーナの声が、した……」
「ジーナは死んだのですよ、ヘリオス様。魔王の居城の崩落に巻き込まれて、彼女は死んでしまったでしょう?」
痛ましい、と言わんばかりの声でリリーシャが、ヘリオスの手を優しく包み、心配しきりの顔で彼をの顔を覗き込み、そう伝えて来る。
だがヘリオスはその死を認められなくなっていた。
「彼女が、魔性から、時間を稼いで、くれた。彼女の声がして、彼女が来て、生かしてくれたんだ」
「そんな事はありえまないよ。ヘリオス。だってジーナの聖剣は一度、魔王との戦いで木っ端みじんになって、その後神剣として覚醒したじゃない。心臓が砕けたのに生きているなんて、あり得ないでしょ」
「しかし、あれは、ジーナの声だった。何時だって、力をくれる、強い声が……」
「ヘリオス様、私達の方をよく見てくださいな」
リリーシャがそう言い、ヘリオスはその顔を見る。リリーシャの、それはそれは美しい顔を、見た。
その顔を見ていると、だんだんと現実がはっきりとしてくる気がした。
そうなのだ。ジーナの聖剣は目の前で、魔王の攻撃を何度も耐えしのいだけれども、魔王が隠していた最終奥義で、ヘリオスを守るように砕けたのだ。
だから、ジーナが生きているわけが、ない。
その事実はあまりにもはっきりしていて、ヘリオス自身もわかっている。
だというのにどうして、心の理性的じゃない部分が、こんなにも、ジーナは生きていて、助けに駆け付けてくれた、と思うのだろう……
ヘリオスが黙ると、リリーシャを含めて、シンディもウテナも、彼を抱きしめて来る。
「私達が駆けつける前に、あなたは走馬灯を見たのですよ、そうに違いありませんから」
リリーシャがいたわるような声で言う。そうだとは思う、だが、だが。
「ジーナが、確かにあそこにいたんだ」
そして、婚約者が、どういう方法を使って生き延びたのかはわからないけれども、生きているなら答えは一つ。
「リリーシャ姫。僕は、あなたと結婚できない」
「……え?」




