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第一部全文掲載

第一部を、全文掲載しています。

胸の奥が痛い。いいや、痛いのは、痛いのは、私の本当に心臓なのだ。

何度も物理的に胸を襲う、この気を失う事も許してくれない激痛は、私の心臓……聖剣を、婚約者であり七人目の勇者であるヘリオスが、魔王に向って振り下ろしているからだ。

魔王の方もただ負ける事はないから、聖剣とぶつかり合うだろうし、その衝撃が、心臓の持ち主であり、鞘である私に襲ってきているのだ。


「っう……」


鞘の人間……つまり聖剣である心臓の持ち主が死ななければ、聖剣は折れない、という事はよく知られた話だけれど、聖剣が攻撃などに耐えられずに、折れたら、鞘の私は死ぬのだ。

私は勇者を見出す神殿で、何度も何度も言われてきた。

神官たちの言葉が、耳の奥に蘇ってくる。飽きるほど聞いた言葉たちだ。


「あなたが死んではなりません。死ねば聖剣は消滅し、聖剣をもつ勇者の死につながるからです。そして、魔王を倒す事が出来るのは、聖剣を持つ勇者とその加護を受けた仲間たちのみ。あなたは死んではならないのです」


「あなたはやすやすと死んではなりません。あなたが斃れるという事は、勇者が一人いなくなるという事なのですからね」


「勇者が魔王と戦うために、聖剣はなくてはならない武器。それの鞘であるという自覚を持ち、命を大事にしなさい」


生まれ故郷の村で、父親が誰かわからない、おそらく旅人だろうと言われて、つまはじきにされていた私にとって、私を見出した神殿の神官たちのいう事はとても大事だった。

だから、神殿で、血を吐くような訓練を受けて、今日、この日……魔王と勇者一行が戦う日を迎えたのだ。


聖剣を持った勇者。それこそ、魔王に侵略されたこの世界の希望だ。

勇者は聖なる光の力を持ち、自分と共鳴する聖剣を持つ事で、仲間たちに光の加護を与える事が出来るとされている。

勇者単体でも、並の人間とは思えない戦闘能力を持つけれど、聖剣を持った勇者というのは、もう、人間たちの希望の光になる位、強くなる。

その、勇者を支える、聖剣は、ただの刀剣じゃない。



聖剣は、鞘という特殊な体質の人間の、文字通り心臓なのだ。



勇者と鞘は深い関係があり、それはいまだ解明されていない謎だけれど、勇者の右手の痣と同じ痣を、胸に持つ人間の胸から、勇者が光の力で取り出した剣こそ、聖剣だ。

胸に意味深な痣がある人間は、発見次第、神殿が速やかに確保する事になっていて、同じ形の痣を持つ勇者を探しだし、聖剣を取り出す事が重要視される。

私が神殿に拾い上げられたのも、胸にそういう痣があったから。

月のものが来たその夜、胸に痣が浮かび上がり、それを見つけた村人たちが、報奨金欲しさに神殿に知らせた結果だ。

そして私は、自分が勇者の聖剣の鞘であると知らされて、己の胸から聖剣を取り出せる勇者を待ちながら、訓練を続ける生活になった。

聖剣の強度は、鞘の強度に比例する。鞘が病弱だったりすると、聖剣もまた折れやすい。

鞘が魔法に秀でていれば、聖剣は魔法の力を帯びるし、戦闘能力に優れていれば、時に勇者に助力する聖剣になるという。

そして強度も増すのだと。

だから私は、魔法の訓練も受けたし、戦いの訓練も受けた。でも。

魔法の才能も、戦いの才能も、私にはてんでなかった。

そんな私の聖剣の数少ない長所は、強靭性。私が歴代の鞘の中でも、特に耐久性に秀でた、頑丈極まりない鞘だから、聖剣もその特徴を継ぎ、並外れた耐久性の聖剣になった。

その耐久性の高さから、私の婚約者となった勇者ヘリオスは、他にも何人もいる勇者たちの中でも特別視されて、彼とその仲間こそ、魔王を倒す中心的存在になるだろう、と目されたのだ。

折れない聖剣というのは、他の特徴をしのぐほど、要になりうるのだ、と私はそれを聞き知った。

これまで何度も、勇者とその加護を受けた仲間たちと、鞘は魔王に挑んできた。

しかしそのたび、聖剣は折られ、勇者と加護を喪ったその仲間たちは、魔王とその配下たちに、殺されてきたのだ。

だから、人間たちは、各国の王は、なんとかして聖剣を強化し、魔王と戦っても折れない聖剣を求めてきた。

その条件を満たしたのが、私の心臓なのだ。

並の聖剣をはるかにしのぐ強靭性と耐久性。竜の牙に全力で噛みつかれても、刃こぼれ一つしない、あり得ないと言われるほどの頑丈な聖剣。

それが、私の、心臓でありヘリオスの聖剣なのだ。


「っ……う」


私は地響きを立てて揺れている、魔王の居城、古には天空の神々の神殿だった場所で、膝をつく。

胸が、いたくて、いたくて、涙がぼろぼろこぼれて、言葉なんて一個も出てこない。

そしてここには、それを見る仲間たちはいない。

ヘリオスはお人よしだから、私が痛みにうめいていたら、聖剣をふるえない。

だから、戦いになったら私はすぐに離脱して、聖剣との接続がぎりぎり可能な距離まで、退避する事が打ち合わせで決まっていた。

ここで私の想定外だったのは、彼の仲間たちの誰も、私を守るために一緒に退避してくれなかった事だった。

……まあ、知っている。ヘリオスは見目麗しい赤毛と金色の眼の男の人で、誰にでも親切で、笑顔が似合う人で、彼の仲間たちは、私を守るよりも、彼と戦う事を選びたくなってしまうのだ、という事くらいは。

それに、私は、彼の女の仲間たちから嫉妬されているって事も、分かっていた。

勇者と鞘は切っても切れない関係を持っているから、どうしたって特別な間柄になる。

そのため、勇者と鞘を婚約者として扱うのは、遠い昔に始まって以来、お約束になった。

その遠い昔からのお約束で、私というあまり見目の良くない奴が、誰からも愛されるヘリオスの婚約者になった事に対して、彼の仲間たちは嫉妬していた。


「……」


胸の痛みが一層ひどくなり、私は崩壊が進み始めた魔王の居城のとある広間で、倒れ込んでしまった。もう、立てない……。このまま崩壊する場所にいたら、きっと死んでしまうのに。

どうしても、足が動かない。体が起き上がろうとする事を、してくれない。

頭は必死に、立て、立て、と思うのに。

そこで、痛みとともに襲ってきたのは、彼の仲間たちが、私に敵意を持った視線を向ける光景だった。


『あんたなんかが、鞘ってだけでヘリオスの婚約者だなんて信じられない』


『ヘリオス様が魔王を倒したら、あなた、身を引いてくださる?』


『そうそう、ヘリオスにはあなたよりももっと相応しい……私達みたいな女性が隣に立つべきなの。あ、安心してね、魔王と戦う時は、ちゃあんと、あなたを戦場から遠くへ転移させてあげるから!』


ヘリオスの幼馴染の、神殿に来るまで支え合っていたという剣士のお嬢さん。

ヘリオスに魔王の牢獄から助けられた、聖なる大国のお姫様。

ヘリオスとともに訓練を受けた、魔法の卓越した貴族の女の子。

彼女たちとは、出来るだけ交流を持つようにしたけれど、ヘリオスの婚約者という肩書の結果か、彼女たちと仲良くなる事は叶わなかった。

そして、決戦前夜、ヘリオスが寝ている時に、彼女たちにそう言われて、私は何も言い返せないで、頷くしかなかった。

……ヘリオスに相応しくないなんて、自分が一番よく知っているよ。

だから、言い返せなかった。彼女たちはそれぞれ見目麗しくて、ヘリオスと並んだ時に、誰が彼の本命なんだって、からかわれる光景も、見慣れた物だったから。

胸が痛い、心臓があった場所がとてもとても痛い、涙も出なくなってきた、呼吸も辛いほど痛い、でも。


「聖剣が、折られるわけには、いかない……」


聖剣が折れたら、聖剣が宿す加護の力も失せる。それはすなわち、勇者の敗北だ。

倒れたまま、もう、立ち上がれないほど痛くてうずくまる私の耳にも、ヘリオスたちを送り出した後にやってきただろう、勇者援軍の声がかすかに……とてもかすかにだけど、聞こえている。

きっと彼等と合流できれば、守ってもらえるだろう。

でも、立てない。立つ事も出来ない。

心臓が取り出されて、剣として振るわれる痛みは、鞘にしかわからないモノで、理解してもらうことの難しい物だ。

でも、私が生きていれば、ヘリオスたちを守れる。

……何とかして、勇者援軍と合流しなくては。

私は何度も死に物狂いで息をして、立てないと悲鳴を上げる体に鞭打ち、全身の力を使って立ち上がる。立てた、なら、歩ける。

そう、思った矢先の事だった。


「……嘘……」


私が目にしたのは、魔王のいる場所への、最後の関門だったとある存在が、消滅せずにうずくまっている様だった。

その存在は、とても強くて、魔王と同じかそれ以上ってくらい、強いんじゃないかって思うほど強くて、その存在が地響きを立てて倒れた時、ヘリオスたちは満身創痍のぼろぼろのあり様だった。

死人が出なかったのが不思議なくらいの、痛めつけられ方だった。

だから急遽、ここでは使う予定のなかった精霊の涙という、最強の回復薬を使う事になったほどの強い相手だった。

私が一人で、どうにかできる相手じゃない。どうしよう、隠れる俊敏さなんて、今の私は持っていない。

その存在が、私を認識したら、きっと、殺される……!!

引きつって固まった私とは違い、その存在は、よろよろと立ち上がり、持っていた剣を支えに、ずるずると体を引きずって歩き出している。

私はその存在が進んでいく方向を目で追いかけて、はっとした。

そっちは、勇者援軍が進んでいるだろう、魔王の居城の正規ルートじゃないだろうか?

だめ、そっちに行かせたら、きっと満身創痍の状態でも、勇者援軍の方が、倒されてしまう!!

たとえ弱り切っていても、あの存在はそれをなしえてしまう、と思うほど、強かった。

迷う暇なんてなくて、私はありったけの力を振り絞り、叫んだ。


「そっちに行かないで!!」


ぴくり、とその存在が立ち止まる。

そしてのろのろとこちらを見て、その、目だし帽の中の緑の目が、私を映した気がした。

私は、必死に懐を探って、ありったけポケットを探って、一つの瓶を取り出して、それを相手へ突き出して、こう言った。


「そっちに行かないでいてくれたら、秘薬をあげる」


……本当は、私が死にかけた時に使うべき秘薬で、その時が来た時のために、大事にとっておいた飛び切りのもので、分かってる、敵に使う物じゃない。

でも、これ一つで、たくさんの勇者の命を結果的に助けられるなら、安い。


「そっちに、進まないで」


必死に喉と肺を動かして、やっとの思いで私がそう言うと、その存在は、のろりと方向を変えた。

だから、私は秘薬の瓶をぶん投げて、相手がそれを受け止めて、のそり、のろり、と勇者援軍が来るのとは違う方へ、進んでいくのを見送った。完全に、相手が背中を向けた時。

そこで、不意に。そう、とても唐突に、魔王の居城の崩壊が、加速した。

まるで、居城に流れていた魔力が全て、断ち切られたように。

その崩壊の速度はあまりにも早く、床はがたがたと揺れて立てなくなるし、私は足がもつれてまた床に強かに体を打ち付けた。

壁が崩れていく。床が壊れていく。

……ヘリオスたちが、きっと、魔王を倒したんだ、と漠然とした直感が、私にそう知らせてきた。

それからもう一つ。


「……私、生き埋め確定か……」


ここには私を助けてくれそうな相手は誰もいない。私はもう、一歩も動けないくらいにあらゆる場所が痛くて、歩けそうもないほど辺りは揺れている。

勇者援軍と合流する事も出来そうにない。

魔王の居城が、まさかこのまま地上へ落下するのかと思うと、もう、生存できる確率は絶望的としか言いようがないだろう。

最後にした事が、敵に秘薬を渡す事だったなんて、皮肉でしかないだろう……

ぼろぼろと城の破片が落ちていくなか、私は、なんだかとても疲れて、目を閉じようとして……さっき秘薬を渡した相手が、私の脇に膝をついているから、馬鹿だなあ、と思いながらこう言った。


「逃げなよ、このお城はもう、壊れてしまうから」


秘薬を飲んでさっさと逃げなよ。それをどうにか言った私を、相手は緑の目でただ、じいっと見ていた。

綺麗な目玉だな、魔王のしもべだなんて思えないくらい綺麗な目だ。そんな事をぼんやりと考えながら、私は今度こそ、ゆっくりと目を閉じて、それから意識がなくなった。





「……すごい回復力だ」


「でも……胸の火傷は……」


「いったい魔王に、どれだけひどい目にあわされていたのだろう……」


……そんな声が聞こえてきて、私は目を開けた。

開いてから、ここ何処だろう、と本気で思った。だって見覚えなどなかったから。

私の知らないどこかの建物の中で、魔王が侵略してからどす黒い色になっていた空が、澄み渡る青空である事が、カーテンの向こうのガラス窓から見えていて、私の最後の記憶とあまりにも一致するものがない。

ここは一体……

目を開けて、頭の中を巡らせても、なかなか答えにたどり着かない。私はそこで、自分の手を動かして、手が包帯で覆われているから、手当が出来る場所なのだな、と判断した。

包帯は清潔な布を使っていて、戦場とかで仕方なく使うぼろきれとは違う処理がされているものだ。

いい包帯を使ってるな、と思った矢先の事だった。


「あ、あなた、目を覚ましたのですね!」


私の寝台の周りを覆う垂れ幕が持ち上がって、一人の尼僧が顔をのぞかせたと思ったら、その尼僧が喜んだ声を上げた。


「ああ、良かったです。もう何日も眠っていらして……医療神官の皆さまも、出来る限り治療してくださったのですが……目を覚まさないので」


尼僧はうれしそうな声を上げて、私の横たわる寝台の脇に来て、こう言った。


「あなたのお名前を、お聞かせ願えないですか?」


「……」


私は声を出そうとして、肺が痛くて、顔をしかめた。それが伝わったんだろう、尼僧が気が付いたように言う。


「まだ、どこかが痛むのですね? 無理をなさらないでください。あなたは、生きているだけでもとても運がよいのですよ」


どういう事だろうか。私は、崩壊する魔王の居城のあの最後の関門と言われている広間で、勇者援軍に救助されて、ここに来たとか、そういうのじゃないのだろうか。

そんな疑問がありありと顔に出ていたのか、尼僧が続けた。


「あなたは、魔王の居城の落下した場所の近くの泉で、倒れていらしたのですよ。着ているものなどもぼろぼろで……見つけた勇者援軍の方たちは、きっと魔王の居城の崩壊に巻き込まれた、とらえられていた人間の一人だろう、と推測していました。魔王は数多の美姫を攫っておりましたから、その美姫にお仕えしていた人の一人だろう、とも……ああ、無理をして起き上がらないで! あなたの胸の大火傷は、本当にひどいのですよ!」


何やらかなりの勘違いをされている様子だ。でも喋るのがつらい今、勘違いを訂正する事も難しいだろう。

私は起き上がろうと四苦八苦して、尼僧に止められながらも、なんとか寝台の上に置きあがった。

そして一番包帯で覆われている、自分の胸を見やった。

……胸に一体いつ、私は火傷を負ったんだろう? 記憶にある限り、火傷をしたという事実はない。

ひとりでに火傷を負うなんて事はないから、何者かの介入があるはずだけれど……そういう記憶もあいにく、なかった。

両手も包帯で覆われていて、かなり包帯人間状態みたいだ。

そんな風に、自分の手とか胸とかをしげしげと見ていたからだろう。

尼僧が続けた。


「倒れているあなたが発見された時、あなたは両腕に火傷を負っていて、服の胸の場所が大きく焦げていて、胸の大部分が、火傷でただれた状態でした。幸い、勇者援軍の方の中に、腕利きの治癒術者がいたので、応急処置を施して、ここ、ダズエルの町まで運んだのですよ」


あなたの身元の分かるものは何一つなくて……と尼僧が申し訳なさそうに言う。


「本当なら、あなたの家族に、あなたが生きていると、お知らせできたらよかったのですが……すみません……」


私は首を横に振った。気にしなくていいと思ったから。私の家族は残念ながら全員あの世に行っているのだし。

にしても……ダズエルの町の地形は……確か……そうだ、魔王の居城に近い町で、でも、ヘリオスと仲間たちは、一番近い町のニーアで装備などを整えようという事で、旅の間通らなかった町だ。

尼僧が私の顔なんてわからないのも無理はないだろう。

私は何か言おうと思ったけれど、喉も肺も痛くて断念した。

尼僧はそんな私の手を握り、優しい声でこう言った。


「たとえどんなに、魔王の配下たちにひどい事をされていたとしても、もう大丈夫ですよ。魔王は勇者ヘリオスとその仲間たちに、見事打ち取られましたから。もう、二週間前の事です」


日数間違えていないだろうか、と一瞬思ってしまった。

それが正しいのなら、私は二週間意識不明だったというわけで……ん?

その間、ヘリオスたちは私を探さなかったのだろうか? さすがに聖剣の鞘が行方不明なら、死体を探すとかしないだろうか……?

そんな事が疑問として頭に入った時、尼僧は驚く事を言った。


「そして……勇者ヘリオスの婚約者、ジーナが聖剣を残して死んだのも、二週間前の事です……彼女の尊い犠牲の結果、魔王は打ち取られたのですよ」


は、と私は言葉を失った。元々喋れないのだが。

まって、どうして、ジーナは、そう、ヘリオスの婚約者のジーナは……私なのに、私はいつ死んだ事になっちゃったの?

驚きで固まった私を見て、尼僧は詳しい話が聞きたいのだろうと思った様子で、こういう。


「伝聞なのですが……勇者ヘリオスが決死の覚悟で、魔王に打ち掛かった時、聖剣はばらばらに砕けたそうです。しかし……聖剣は突如黄金の輝きを放ち、その光でつなぎ合わせられ……そして聖剣は黄金の輝きをまとう、神剣となり、ヘリオスたちは魔王を打ち取ったのだとか。聖剣が砕けた後そうなるという伝承は、流浪の民ルルガドラが歌物語で伝えるだけとなっていましたが……それが正しければ、鞘の、勇者への限りない愛が、命尽きても勇者を守るために、己の心臓を剣として残すのだと言います。鞘のジーナは、愛する勇者を死んでも守るために、全てを賭して己の心臓を、神剣に変えたのでしょう……何と深い愛でしょう……」


いや、知らない。ヘリオスの聖剣が、私の心臓じゃないって話も聞かない。

なのに、どうして……私は怖くなって自分の胸を探った。

どくどくと、早鐘を打っている心臓の鼓動が聞こえる。心臓が、ここにある。

じゃあ……ヘリオスが持っている黄金の神剣は、一体何なんなのだろう……

私は何も考えられそうになかった。尼僧も、私がとても疲れているのだと思ったのか、それ以上会話をせずに、医術神官が後で来る、と伝えて去って行った。

垂れ幕の寝台の中に残された私は、そのまま寝台に倒れ込んで、なんだかな……と思った。

聖剣が折れたら、砕けたら、鞘は死ぬのは常識だ。

だから、一度破壊された事で、皆が鞘のジーナが死んだと思うのは仕方がない。

でも……死体を探したりしないのだろうか。だって勇者を救った神剣を、命がけで作り出した女性というわけだろうに。

……もしかして、今、魔王の居城の落下地点では、懸命な捜索活動がされているのだろうか。

でも……果たして、私が生きていると知らせて、混乱しない事ってあるだろうか。

死んでいなくちゃおかしい鞘が、生きている。

相当あたりを混乱させる事に違いなくって。そうまでして、生きていると知らせる考えは、どうしてか生まれない。

生きていたら、ヘリオスの仲間たちと、変な揉め事になる未来しかないからだ。

私が生きていたら、ヘリオスの結婚相手は間違いなく私に確定する。聖剣の鞘と勇者はそれだけ深いつながりを持つと言われているのだ。

そうなったら、ヘリオスを愛している三人の美女たちにとって面白くない。というか、認められない事になる。

ヘリオスの目の届かない場所で、私をどうにかしないとも、あの最後の会話を思い出すと否定できないのだ。

女性の嫉妬とか女のバチバチとかは、関わると本当に恐ろしい物なのだ……関わりたくない。

そこで、寝台の柔らかさにほっとしつつ、私はやりたい事を考えた。

今まで、聖剣の強化のために訓練しかしてこなかった半生だ。やりたい事とか、したい事とか、考えた事がない。

人生の自由があると、思っても来なかった。

しかし、死んだという事になっている今、私は何かを選び取れる。

それはとても新鮮な感覚で、何をしよう、という空想だって自由だ。

今までは、空想なんて事をしたら、気を抜くな、と木剣で思いっきり打ち据えられてきたから、ここまで自由な夢想をする、というのは本当に初めてだった。

……ヘリオスは、そりゃあ、好きだった。大事だったし、笑顔を守りたいと思った。

結婚相手になると聞かされて、こんな素敵な人と結婚できるなんて嬉しいって思った過去も本物だ。

それも、嫉妬渦巻く彼の仲間たちと対面するまでの事。

私の愛は本物じゃなかったみたいで、嫉妬する仲間たちに色々言われて、ぶつぶつ皮肉られて、積もり積もるささやかな嫌がらせを受けて、それでも貫こうと思えるものじゃなかった。

身を引いて、とか相応しくない、とか言われて、強く反論しなかったの、そこまで強い熱量の感情ではなかったから。

でも自分から、結婚しないとは言えなかった。勇者と聖剣の鞘の結婚はもはや常識で、鞘が嫌だと言ったから、別の女性と勇者が結婚するとか、あり得ないって思われる事だったのだ。

逆を言えば、私が死んだ事になって、こっそり身を引けば、女の争いから逃げられる。

そう考えると、死んだ事になったのは、私にとって幸運だったかも、という事に気付いた。

死んだ事になって、新しい人生を始められるのかもしれない。

ダズエルで、魔王の居城でひどい目に遭って、行くあても何もない女の人という立ち位置になれば、仕事とか住むところとか、都合してくれる気がする。

そっちになろうか……と私は意識を切り替えて、聖剣の鞘という重石がなくなった軽さもあってか、目を閉じたらそのまま、寝入ってしまった。





何やら外が騒がしい。私はその騒がしさで早朝に目を覚ました。

目をこすって、体を起き上がらせると、訓練で培った頑丈さとか強靭さとか、そういうのの賜物か、体はすんなりと起き上がった。ちょっと訓練に感謝した。

起き上がってそのまま立ち上がった私は、窓に近付いて外を見た。騒がしいのは窓の外で、窓の外では、町の子供たちが鎖につないで、驚くべき相手を引っ張っていたためだった。


「……うそ」


折り紙付きの回復力の私の喉は、驚きすぎて、うまく言葉を繋げられなかった。

その光景はそれだけ驚くもので、子供たちが引っ張っているのは、魔王のしもべだった。

魔王のしもべは、皆一様に目出し帽を被っていて、どのしもべもとても強い。子供が引っ張って歩ける相手ではない。しかし目の前の光景はそれを裏返す。

魔王のしもべはのろのろと歩き、だが子供たちに当たる事を危惧してか、何かをぶつけられたり浴びせられたりしてはいない。

ただ、皆の視線は棘があるし、殺意がある人も多い。

私は、その魔王のしもべに、はっきり言って見覚えがあった。

その魔王のしもべは、見間違いじゃなければ、私が最後、秘薬と取引して、なんとか勇者援軍の方に行かないようにした、あの緑の眼の魔王のしもべだった。

子供なんて、素手でも一瞬で殺せる強さの、この町にいる戦士たちではどんなに装備をしっかりしても勝てない相手が、のろのろと、子供の速度に合わせて、歩いている……

どういう事を意味しているのだろう。

私が黙って見下ろしていた時だった。

視線なんていくらでも浴びているから、私の視線何てささやかだっただろうに、魔王のしもべはこっちに気が付いたように、こちらを見た。

ほんの一瞬だけ、視線が交わったような気がしたけれど、それも気のせいに違いなかった。


「ああ! 無茶をして立ってはいけません!!」


そこで、私は昨日の尼僧が様子を見に来たのに見つかって、結構長く無理をしちゃだめ、と怒られて、やっと医療神官の人に診察される事になった。

医療神官の人は、平気な顔で座っている私を見て、脈を測ったり瞼の裏を見たりしたけれど、はっきりとこう言った。


「見事な頑丈さですね! 蓄積された疲労以外は健康体です! ……ただ、申し訳ありませんが、その体中の火傷の跡は、治りません……ご存知かもしれませんが、火傷はそれを受けてから十六時間以内に治療をしなければ、痕になってしまうので……」


私の発見が遅れた事を、医療神官の人は申し訳なさそうに謝ってきたけれど、発見してもらえただけ運がいいと思う。


「気にしないでください。これだけ大火傷を負って、生きているだけ儲けものです」


「そうですか、そう言っていただけるとうれしいです。あ。体が痛いとか、苦しいとか、そういうのがありましたら、すぐに! すぐに医療院に来てくださいね? 魔王の居城の影響が、ないとは言い切れませんから」


「はい、ありがとうございます」


魔王の居城の影響とか、ないとは言い切れないだろう。私は今、魔王の居城で美姫たちの世話をしていた女性の一人、と数えられている状態なのだから。

それにしても、私はどうしても気になるため、問いかけた。


「あの、窓から先ほど、魔王のしもべを、子供たちが鎖で引っ張っているのが見えたのですが……危険では……」


私の考える事は当たり前だろう。魔王のしもべはどのしもべもとても強く、そして魔王の居城で、魔王の前に最後に立っていた関門のしもべは、それらを大きく上回る強さだったのだから。

知っているからこそ、余計に子供たちに危険が及ぶのでは、と思ってしまったが、医療神官の人の脇に立っていた、看護神官の人が教えてくれた。


「あの魔王のしもべは、子供たちが近くの洞窟で見つけたのですよ。魔王の消滅した今、弱っているのか、子供でも簡単にとらえられたので、子供たちがとらえてきたらしいです」


そんなに弱体化するものなのだろうか? しかし実際に、魔王のしもべは子供たちに抵抗も出来ずに、大人しく鎖につながれて道を進んでいた。

弱体化したって事なんだろうな……と納得するほかない。

私はそこで、少し考えてから医療神官の人に問いかけた。


「私、行くあても何もなくなってしまったんです……この町で頼れる機関とかはありませんか?」


嘘は一個も言っていない。死んだ事になった以上、行くあても帰るあても頼れるあてもなくなった。この町で頼れる何かが知りたいというのは、いわばもっともな発言でしかない。

私の困った顔を見て、医療神官の人は、少し考えた後に、こう言った。


「町の役場の方で何か、力になれるかもしれません。今は皆、魔王の消滅に浮かれ騒ぎ、ちょっとした事は放置されがちですがね」


「そうだったんですね」


確かに、数百年の間、青空と星空を奪った魔王という存在が、消滅したのだから、皆飲めや歌えやの大騒ぎをしていただろう。でも二週間も過ぎたのだから、ちょっとはその騒ぎが鎮火している事を、願いたかった。

そういう話をして診察が終わり、私はとりあえず昨日目を覚ましたばかりなので、という尼僧の言葉から、使っていた寝台の一つを使わせてもらう事が出来た。

行動するにしろ何にしろ、雨風をしのげる寝床の確保は大事だと、ずっと前から知っているから、これはありがたかった。


「きちんと治るまでいらしていいんですよ」


尼僧はそう言って微笑んだけれど、それじゃあなんだか申し訳ないので、動けるようになったら仕事探しと一緒に、この寺院の手伝いをしよう、と心の中で決めた私だった。





結果どうなったか。魔王の消滅とともに、魔性の数が激減したという報告が相次ぎ、今までかなり儲かっていた武器屋や防具屋の売れ行きが悪くなり、そっち方面の求職がぐっと減った。

そして新たに、魔王の居城の探索という事をする冒険者が増え始めた。というのも、魔王の居城は元々は天空神の祭壇だった場所を、魔王が侵攻して手に入れた土地で、色々珍しい物が手に入る場所なのだ。

元は神の祭壇だったのに、荒らしまわるのはどうかという話も持ち上がっているが、じゃあ取り締まるのは何処の国なんだという問題が起きて、そっちが決まるまで、しばらく魔王の居城の探索をする人は絶えないだろう。

意外とこの探索で怪我をする人が多く、薬問屋の売れ行きはいい。

もっと言うと、魔性のために確実な街道を維持できなかった時と比べて、格段に街道が平和になったため、交易というものがものすごく増えて、神殿や寺院といった、簡易宿泊施設を持つ施設が、とても忙しくなり始めた。

私は体が動くようになった現在、寺院の宿泊設備の掃除や補充をする仕事をしている。

もちろん、お世話になった寺院で働いているのだ。

今も、私は清潔なシーツと汚れたシーツの交換をしている。

寺院の簡易宿泊設備は、寝床と荷物を置く小さな物置の空間があるだけで、お金のない人が使う場所だ。

それか、道中の宿泊に広い空間を欲しがらない人向け。

四角い空間に、寝床であるシーツがかかった薄い布団と毛布があって、入口から一番奥に、貴重品を入れる簡単な鍵の在る物入があるばかり。

使う人間の数が多いから、シーツの交換だけでも馬鹿にならないほど手間がかかり、それの洗濯も毎日忙しい。

虱や蚤がいたら専用の燻し薬で、それらを退治しなくちゃいけない。

布団だって定期的に外に干すし、数日使う人じゃなかったら毎日掃除をする。

比較的頭を使わなくても済む、余計な事を考える暇のない忙しめの仕事だ。

薄い布団をはたいて伸ばして、それにぴしっとシーツをかぶせる。よし、出来は上々。

それを二十回ほど繰り返し、かごに手押し車のついた洗濯籠にシーツを入れて、宿泊設備から洗濯場まで往復。

洗濯は、洗濯係が行うけど、彼等は洗浄魔法とも言われる魔法がつかえるから、結構高給取りである。魔力で汚れを分解して、除菌と殺菌をするのだとか。ううん、なかなか高等な技術だろうな、と思う私だ。

にしても……最近、というかここ一か月、私が働き始めてから、ちょっと何かが変わり始めている気がする。

そう思うのは、シーツについている血液の量が増えている事だ。

働き始めた頃は、街道がとても平和だから、汚れと言っても砂埃とか泥とかで汚れている事が多かったのに、ここの所、血の痕が付いている事が増えてきている。

そして寺院で、怪我を診てもらう人も、多くなっている……んじゃないだろうか。

簡易宿泊施設は、怪我をした人が使ってはいけない設備じゃないから、怪我をして路銀が寂しくなった人が、使う事も多いし。

母数が増えたって事なのかもしれないけれど……何か少し気になる。


「今日もシーツと枕カバーが多いな!」


「部屋数が二十もあるんですから」


「違いない!」


洗濯場まで運んで、汚れの酷さとかで分類分けしていると、声をかけられたからにぎやかに返す。それに対して洗濯係の魔法使いの人が、笑う。


「あんたもちょうどいい時に来てくれて助かったよ。今まで寺院の簡易宿泊施設を使うなんて、一日に多くても三人とかだったから、私達が色々やっていたんだけれど、こうも人数が増えると追いつかなくてね」


「私も、恩の在る寺院で働けてありがたいです。……それにしても、最近やけに怪我をして街道を通る人が増えていませんか? 魔王が消滅して一時期は、一度も魔性に遭遇しないで王都からダズエルまで来ていた人が、何人もいたのに」


私の言葉に、相手は怪訝な顔をした。思ってもみなかった、という顔だ。

そして少し考えてから、頷いた。


「確かに少しそんな感じがするな。でもそんなの分かるのかい」


「シーツに血とかそういう体液が付いている事が、最初の頃の一時期と比べて、かなり増えたので。ちょっとおかしいなと思って」


私が、今日もシーツを交換しながら感じた事を洗濯係の魔術使い、リオンさんに話すと、リオンさんはそれからか、と納得した様子だった。


「もともとダズエルまで来る旅人は、怪我をしているから、あまり気付かなかったが……魔王の消滅から働くジルダは、違和感を持ったのか……寺院の方にちょっと報告するべきかもな、その時は証言頼む」


「分かりました」


ジルダ。それがこの町で暮らす事にした私の新しい名前だ。

ジーナという名前でもよかったけれど、ジーナは聖剣の鞘の名前として有名すぎるようになったから、変に思われると面倒と思って、死んだ祖母の名前を拝借する事にした。

私の生まれ故郷では、女親や祖母と名前が似ているのはお約束で、名前から血縁関係が推測できるほどだった。

ウィリアムの息子はウィルムとか、すごくありふれていたから、その感覚で祖母の名前を借りている。

これなら呼びかけられても、そんな違和感なく返事が出来るし。

さて、洗濯物を洗濯係の魔術使いに渡したから、その仕事が終わるまで、私は休憩。

厨房で簡単な物をもらって、食べて、寺院の方の手伝いに回るのだけれど、今日はいつもと何かが少し違っていた。

医療院とつながっている回廊の方に何やら、人が集まっている。


「何の騒ぎだ?」


「実は牢番が、処刑が決まっている虜囚に過度な暴力をふるってしまって、虜囚が運び込まれたんだとよ」


「何でまた、処刑の日取りが決まっている相手に、そんな暴力を? 処刑の日までは生きてもらわなければ、困るはずだろう」


「だろう? それもこの虜囚の最期を、勇者ヘリオス様たちが見にくるという話だ。これが今死んだら、勇者ヘリオス様たちがやっとこの町まで回ってきてくれているのが、ぱあになっちまう! だから牢番の処罰は、普通の虜囚の暴行の時とは、比べ物にならないって話だ」


「ヘリオス様たちが来てくれるっていうのは、どこの町も長い事希望してる事だしな。特にダズエルは魔王の居城と近かった分、色々思い入れがある。他の町から来ている旅人たちの話もあるしな。町の誰もが、勇者ヘリオス様たちの凱旋を心から望んでいるわけだし、あの虜囚の処刑を見にくるというのに」


人垣に近寄ると、そんな会話が聞こえてきた。

どうやら、何か訳ありの処刑間近な虜囚に対して、牢番が暴行を加えすぎて、医療院送りにしてしまった様子だった。

牢番がこういう事をするのは、そこまで珍しい話ではない。

だが今回は、暴行を加えた相手が悪かったという事みたいだ。

……でも、ヘリオスたちが、この町に来る時は、物陰に隠れてこっそりと見守る方向がいいだろう。見つかって、何で生きているんだという話になって、うっかり死霊扱いされてはたまらない。

医療院の、訳ありの相手を治療する際に使われている部屋の近くに、一体誰が運び込まれたのだ、といろんな人がたむろしている。

でも、部屋までは入れないから、出入りする医療神官の人や、看護神官の人たちを質問攻めにしているみたいだった。

私も陰から話を聞いていたけれど……そんなにヘリオスと因縁があるとしたら……あの魔王のしもべだろうか。

透き通った緑の目をした、強すぎるほど強いしもべ。

確かに、倒した相手が生きていて、処刑されるとなったら、その最期を確認するために、ヘリオスたちは来るだろう。

どういう感情を抱くのかは知らないけれども。

そんな事を思って、さて、寺院の出入り口の掃除でもするか、と歩いていた方向を変えようとした時だった。


「あ、すみません!! いつも医療院の掃除もしてくれるジルバさんですよね!!」


私は、話題の部屋から出てきた看護神官の人に、呼び止められた。

いったいなんだろう。

立ち止まって振り返ると、看護神官の人が、思いっきり申し訳なさそうな顔で頭を下げてきた。


「すみません、どうかお願いです! 汚れたシーツを取り替えたりするのを、手伝ってもらえませんか!!」


「また、どうして」


「看護神官の先輩たちに、やるように言われたんですけれど……一人では怖くて」


そりゃあ、魔王のしもべのシーツを交換するのが一人なんて、恐怖でしかない。

なんでこの人に、看護神官の先輩たちは、一人でやるように押し付けたのだ。


「怖いのだったら、警備の人たちも中に入れればいいのではないですか?」


私が至極まっとうな事を言うと、彼女は首を横に振った。


「警備の関係上、中に入れる事は出来ないんです……もう、一人で出来なくて、手伝ってくれそうな人を探してて! このままじゃ、治療用の寝台が一つ、血がしみこみ過ぎて廃棄になっちゃうんです!」


「それはなかなか……」


大変な事だ。基本的に治療用の寝台は、壊したりしやすいように簡易的で木製だけど、それだって廃棄するのは大変だし、新しい物を一秒で配置できたりするわけでもない。

彼女が困り果てるのも理解できる。でも……一応危なくないだろうか。

看護神官の人たちは、いざという時身を守る結界装置を胸から下げているけれど、私は持っていないのだが。

それを言って断ろうか、と思った私は、ふと、一体あのとんでもなく強かった最後の関門の魔王のしもべが、一体どれだけ暴行をくわえられたら、医療院送りになるのか、気になった。

多分それは、良くない好奇心の一つで、でもとても気になったから、私は仕方がないという顔で、頷いた。


「いつも医療院の皆さんにもお世話になってますから、手伝いはしますよ。でも! 手伝いですからね! 主体的にはやりませんからね!」


「ありがとうございます!!」


看護神官の彼女は、もう泣きださんばかりで、それ位一人で魔王のしもべのシーツを交換するの怖かったんだろうな、とわかる感情の現れ方だった。

そんな彼女とともに、私は訳ありの患者が入る部屋……通称訳あり部屋に、入ったのだった。



まず、訳あり部屋は、医療院のどこの部屋よりも狭かった。そして薄暗くて、寝台が一つ置かれている。

そこに、魔王のしもべが寝ていると思ったけれど、そんな事はなかった。

魔王のしもべは、血まみれの、治療を受けたとは思えない状態で、部屋の隅に座り込んでいた。

これは、寝台に寝ている状態よりも怖いかもしれない。寝ていれば、何かしらの動作で起き上がるまでの時間差が発生するけれど、座り込んで居たら、その時間が短いから、襲われたら一瞬だ。

そんな事を思いつつ、私はこう言った。


「私が魔王のしもべを見ているから、あなたはシーツを早く取り換えましょう」


「はい!」


私はちらっと寝台の方を見た。うん、すごい出血量だったんだな、と思わせる、なかなか真っ赤に染まったシーツで、よくまあそれだけ血を失っていても、寝台から部屋の隅に動けたな、とある意味感心したくなるものがあった。

でも。

床にじかに座り込み、こちらをじっと見ている緑の瞳は、何もかもを見透かすような色にも、狂気に浸された色にも見える。

そして、私が最後に見た時よりも、痩せているような気がした。あくまでも、なんとなくそんな印象を受けた程度の事だけれど。


「魔王のしもべは、食事をしていたんですか」


私は、相手から目を離さないようにしつつ、背後で手袋とかをして、直接血に触れないようにシーツを剥している看護神官の人に問いかけた。

看護神官の人がその疑問に答えてくれた。


「食事も、満足に与えられていなかったそうです。牢番の方は、子供にも敗北するのだから、何をしてもいいのだ、と思ったそうで……抵抗もしないので、暴行に拍車がかかったと言っていたそうです」


「……なるほど、だから」


やつれたのか、と口の中に言葉を残した。相手は薄暗がりの中でも、光を放つヒカリゴケのように明るい緑の目を、私だけに向けている。


「……食事を与えるんですか?」


「はい。処刑の日までは、生きてもらわなければならないと、上からの指示が来ています」


私は、処刑が決まっている事も、何もかもを聞いているだろうに、逃げ出そうとするそぶりが欠片もない魔王のしもべを見て、もしかして、死にたいのだろうか、と考えた。

魔王のしもべは、主である強大な魔王を喪ったわけで、つまり、信じていた者がいなくなったわけで、生きる目標を失った状態で、だから子供相手にも抵抗しないで、あの時連れて来られて、そのまま牢屋に入れられて、暴行を甘んじて受け入れて、こうしているのかもしれない。

生きるって事を放棄したのか、諦めたのか。

そんな事を思った後、ある事に気が付いて、背後でやっと物凄い血まみれのシーツを取り変えて、


「これ洗っても落ちませんよ……廃棄かぁ……」


と独り言を言っている看護神官の人に、問いかけた。


「この魔王のしもべの食事も、もしかしてあなたがさせる事になったりしてませんか?」


「ええっ!? そんなわけないじゃないですか!! できませんよ!! なんでそんな恐ろしい事を言い出すんですか!!」


「この部屋で一人でシーツを交換するように、と言われている時点で、その可能性があるんじゃないかと思いまして。……確認したらどうでしょうか。心構えがあるかもしれません」


「は、はい!!」


「え、ちょっと! 私を置いて行かないで!!」


彼女はその嫌がらせの可能性に気が付いてしまったみたいで、引きつった声で返事をするや否や、ばたばたとものすごい勢いで、私を残して訳あり部屋から飛び出して行ってしまった。

そして残された私は、ここから出て行くべきかどうか、真剣に悩んだ。

出てもいいのだろうけれど、彼女が戻ってきた時に、私がいなかったら彼女泣いちゃうかもしれない。

一人で魔王のしもべと一緒にいられるほど、図太い神経でもないだろうし。

私は彼女が戻ってくるまでの間だ、と自分に言い聞かせて、魔王のしもべと向き合った。


「……また会ったね」


私は静かにそう言った。相手の瞳が、瞬いて、私を、あの時の私だと、認識したみたいな気がした。


「逃げたのに、捕まって、運が悪いね、あんたは」


答えが欲しいわけじゃないから、ただそれだけを言って、私は一つだけある診察用の椅子に腰かけた。

いったいどれくらいで、看護神官の彼女が戻ってくるか、分からなかったためだ。

それを、魔王のしもべはじっと見ていた。

私はそれを、見返している。やっぱり、よくよく見ても、魔王のしもべは、異装と言っていい恰好だ。

私が聞いた限りの知識によると、魔王のしもべというものは、顔というものをなくす事で、個というものを奪われて、その代わりに膨大な力を手に入れるそうだ。

魔王のしもべになると決めた時点で、顔を焼き、魔王から与えられる、頭を全て覆う目出し帽をかぶる。魔王の与えた目出し帽はしもべの顔の皮膚と一体化し、決して剥がれなくなる。

そうなったら、もう、人間側の存在としてはいられない。

一生を魔王のしもべとして、忠誠を尽くすしかないのだとか。

たまに大昔の実話として、改心した魔王のしもべがいたりするけれど、その改心した心も、魔王の力で闇に塗り替えられて、望まない最期を迎える。

顔を捨てた時点で、もう後戻りできないのだ。

この、並の魔王のしもべとは何もかもが桁違いな魔王のしもべも、行き着く先は一つなのだろう。

顔をなくしてまで、魔王につかえたいと思う心理は、私には欠片も理解できない心理だから、同情するとか、出来そうにないけれども。

感情の読めない緑の瞳が、私を見ていて、居心地が少し悪いな、と思った矢先の事だ。

扉が開き、泣きそうな顔をして、お盆を持った看護神官の彼女が戻ってきた。


「ふえええええ……食事も私の担当になってました……ジルダさん……さすがに食事の世話まで、怖くてできません……!!」


そりゃそうだ、と二度目か三度目かに思う事を思った。そりゃあただでさえ怖い相手の食事の世話とか出来るわけない。

この看護神官の彼女、いじめられてるのか……? 嫌がらせにしてもずいぶんな気がする。

いったい何をしたのだ。


「あなた一体何をそんなに恨まれてるんですか」


私の問いかけに、彼女は少し考えてからこう答えた。


「今年結婚して退職するんです……あの、医療神官のチャリオルさんと」


「うわあ、完全に嫉妬」


チャリオルという医療神官の名前を、私ももちろん知っている。ダズエルでも一番格好いい医療神官で、さわやかな笑顔が人気の人で、彼に手当とか診察してほしいという女性はあまたいる人だ。

そのチャリオルさんと結婚して退職するとか、勝ち組過ぎて嫉妬の対象である。

きっと看護神官の女性たちも、医療神官の女性たちも、その他数多の女性たちも、彼女に嫉妬の炎が燃えているんだろうな……

何というか、私もそういうのに似た物を経験した身の上として、同情した。

結婚の予定があって幸せいっぱいな人に、危険な患者を押し付けて、何かあったらどうするんだ。チャリオルさんが恨むぞ。きっと。

そんな事を思いつつ、仕方がない、関わってしまった以上付き合うか、という事が頭をめぐり、私は手を伸ばした。


「ここまで来たんで、手伝いますよ」


「え、いいんですか」


「その代わり、私が手伝う事を、きちんと医療神官の上級神官様たちに、いっておいてくださいよ。出しゃばりだとか、迷惑だとか、言われたら困るんで」


「あ、ありがとうございます!! 何から何まで!!」


感極まって泣きそうな彼女に、私は問いかけた。


「とりあえず、あなたの名前を聞きたいのですけど」


「はい! エリーゼです!!」


そう言って鼻をすすったエリーゼさんから、お盆を受け取り、私はその上に乗っていた、どろどろにされた汁ものを持って、魔王のしもべに近付いた。

魔王のしもべは、手が四本あるとか、足が三本とか、尻尾が生えているとか、そういうのではなくて、人間に限りなく近い姿だから、人間の食べれるものは食べられるはずだろう。

だから、お椀を持って、座り込む魔王のしもべに近付いて、私は膝をついてこう言った。


「口は開ける? それとも、口の中も切れて血まみれで食べるのもおっくう?」


「べツ に」


「何だ、多少ぎこちないけど、会話が可能なんだ」


あの戦いの時、この魔王のしもべはずっと黙り続けて、苦痛の声すら挙げなかったから、喉も潰したのか、と思ったのに、声はかすれていたし、発音も変だったけれど、ちゃんと喉から出て来ていた。


「……」


「と思ったらだんまり。ほら、喋れるなら食べられるでしょう。口開けな」


私は、一向にお椀を受け取る気配のない相手にじれて来て、匙で一杯をすくって、突き出した。


「少なくとも毒ではない。あんたが処刑の日まで生きてもらわないと、困る関係者が大勢いるから。あんたは、どうあがいても、処刑の日までは、生きなくちゃいけない運命なんだ。諦めな」


「……ソうか」


私はここで、相手の口の位置を予測したから、そこに目がけて匙をつっこみ……少し失敗した。

思ったよりも目出し帽が、邪魔だったのだ。口の位置、真面目に見えない。予測はしたけれど。

つうっと、魔王のしもべの胸元に、汁がこぼれる。魔王のしもべというものは、何故か一様に目出し帽、皮の腰巻、手袋、長靴という服装だから、この魔王のしもべも当然、むき出しの胸元に、汁がこぼれた。

それを何を思ったか、手袋に覆われた指でなぞって、見えない口に、魔王のしもべは持って行った。


「あじガスる」


不思議な言い方をして、魔王のしもべは、ぎこちない動きで……もしかしたら暴行の結果、手がまともに動かないのかもしれない……お椀を受け取ろうとしたけれど、それがあまりにも不安定だったから、こうなったら最後まで面倒見てやろうじゃねえか、という思いで、私はこう言った。


「口出して、口。今日は口に運び入れる。あなた、手、ろくに動かないんでしょう」


無言は肯定だった。抵抗したら強引に口に入れられる、と察したのか、魔王のしもべは目出し帽を少しめくった。

その手は、あまりうまく力加減も出来ていないのか、指先に力を込めすぎているのか、かすかに震えていた。

そしてやっぱり目出し帽は、文献に書かれていた通り、顔と一体化しているのか、口元までは何とか捲れたけれど、それ以上はめくれる事がなかった。でもとりあえず食事はさせられたのだった。


「すごい……強い……」


エリーゼさんが、引きつった声で背後でそう言っていたけれど、これ位の事だったら、はっきり言って訓練の時代の、容赦なく木剣で打ち据えられていた時の方が、いつ打たれるかわからないから怖かった。

そんな事、言わなかったけれども。

お椀いっぱいのどろどろの汁物をなんとか全部飲み込ませて、私は魔王のしもべに問いかけた。寝台の方を指さしながら聞いてみたのだ。


「寝ないの」


「おちツかナ い」


まさか、寝台で寝る事も忘れるほど、あの場所に立ち続けていたとかなのだろうか。

そんな怖い事を思った後、私は寝台脇にかけられていた、替え布で覆われている毛布を掴んだ。


「……だったら、せめて毛布を被って。医療院で自分勝手して風邪ひくとか、医療院にとって不名誉すぎるから」


私はそう言って、手に持った毛布を肩に被せてやり、感嘆の目で見ているエリーゼさんと一緒に、訳あり部屋を出たのだった。





「うちの看護神官たちが迷惑をかけて申し訳ない」


その日のうちに、乾いた洗濯物を取り込み、簡易宿泊施設の予備のシーツをリネンルームにしまって、さて、寺院の職員のための寮に戻ろうと、すっかり慣れた帰路につこうとした私に声をかけたのは、医療院の副院長だった。

副院長は、高度な回復魔法がつかえるし、博識で、若いからこそまだ副院長というだけで、実績を詰めば院長も間近だろう、と言われている人だ。

柔和な顔の、誰にでも丁寧に喋る人という印象が強い人でもある。

彼が、私を呼び止めたから、きっと今日の事だろうな、とすぐに分かって、私は一緒に帰っていた人達に、先に帰って、と伝えて、副院長とその場で話す事にした。

まず、副院長は謝った。看護神官がやる事を、私にやらせたからだという。


「看護神官たちは、それなりに覚悟を持って患者と向き合っていると思っていたのだが……まさか防御結界のネックレスをつけていない、寺院の職員に仕事を押し付けるとは思わなかったんだ」


普通はそんな事考えもつかないだろう。寺院の職員と、看護神官たちの職業は全く違っているし、職わけもきちんとされている。

寺院の階級もない職員は、防御結界のネックレスを持っていないから、いざという時に大怪我をする可能性が高いのだ。だが、看護神官たちは、いざという時に身を守るそれを常に着用している。危ないのはどちらだ、と言われたら、寺院の職員の方と言っていいだろう。

そんな理由で、どちらかが、どちらかの代わりをするという事も、やれる事やできる事の範囲が大違い過ぎるから、まずありえないのだ。

それを、私とエリーゼさんは、行ってしまったわけである。

そのため、それを強く憤った口調でいう事は出来なかった。


「まあ、多少成り行きだったのは否めませんので……」


実際にはたから見たら、お人よし過ぎる寺院の職員が、看護神官に付添ったという事にしか見えない。まさに成り行き。悪意とかが発生したとは思えないやり取りを、私達は医療院に来ていた人たちに見られている。


「本当に申し訳ない。実は、虜囚の看護などは、今日の先ほどだけで構わない、明日からはやらなくていい、と言えればよかったのだが……」


あ、なんか嫌な予感がする。

そんな事を思うと、副院長は、心底申し訳ない、という声でこう言った。


「どの医療神官にも、看護神官にも、あの虜囚の面倒を見たくない、見るくらいなら職を辞する、とまで言われてしまい……だが処刑の日までは生きてもらわなければならず……」


そこで私は言いたい事を察してしまった。考えたくなかったけれども。

つまり処刑の日まで生きてもらわなければ、勇者ヘリオスとその仲間たちがこのダズエルに来る予定はなくなるので、それはこの町として大きな問題なのだろう。

それがわからない私ではなかった。

何故かって、それはヘリオスの脇で、ヘリオスが訪れる事を心の底から待っていた人たちの反応を、ずっと見てきたからだ。

私は、勇者という肩書の存在が、やって来る事で熱狂する人々というものを知っている。

そしてその事はお祭り騒ぎになる事もよく知っている。

まして、魔王を倒した張本人が来るのだ。生身の、この世で一番の英雄が来る予定がなくなるという事の大問題さくらい、軽くだが想像がついた。

頭の中で色々考えた後、私は慎重に問いかけた。嘘であればいいな、と思いつつ。


「その時まで、私に面倒を見てほしいというんですか?」


「大変に申し訳ないのだが、できないだろうか」


「私にも仕事があります」


一応、私だって暇を持て余しているわけではない、と伝える。ここで暇人だから対応してもらう、なんて思われたら業腹だ。

私が行う仕事は、字面の中身は簡単かもしれないが、重労働で、衛生的な事のために、気を遣う仕事なのだ。

簡易宿泊施設で、虱だのノミだのを発生させるのは、物凄く問題になる事でもある。

それらはいともたやすく、感染症を広げる生き物で、それらの点検は実はとても大事な仕事だ。

まさか医療院の副院長ともあろう人が、それも理解しないなんて事はないだろう。


「私は暇ではありません。今日はたまたま、居合わせただけです」


「そちらに関しては、寺院の方に院長の方から伝えておくし、寺院の方に人手も回す。勇者ヘリオスがダズエルに来ないというのは、極めて問題になってしまうのだ……だから……」


きちんと伝えても、副院長はしぶとかった。諦めない、と言えばいい方はましだが、しつこいと言えばしつこい。

仕事があるからできません、が通用しないとなったら、後どうすればいいかわからない。

私はしばし黙ってから、仕方がない、という声で言うほかなかった。


「必ず、寺院の方に、人手を回してくださいね? 簡易宿泊施設のあれこれは、結構時間と手間がかかる、大変な仕事ですからね?」


私が、その頼まれごとを請け負う姿勢を見せると、副院長は喜んだ。


「ああ、助かる!! 担当のエリーゼ君も、一人では怖くてとても無理だ、と言っていてね……その時に、あなたがとても頼りになったと言っていたものだから」


しっかり世話を焼いた事で、この面倒に巻き込まれたという事なのか、それは複雑かもしれない。

でも、魔王のしもべを処刑するその日までの仕事なら、そんなに日にちが過ぎる事もないだろう。

私は確認のために問いかけた。


「その時が来るのはいつですか?」


「一週間後の、正午だ」


「分かりました、それまでは面倒を見ましょう」


魔王のしもべの世話を、一週間見る。

一週間だけなら、ぎりぎり大丈夫だろう、と私は判断したのだった。





「面倒な事を、医療院に頼まれましたね」


「一週間なら大丈夫ですよ」


翌日早朝、私は尼僧の人から、リネンを受け取り、予備のリネンを入れておく部屋に置いた。

ここは、いざという時は包帯などになる、清潔なリネンがたくさん積まれている部屋だ。

虫除けの匂いが、少しばかり強い部屋という印象を受けやすい場所でもある。


「それは……情が移らないという意味ですか?」


妙に察しがいい尼僧の、ルナさんを横目で見る。ルナさんは、最初に目を覚ました時に、喜んでくれた尼僧の人だ。

ルナさんは寺院で、主に子供たちの面倒を見ている。働く親たちが、寺院の方で、子供を預けたりするからだ。

そんなルナさんは、色んな意味で、目がよい人だ。


「一週間も一緒に過ごしたら、情が移ってしまいますよ」


呆れた、と言いたげにルナさんが言った。私は淡々とした響きになるようにこう言った。


「移らないようにする」


「あなたのように優しい方には、少し難しいのではないかと思うのですけれどね」


「一度すると決めた以上、やり通さなくちゃいけないでしょう」


やると受け入れたのに、やっぱりできないと言ったら、信用問題にも関わって仕事がしづらくなってしまう。私もそれ位の予測は出来た。

ゆえに私はそう言って、医療院の方に向かった。

医療院へ進む通路では、ひそひそという噂話が拾えた。


「可哀想に、寺院の職員が、肝が太いというだけで、魔王のしもべの世話を頼まれたという」


「可哀想すぎる。襲われたら一発で死ぬだろうに」


「その職員は相当、強いのだろうか」


「たとえ強くても、防御結界のネックレスがないのに、よくやる気になったものだな」


皆、脇を通る私がその職員だとは気付かずに会話している。このままでいいか、と私は進んでいき、医療院の食事を作る厨房で、他の患者よりも明らかに質素というか、貧相なスープに、どれだけ日数が経過したらこうなるんだ、と思う、何か石のように固くなったパンを受け取って、訳あり部屋に入って行った。

スープが冷え切るまで、エリーゼさんとか、誰か看護神官の人が来ないか待っていたけれど、誰も来る気配がなかったので、入ったのだ。

まさか、私一人に丸投げって事もないよね……?

扉を開けて覗いた訳あり部屋では、最後に見た時と同じ丸まった姿勢で、魔王のしもべがじっとしていた。肩の毛布が動いた形跡もない。

まさかずっとあの体勢だったのだろうか。

体を動かさなければ、こわばって大変だろうに、と考えたのは一瞬で、もしかしたら怪我の具合が悪化して動けないのでは、という方に考えが向いた。

もしもそうだったら、誰か医療神官の人を呼ばなければならない。

その時が来るまで、この魔王のしもべには生きていてもらわなければならない、と上の人たちが考えるだろうから。

そしてその兆候を見逃したとなったら、私にもお咎めが来るのは間違いなかった。飢えの人というものは、下の人に責任を押し付けるのが大好きな考えの人も多いのだ。

私はパンとスープを、寝台脇の小さな机に置き、その塊のようにじっとしている相手に、慎重に近付いた。


「……生きてる?」


私はそう言い、相手の体が上下して、呼吸をしているから生きているのは間違いないと判断した。


「寝ているの?」


そう言いつつ、私は手を伸ばし、毛布の被っている肩に手をかけようとして、指が触れる寸前に、目出し帽の頭が動いて、こっちを見たから、動きが止まった。

やや背中を丸めて、相手を見下ろしている私を、見上げている瞳は、驚いているのか、少し開かれている。


「どうシて マたきみがいル?」


「……ここの副院長先生、あんたの面倒を頼まれたから。だったら何?」


私の少しばかり乱暴な口調に対して、魔王のしもべはゆっくりを瞳を瞬かせて、静かにぎこちない口調で続けた。


「……そうカ」


納得したのかしていないのか。判断のつかない言い方だったけれど、とにかく、食事はさせなければならない。

まず、相手の手が動くかどうかを、調べた方がいいのだろうか。

昨日はあまりにも危なっかしく怪しい動きをしていた指は、まともに物を触れるようになっているだろうか。


「……ちゃんと手を動かせるかわかる?」


言いつつ私は、まだエリーゼさんが来ない、と思っていた。看護神官の彼女なら、そう言った事もすぐに見極められるはずだ。

私はそう言ったものの見極め方など知らないから、相手にいちいち確認しなくちゃいけない。

手間がかかる。

そんな事を頭の隅で考えながら、私は毛布の隙間から覗く、相手の手袋に覆われた手を取った。


「!!」


魔王のしもべは驚きに染まったような反応で、触れられるとは考えもしなかったという態度だった。

私はそんな反応を無視して、その手を開かせて、手で軽く押さえながら問いかけた。


「握ったりできる?」


「……」


魔王のしもべは、私の手の指を、軽く握った。力加減も大丈夫そうだ。


「問題はなさそう、じゃあ、ほら、自分で食べな」


私はそこで、冷え切って白く脂の塊が浮いたスープを持ってきて、石のように固い、かびていないだけまし、というパンを渡した。

魔王のしもべは、一度スープを口にすると、まるで空腹というものを初めて感じた人みたいな様子で、一気に飲み干し、私だったらとてもかみちぎれないような、硬すぎるパンを食いちぎって咀嚼した。

量だってそんなになかった食事を、むさぼる速度で食べ終えた魔王のしもべは、大きく息を吐きだして、私を理性が感じられる瞳で見やった。


「足りなくても、あれで全部だから」


先手を打ってそう言うと、言いたい事は違ったらしい。魔王のしもべは、ゆっくりと、口を動かした。


「たのミガアる」


「逃がせとか、そういうのは受け付けないからね。というか、頼みが出来ると思ってるんだ」


「しょけイのヒマデ ゆメがミタい」


「……安眠の香を焚くとかそういうの? でもあれ、依存性すごく高いし、切らすと正気なくすって話だから、今のあんたに処方できる物じゃないと思った」


「ちがウ」


死ぬ間際まで夢が見たい、というのだから、てっきり現実逃避の方だと思えたのだが、違っていたみたいだ。じゃあ夢ってなんだ。

怪訝そうな顔になった私に、魔王のしもべはこう言った。


「しョけいのひマで ともだちノユめを」


言われた事に、私は瞠目した。つまり、なんだ。この、魔王のしもべは、私に、処刑の時まで友達の扱いをしてほしいと言っているのか。

とてもつたない言葉だった。でも、それから感じた孤独は、刺さりそうなほど痛いほど、感じ取れた。

おそらくだけれども、私に少しばかり世話を焼かれた事が、心地よかったのだ。

……どうせ一週間の時間しかないのだ。こっそりと夢を見せてもいいような気がした。そんな事を考えた時に、ふと、この強すぎた魔王のしもべは、今までろくな事がなかったのだろうな、と推測が出来てしまった。

ひたすら勇者たちを殺すため、魔王を守るために立ちふさがり、最後の関門になる。

その血なまぐさい役割は、仲間であるはずの魔族とかにも、嫌煙されたのかもしれなかった。

そこまで考えてしまってから、私は頭の中で突っ込んだ。


同情してどうする。


だって相手は百ではきかないはずの勇者一行を単体で屠ってきた、人間の裏切り者だろう。でも。


つかの間の、砂粒ほどの優しい夢さえ拒まれたら、怨霊にならないだろうか。


そんな考えが頭に入ってきた。抗えない死が迫り、死にゆくものが、ほんの少しばかりの優しい夢を見たいと望み、それも叶えられず、未練が残り、怨霊になる話はいくらでもこの世界では転がっている。

これだけ強い魔王のしもべが、怨霊になったら、もう無茶苦茶な強さだという事は、考えなくてもわかる事だった。

ならばこの願いに、答える事は最善策では、という声が頭の中で響いた。


これは最善策だ。


どうあがいても、この魔王のしもべは一週間後処刑されるのだ。


下手に恨まれるよりは、未練などなく死なせる方が、後々の事も考えていいはずだ。


そんな脳内会議を行ってから、私は相手に、頷いた。


「処刑の日までなら。友達扱いって言っても、私も友達少ないから、色々分からないけれど」


この答えを聞いて、魔王のしもべは緑の目で、私に頷いた。

こんなやりとりを、誰かに見られたら、そりゃあ非難轟轟だっただろうけれど、結局結構な時間になっても、エリーゼさんは来る気配もなく、私は訳あり部屋を後にした。

何で来ないのだろう。私に丸投げとか、職務放棄だろうと思ったけれど、私と魔王のしもべの約束事を、誰にも知られないという意味では、都合がよかったのだった。





「となリにすわッてほしイ」


夕飯の時間までは、寺院のあれこれを手伝っていた私が、朝と代わり映えのない、というか悪化している気がする食事を持って、訳あり部屋に入ると、魔王のしもべはそう言った。

……いや、それはためらわれるのだが。

隣という距離では、いざという時もしかしたら、防御結界のネックレスが誤作動を起こし、私を守ってくれないかもしれないだろう。

……友達の夢が見たいというのなら、私を殺したりするつもりはないのか? そこの所はどうなのだろう。考えても相手の心理は読めやしないので、一度約束したのだから、私は腹をくくり覚悟を決めて、食事を持って、隣の床に腰かけた。

そこで、魔王のしもべの体中に刻まれていた、暴行の痕跡は欠片もなくなっている事に気が付いた。

自己再生力が、高すぎる。これが魔族になった人間の結果なのか。

回復魔法を使っている所を、戦闘時を含めて見た事がないから、回復魔法の心得があるとも思えない。

そうなると自己再生か。改めて、魔王の力はすごかったのだと思い知らされる気がした。


「傷はもう痛くないの」


私の問いかけに、魔王のしもべは、乱暴にスープを喉に流し込んでから答えた。


「あれハ ささイなけガだ」


「あれだけの出血量の怪我が、些細っていうのは……ちょっと信じがたい」


本人が些細だと言っているから、本人基準では些細のだろうけれど、はたから見れば相当な重傷だったはずだ。何せ訳あり部屋に運び込まれて、治療を施されたほどなのだから。


「あれくらイハ ずッとうけテきタ」


淡々とした、何でもなさそうな言葉の羅列に、おいおい、と思いたくなる。

魔王のしもべは、誰からも優しくされず、手当をされた事もなく、勇者たちの関門として戦い続けて来ていたのか。

そりゃあ友達の夢も見たくなるよな……と思う自分がそこにいた。

一人っきりで、ただただ戦う人生の最後に、友達との淡い思い出が欲しいと思うのは、それは、人間らしい感覚で、もう魔物になり果てているはずの、魔王のしもべに、似合わないけれども、それを否定できなかった。

うまく言葉にならなくなってきた私に、魔王のしもべはただ言う。


「ずっト」


いちいちが重たい。敵であり処刑される未来しかない、数多の勇者一行を屠ってきている凶悪な存在なのに、どうして私の胸は何処か痛むのだろう。

……ヘリオスが返してくれていないから、私の心臓である聖剣は、今やどこにあるのかわからないし、何なら神剣になったとかいう信じがたい事実もあるらしいのに、胸に存在していた痣も火傷で消え失せて、私がヘリオスの聖剣の鞘だった事実も信じてもらえなさそうなのに、胸は奇妙な程痛かった。

痛かったから、私は話題を変えるために、ばさりとある物を広げた。

それを見て怪訝そうな目をしている、魔王のしもべに、私はこう言った。


「昨日の新聞、もらって来たから、良ければ一緒に読もう」


それなら、隣の相手の様子を見ながらできる事で、もしも襲い掛かってきたら、対応ができる。

肉体的には驚くべき頑丈さの私なら、一撃で死ぬ事はきっとない、と思ったから、考え付いた暇つぶしだった。

でも、これは魔王のしもべにとって面白い試みだったらしい。


「うン」


そう言って、魔王のしもべは、私に少し体重をかけるような姿勢で、一緒に、昨日の新聞を読み始めたのだった。




三日もすれば、だいたい私がいつくらいにやってくるのか、予測できるようになっていたらしい。

訳あり部屋の扉を開けると、入口の近くで、魔王のしもべが立っていた。

まるで来る事を待ちわびていたように。

それにちょっと笑ってやる。友達だったら笑ってやるだろう。

だって、それ位楽しみにしているとか、友達相手だったら、


「お前そんなに楽しみに待ち構えてたのかよ!!」


というやり取りをするはずだからだ。

私が笑いかけると、魔王のしもべは全く分からない表情なのに、どこかいたたまれないような空気を醸すものだから、顔が見えなくても感情が分かる相手っていうのも、存在するのだな、と私は最近知った。

私が昨日の古新聞を三種類持ってきて、さあ読もう、と先に床に座り込む魔王のしもべの脇に、座るのも、もう警戒心はかなり低くなった。

油断させて逃げ出そうとするなら、もうとっくにこの魔王のしもべは逃走している。

牢番にくわえられた怪我は全て癒えているのだから、逃げ出すのなら私が来る前に逃げているはずだし、それが出来ないほど弱体化しているのなら、私から何らかの情報を引き出して、行動に移しているはずだ。

それをしないのだから、この相手がもう、自分が死ぬ運命を受け入れていて、その最期に、私というかりそめの友人との思い出が欲しいのだと、判断するに至ったのだ。


「あんたは、物語みたいな新聞、結構好きなんだな」


私は、他の情報源みたいな、淡々とした新聞よりも、魔王のしもべがまだページをめくるな、と言わんばかりに紙を押さえているから、そう言った。


「おもシろいかラ」


三日も喋る相手になれば、多少ぎこちない喋り方でも、だいたいの意思疎通は出来るし、分からないなら繰り返し聞く事で、理解しようと思っている。

たまに頭の中で


この関係はよくない


という理性の声が響くけれど、今更辞めてしまったらそれは裏切りで、私は魔王のしもべという敵だった存在相手でも、裏切るという選択肢を取りたくなかった。

理由は一切わからない。ただ、きっと、私は長い間神殿で、誠実に生きろ、聖剣が聖なる剣であるためには、誠実に心正しくあらねばならぬ、と強要されていたから、もう、裏切るとか誠実じゃないとか、そういう風に考えるようになったというだけの話なんだろう。

例え敵だった相手を前にしても。

ただ、時折、肩と腕を密着させて、時折お互いの感想を言いあいながら、古新聞を読み漁るという時間が、もっと長く続けばいいのに、と思うようになってきていて、それに関してはいけない、まずい事だ、と思っている。

ルナさんの言った通りで、情が移らないようにしたいと思っていても、かりそめでも、まがい物でも、友達という枠組みとしてふるまっている間に、少しずつ、情に似た物が私の中に、芽生え始めている……といった所なのだろう。

私は、この魔王のしもべの首がギロチンで落とされたその時、友として涙を流すのだろうか、と思う事も、たまにある。

それでも、処刑されるという運命は覆らないし、それを拒否させる権限はないし、第一何物もその助命を納得しないだろう。

それだけ、この魔王のしもべは数多の勇者一行を殺してきた存在で、そうだと知らなくても、魔王のしもべだというだけで、皆から嫌われて憎まれる役回りになっているのだ。

その相手に対して、柔らかな時間が続けばいいと考える私は、すでに他の人々からすれば、裏切り者になっているのかもしれない……

こんな考えを持つな、と私は頭を振って新聞の記事に視線を戻す。

その記事は、勇者と悲劇の聖剣の鞘であるジーナの話が掲載されていて、はっきり言ってなんだこの偽物感満載な中身は、と当人だから思ってしまう。

ジーナは深く心の底から勇者ヘリオスを愛していたから、彼に生きてもらいたくて、何者にも代えられない純愛の結果、神剣となって彼を守っているとか、いや、生きているし。

私はヘリオスを、そんな深く愛しては……いなかったと思う。仲間たちの嫉妬からくる厭味とか嫌がらせの方にげんなりして、魔王討伐が終わったら、なんとか行方をくらませられないかと夢想する事も多かったし、いなくなりたいと相談したら、仲間たち、とくに権力者の娘である聖なる姫様が、伝手を使ってくれるんじゃないかとか、考える事もあったくらいだ。

純愛物語みたいな事を、私は欠片もしていない。

純愛っぽい思いを抱いていたのは、ヘリオスの手の甲の痣と、私の胸の痣の形が一致していて、神殿の聖なる祭壇の前で、対面した時くらいだ。

あの時はもう、こんな素敵な人と運命がつながっているなんて、ととても夢みたいで、ちょっと大団円の物語の姫君のようだと思って、うれしかった。

しかしそんな思いは、彼の仲間たちが、私が逆立ちしてもかなわない麗しい見た目をしていて、私がどうあがいてもかなわないほど、魅力的で、実力にあふれていると知らされるまでだった。

何度も何度も、彼女たちに


「あなた程度に、ヘリオスの相手が務まると思ってはいけないわ」


「あなたくらいの見た目の方はいくらでもいらっしゃるのよ。ヘリオスの隣に並ぶとなんてみすぼらしいのでしょう」


「あなたみたいな頑丈さしか取り柄がないなんて、ヘリオスの聖剣としてどうなのよ」


と呪いのように言われたこの身はもう、ヘリオスと並ぶと見劣りし、色んな意味で役に満たないと知っているし、納得しているし、理解しているのだ。

これで、純愛物語なれる方がおかしい。

大体、純愛物語になってしまったら、私よりもヘリオスを思っている、あの三人の仲間たちが絶賛悪役になってしまうじゃないか。

彼女たちは私を総合的に見て、相応しくないと客観的に判断した。

それは誰がどう見ても理解できる部分で、私の聖剣はひたすらに頑強で頑丈で、馬鹿みたいに耐久性があったから、意地でも折れない聖剣として、重要視されただけ。

本来ならば、仲間たちの力を増幅させ、一層聖なる力の付与が加わるのが聖剣なのに、それが一切ないのも、また、私の聖剣の問題な所だったのだ……


「ゆうシャは」


不意に、魔王のしもべが言葉を発した。あまり自主的に喋らないのに。

何を言いたくなったんだろうか。

私が相手を少し見上げて、言葉の続きを待っていると、魔王のしもべは続けた。


「あいしテいタのだろウか」


「……それは当人しかわからない心の機微じゃないかな」


私は煮え切らない言い方になった。ヘリオスが誰を愛していたのか、愛しているのか、それはヘリオスの心だけが知っている事で、でももうヘリオスは、聖なるお姫様と結婚し、他の見目麗しい仲間を側室として迎え入れる事が決まっている。

そしてその結婚式は、この魔王のしもべが処刑された翌日で、ヘリオスたちは正午の処刑を見届けたのちに、天馬の馬車に乗り、特急で都に戻り、支度をすると、いろんな人たちが噂していた。

結婚前に来てもらえてありがたいという意見が、圧倒的に多かった。

結婚した後は、貴族たちとの盛大な宴が都にあり、一層ダズエルに来てもらえる確率が減るからだと、私くらいでも簡単に耳に入る噂が流れるほどだ。


「ヘリオスが、心の底から、この聖剣の鞘であるジーナを愛していたら、死体が見つかるまで、結婚なんてできっこないと思うよ」


だって。


「愛している人が、生きているかもしれないのに、他の女性と結婚できるとしたら、それは純愛でも心の底からの愛でもないじゃない」


この魔王のしもべは、私がその聖剣の鞘のジーナだとはわからないだろう。

最後の関門として立ちはだかった時、私は後方に隠れて、ヘリオスが持つ私の心臓と、この魔王のしもべが振るう業剣がぶつかり合うたびに、胸を走る激痛に体を丸めて、叫ばないように歯を食いしばっていたからだ。

この魔王のしもべは、私が勇者一行の仲間だとは知っていても、聖剣の鞘のジーナだとはわからないはずだ。

だから、私がさも知ったように、持論を唱えても、ふうん、そうなのかという感じでいてくれるだろう。


「あいハ」


私の考える純愛とか、心の底からの愛とかの考え方を聞いた魔王のしもべは、静かに、まるで愛を知っているかのようにこう言った。


「ほんにンのりくツをこえル」


「……え?」


私が思ってもみなかった言葉の連なりに、目を丸くして相手を見ると、もう魔王のしもべは新聞の記事の方に集中していて、突っ込んで聞く事は叶わなかった。






そして、ついに、とうとう、というべきか、処刑が前日に迫っていた。

こうして、古新聞を持って、訳あり部屋に入るのも最後になるだろう。

どうして牢屋に戻されなかったのかと言えば、牢番が暴走した事で、他の牢番が同じ事をしないかという、疑惑が上層部に生まれた結果だったそうだ。

牢屋の中で暴行死というのは、処刑が決まった虜囚を見に、勇者が来るというのに、ありがたくない話で、やっぱりそこが重視されていた。

医療院の訳あり部屋ならば、暴行の可能性は一気に下がるという事で、処刑の日まで、大人しい状態ならそこから動かさないと決まっていたのだ、と教えてくれたのは、副院長だった。

これが最後に古新聞になるのだ、と私は昨日の新聞を握って、訳あり部屋に向おうとした。その時だった。


「ジルダさん」


私は院長に呼び止められた。何の用事だろうか。もしかしたら、もう、あの魔王のしもべの面倒を、見なくていいという事なのかもしれない。

でもきっと、最後の最期、現れない友人の事を思って、怨霊になられたら困るのは医療院その他だから、そこを訴えれば、今日までは、あの意外と大人しくて理知的な、魔王のしもべの友人でいられる気がした。


「はい、どうしましたか」


「……ジルダさんが、一週間前に、洗濯担当の魔術師たちに、魔王討伐の時から一気に減った怪我人が、また増えているような気がする、と相談していたと聞いて」


「はい。簡易宿泊施設のシーツに、思ったよりも血が付いている事が、増えだしていたので、おかしいと思ったんです」


「……やはり時期的にはそれ位からなのか……」


「時期的に、とは?」


私は院長が何か自分だけで納得しているから、気になって問いかけた。

その問いかけに、院長が答える。


「ダズエルまで、王都の情報が来るのには時間差があるという事は理解できるだろうか?」


「そりゃあ、色々なモノが限られていますし……高級な連絡用の魔術道具を、そう頻繁に使用できないとも聞きますし」


「そう。そのため辺境と言っても過言ではないダズエルまで、王都からの情報が来るのが数週間単位で遅れてしまったわけだが……どうも、王都付近の村が、いくつも廃墟になっているらしいんだ。人間同士の争いの結果にしては、妙に徹底的に過ぎる、という事で、王都から変化の情報を求められていてね」


院長は溜息をついた。


「ダズエルは、魔王の居城に最も近い町の一つで、魔物との小競り合いも頻繁だったから、変化の度合いが、よく分からない時も多くてね。色々知っていそうな人に聞きまわったら、洗濯係の魔法使いが、そう言えば、ジルダさんがそんな事を言っていた、と教えてくれたんだ」


ジルダさんは、平和になってから簡易宿泊施設で働いていたから、分かりやすい変化だったんだろうね、と院長はいい、続けた。


「怪我人が増えた気がしてきたのは、どれくらいからだろうか?」


「気になるほどになったのは、先々週くらいからです。魔王討伐からすぐは、シーツの汚れで多かったのは、泥とか砂ぼこりとか、よだれとかだったんですけど、先々週あたりから、怪我人が増えてきて、寺院の治癒とか、医療院の医療神官の人を頼る人とかが、ぐっと増えている気がしていました」


「ありがとう。町長たちにも、それらの情報を回さなくてはならないからね。君の貴重な意見を聞かせていただいて、うれしいよ。ダズエルに長いと、よく分からなくなってしまうものだね……」


院長はそれだけだよ、と言って、立ち去ろうとして、そこで思い出したように言った。


「魔王のしもべは、大人しいものだね。君が何か精神操作でもしてみたのかい」


「私にそんな力はありませんよ。子供の頃色々測定しましたけれど、結果は全部平均以下でしたから」


「そうだったのかい。それは悪い事を聞いてしまったね」


院長は今度こそ、医療院の院長室の方に去って行った。

私はそれを見送りつつ、訳あり部屋の方に向かっていく。

処刑が明日だからなのか、最後に魔王のしもべの様子を見て見たい野次馬でも増えたのだろうか。

入口のあたりに、人が数人いて、話し合っていた。


「いよいよ明日だぞ」


「勇者様の姿をこの目に映せるなんてなんて幸運なのかしら」


「魔王のしもべがいなけりゃあ、そんな事もかなわなかっただろうな!」


「他の町では、魔王のしもべを一匹も見つけられなかったらしいぞ。だからこの魔王のしもべが、分裂して多数の魔王のしもべになっていたのではないかという話もでているって」


「勇者様たちが、処刑を見にくるのは、もしもの事があった時に、ダズエルを守るためだとも聞きますよ」


「勇者様たちが守ってくれるなら、安心して処刑を見物できらあ」


……

私はぐっと古新聞を握り締めた。彼等の意見はある方向から見れば正しくて、私が嫌がる理由なんて何もない。彼等の考えも人間として正しい。

私も、少しだけその話を聞いていた。魔王のしもべは分裂するのかを調べるために、処刑ののちに、魔王のしもべの死体は箱に詰められて、王都の研究所に送られるという噂を聞いた。

死体になってもなお、安らかに眠れないのか、とやっぱり胸が痛くなったけれど、私だって同じ人間で、まがい物の友達をやっているだけで、ここで噂する彼等と何も変わらないのだ。

だから。

ここでふざけるな、と怒鳴りたい心の、奇妙な感覚を抑え込み、彼等が無反応な扉に詰まらなくなって去っていくまで、隠れてやり過ごし、そして誰にも見つからないように、慎重に中に入ったのだった。

入って、いつもと同じように、魔王のしもべが床に座っていた。置きっぱなしにしていた、昨日まで置いた古新聞たちを、読んでいる。


「……これが、あんたの最後の古新聞になる」


私は、何と声を出せばいいか迷いながら、それだけを言って、魔王のしもべの前に立った。

この大きな体を見るのも、明日でおしまいで、明日になればこの相手は、首を落されて、この世から退場する。

どんな顔をしたらいいのか、分からなくなっている自分がいる事に、気付いてしまっていた。

だが魔王のしもべは、その言葉を聞いて、明日が処刑だと気付いたらしかった。


「あしタか」


「そう、明日、あんたは明日の正午、ギロチンで首を落されて処刑される」


淡々とした声を維持しようとして、うまくできなかった。妙に声がひしゃげて、おかしい、情なんて持たないようにしていたのに、やけに喉が苦しい。

友達のふりなんてしたからだ。

本物の友達みたいに感じてしまっている、心の一部が、死ぬ友に、投げかける言葉を探して泣きわめいていた。

偽物で、まがい物で、偽りの友情であるはずで、ふりってだけのはずだったのに。

今、私は、この相手がこの世からいなくなる事実を、つらい、と思ってしまっていた。

それを、その感情を押し隠して、私はいつも通りの声で続けた。

泣いてしまうなんて、できるわけあるか。いつも通りに、なんて事はない日常を続ける顔をして、この相手を見送るのだ、と意地を張った。


「最後になるから、いいものもってきた」


そう言って、私は服の中のポケットから、一粒の飴を取り出した。

魔王のしもべは、それを見て、不思議そうだった。

どうして今、この時に、飴なのだろう、と思ったのかもしれない。

飴という、高級品である砂糖を溶かして固めた物に見覚えがなかったら、これは何だろうと思うかもしれない。

そっちかもな、とどこかで思いつつ、言葉を続けた。


「……あんた、ずっと、ずいぶん笑えない、まずい食事しか、食べてないだろう? 死ぬ前に、甘い飴の一つくらい、許されると思って、さ」


事実この一週間の間の魔王のしもべの食事は、まともとはいいがたい質の、いかにも嫌われている、憎まれている存在が、かろうじて与えられているといった感じの物で。

美味しいとか、まずいとか、そういう基準とは大きく違う食べ物だった。

もっとましなものをよこせ、と言うと、魔王のしもべの仲間だと思われて、何が起きるかわからないから、私は状況の改善何て訴えられなかった。

だから最後、少しくらい、美味しい物を。

持っていても気付かれないくらいに、小さくて携帯しやすい物という事で、思いついたのが飴で、それを持ってきたのだ。

一粒でも、結構給料が飛ぶ、貴重な物だけれど。

最後の最後、いい夢だったと、思ってもらいたかったからだ。

服から取り出して渡した飴を、貴重な香料とかは一切入っていない、砂糖をとかして金色にしただけの単純な飴を、魔王のしもべはじっと見つめて、毒なんて絶対に入っていない、というかのように口に放り込んだ。


「……アまい」


しばらく口の中で舐めて転がした後、魔王のしもべは、そう言った。


「美味しい?」


「あア」


魔王のしもべは頷き、私が最後になるからと、持ってきた古新聞を掴んだ。


「さいゴマで、ゆメヲツづけてくレ」


その言葉を聞いて、私は昨日と何も変わらない態度を貫く事に決めた。

隣に座り込んで、肩を密着させて、古新聞をめくっていく。

たったそれだけの、静かな時間も、もう、終わりが迫っていた。

最後の食事だって、いい物を食べさせてやれない無力感とか、最後死ぬ時に、看取ってやれない事とか、色々頭の中で後悔したいものはあったけれど、それを言っても、何も変える事が出来ない私は、ただ、隣に座って、体温を分け合って、最後の一日を過ごしたのだった。

そしていつも通りの鐘の音とともに、私が寮に帰ろうとした時だ。


「さいゴにヒトつだけ」


魔王のしもべが、私の腕を掴んで、引き留めたのだ。

それまで、魔王のしもべが自分から私に触れた事は一度もなく、一週間ろくな運動も食事もとっていない肉体だというのに、魔王のしもべの頑強さが、触れた手から伝わってきていた。

驚いて振り返ると、魔王のしもべは、私をじっと見つめて、口を開いた。


「きみのナマえを、とものナまえを、きかセてくれなイか」


偽りだって言ったのに。夢の出来事のように扱うって、分かっていたはずなのに。

最後に、私の名前を聞き、現実のように扱うのか。

たとえ名前を聞いたとしても、魔王のしもべは、明日死ぬというのに。

死ぬ前に、夢の中の友人の名前を、知りたいというのか。

私は、来た時に迫ってきた、どうしようもなく泣きだしたい感覚がまた迫ってきたから、それを必死に飲み下して、なんて事はない、という声を出そうとして、失敗した。

ひっく、と喉が引きつった。だめだ、泣くわけにはいかない。友達の名前を聞きたいなんて言う、当たり前の考え方に、私は、偽りの、偽物の、かりそめの友達として答えなければ。

引きつる喉を抑え込み、何度もつばを飲み込んで嗚咽をやり過ごし、私は答えた。


「ジルダ」


それを聞いて、魔王のしもべは、満足そうに頷いた。この世の未練なんて何一つない、という様な満足げな頷きかただった。


「ジルダ、ずッと、わすレない」


明日死ぬんだろうが。と言いかけて、それを言った私の方に衝撃が来る気がして、とてもじゃないけれど言えなかった。

鐘の音が終わりに近付いている。そろそろ戻らなくてはならない。

私は最後になるだろう、柔らかい終わりの手前の時間の中にいる、魔王のしもべをよくよく記憶に焼き付ける事にして、訳あり部屋を後にした。






翌日は、朝から物凄い大騒ぎのお祭り騒ぎになっていた。

この世に生きている中では、七人目と言われている、特別な勇者であるヘリオスが、魔王を倒したヘリオスが、ダズエルにやってきているからだ。

誰しもが、我先に真の勇者を、お伽話の中の勇者よりもなお立派な功績の勇者を見ようと、大通りに群がっている。

ヘリオスたちがやってくる方角の街道の方に、皆押しかけているし、詰めかけている。

大変な騒ぎの中で、感激のあまり失神する人とかも一定数いるものだから、私は医療院とか寺院の方に担ぎ込まれてきたそういう人たちを、介抱するという仕事を請け負う事になっている。

外に出ようとした時に、運び込まれてきた人達をうっかり介抱した後、なしくずし的にそうなったのだ。仕方がない。

着衣を緩めて、呼吸を楽にして、簡易寝台に寝かせたり、水を飲ませたりすれば、だいたいの人はすぐに回復して、また大通りの勇者たちを見るべく、寺院や医療院を出て行く。

だからとても、入れ替わりが激しくて、そういう仕事をする羽目になっている人たちはてんてこ舞いで、忙しい。

勇者ヘリオスたちは、処刑を見る前に、一度、医療院とか寺院の方に挨拶に来ると聞いていたから、その時は裏方に引っ込み、顔を合わせなければいいと思っている。

見つかったらとても面倒くさい事になりそうだし。

心臓砕かれたのに生きているとか思われて、魔物の類と判断されたらとてもじゃないがたまったものじゃないし。

そんな風にずっと介抱を続けて、ルナさんがいったん寺院の方に戻ってきて、私に食事交代が出来ると言ってくれたから、私は厨房の方に急いで、堅いパンとスープの食事をできるだけゆっくり食べた。

たぶんこの時間くらいしか、ゆっくり出来そうにないと判断したためだ。

休める時にきちんと休まなければ、今日を乗り切れそうにないからである。

そして、実際にゆっくりとした食事は功を奏し、食べている途中で、厨房の人たちが忙しなく動き出し、ヘリオスたちが医療院や寺院を見に来たと知った。

まあ医療院とか寺院の事を見ても、厨房に時間を押してまで来る事はないから、ここでこっそりしていれば、見つからない。運がよかった、と思ってしまうほどだった。

……でも、私は、食事とかが終わって、正午の時間になったら、処刑の場所である大通りの広場まで、行く事に決めていた。

偽りでも、偽物でも、まがい物でも、かりそめでも、友達の死を見届けるためだ。

最期の時を見送ってやりたいと思うのは、人間的な感情で、私が意識を切り替えるために必要だと思ったまでの事。

きっと数多いる群衆の中から、魔王のしもべは私みたいに平凡な人間を見つける事は出来っこないけれど、私は相手を見つけられるし、最期を確認できる。

ヘリオスたちが去ったと、厨房の人たちが興奮気味に喋っているから判断して、私は厨房を後にして、大広場に向かった。




大広場は、物凄く熱狂していた。それは勇者たち、見目麗しい英雄たちが、一番いい席に座って、人々に手を振っているからだろう。

最期に見た時よりも、ヘリオスは落ち着いた顔をしていた。魔王討伐が終わって、そう言った重圧がなくなったからかもしれない。

そして彼が結婚する聖なる姫君は、驚くべき耀ける美貌で、仲間たちもそれぞれ、種類の違う際立った美しさで、ヘリオスの周りに座っている。

私がその場にいたら、あまりにも場違いだと思われていたに違いない、席順だ。

やっぱり、私は聖剣の鞘だったけれど、ヘリオスの婚約者としては相応しくない女の子だったんだな、と何とも言えない事実を改めて確認した気分だ。

そして、人々が熱狂する中、檻に入れられていた魔王のしもべが頑丈な鎖につながれた手枷に引っ張られて、姿を現した。


「死ね!」


「化け物め!!」


「さっさと消えろ!」


「汚らわしいものめ!」


「怪物が!」


「人間の裏切り者が!!」


「いい気味だ!」


姿を現した魔王のしもべに対して、民衆は一般的な事を言う。魔王の配下は憎まれる存在であって、私のように死を悼む神経の人間は早々存在しない。

私だって、関わらなければ、彼等と同じような言葉を口に出していたはずだ。

それ位、勇者たちを殺してきた魔王のしもべは、忌み嫌われる相手なのだ。

だが、魔王のしもべはそれらの声など聞えていないような姿勢で、静かに歩いていた。

それはあまりにも堂々とした素振りで、とても処刑される魔性とは思えない立ち振る舞いだ。

私は、もともと詰めかけていた人たちの隙間に、なんとか入り込んで、その様子を観察している。皆早々に場所取りをしていたから、よく見える場所なんて立てない。

かろうじて、見える。かろうじて、認識できる。

それ位の、位置に私はぎゅうぎゅうに圧されながら立っていた。

そして、魔王のしもべがギロチン台の上に、頭を乗せる。

そこで、ヘリオスたちが、打ち合わせにあったのだろう立ち上がり方をして、民衆によく聞こえるように、こう言った。


「これより、数百年に渡り、数多の勇者一行を殺した、大罪人の処刑を執り行う! 魔王のしもべよ、魔王に与した人類の裏切り者よ! お前を今ここで終わらせる!」


ヘリオスの大声に、民衆たちはわっと歓声を上げる。ころせ、ころせ、ころせ、と足踏みをして高らかに熱狂する。


「呪われし罪びとよ! お前は首を落され、未来永劫、地獄の底から救われる事もなく、己の犯した罪への罰を受け続けるのだ!!」


そこで聖なる美貌の姫が、呪いの言葉を唱える。

大国の聖なる姫君が、死んだ後の安寧を許さず、呪われろと唱えれば、唱えられた対象は真実、あの世で苦しみ続けると言われている。

誰もがそれにおびえるし、聖なる姫はその事を十分に理解しているから、滅多に呪いの言葉なんて口に出さない。

それなのに、こうして魔王のしもべに対して唱えるというのだから、いかに魔王のしもべが罪深い存在なのかという事を、人々に知らしめるのだ。

私は、ぐっと涙をこらえた。でも聖なる姫君の言葉に感動して泣いている人もいるから、私だって感動のあまりの涙を、こらえていると思われただろう。それでいい。

優しい夢をつかの間見る事だけを望んだ、実は理知的な魔王のしもべへ向ける道場に似た感情を、誰かに気付かれるわけにはいかないのだから。

誰にも気付かれないように目元をこすり、私は、魔王のしもべの終わりを見届けようと目を凝らし、いよいよギロチンが落とされる準備が整ったその時だった。


最初は、熱狂した人々が、熱狂しすぎて叫んでいるのだと思っていた。

だがそれが、異様に必死で、命からがらに聞こえる声になってきて、誰もがギロチン台の方ではなく、悲鳴が聞こえてきている方……町の出入り口の門の方を向いた時。

私だけではなく、たくさんの人々が、大広場に押しかけてきていた人たちが、見たのは、数多の……あまりにも多すぎる魔性の群れだった。

魔性の群れは、興奮気味に人語ではない言葉を放ちながら、ひしめき合う人々を襲っていた。

それを誰もが理解し、その場はたちまち阿鼻叫喚の大混乱の場所へと変貌したのだ。

私は、運がよかった。ひしめき合う人たちの中でも、割と外側にいたから、押し合いへし合い、なんとか聖なる印を持つ建物の中に、逃げ込もうとする人たちにもみくちゃにされる事なく、ぺいっとその外側に押し出されて、行動の自由がある程度確保できたのだ。

私は周囲を見回し、なんとか自分だけは安全な所に逃げ出そう、とそれまでの熱狂的な大騒ぎを忘れて、死に物狂いで逃げている人たちを見やり、一番いい観覧席にいたヘリオスたちが、どう動くのかを見た。

ヘリオスは、魔物が、町の中に侵入するという前代未聞の出来事に動揺しつつも、神剣を抜き放ち、観覧席から飛び出しているみたいだ。

そしてその援護をする幼馴染の女剣士、訓練仲間の魔法使いの女性、癒しの力と退魔の力を持つ聖なる姫がそれに続こうとしているのに、人々があまりにも自分の事だけを考えて動くものだから、高い所にある観覧席から下りられず、そして街路にいる人々が多すぎて、広範囲に発動する攻撃魔法とか、聖なる魔法とかを使えず、女剣士も己の武器を振り回せず、何もできないでいる。

私も、どこか安全な場所、聖なる印があって、魔性が立ち入る事の出来ない場所に避難しよう、と思って、ぎゅうぎゅう詰めの大通りではなく、細い路地裏を進もうとした時だった。


「たす、け、て……!!」


走り出そうとした私の耳に届いたのは、女の人の息も絶え絶えな声で、そんな声は今この場所に満ち溢れているのに、その人の声は近かったのかよく聞こえた。

とっさに振り返った私が見たのは、赤ちゃんを抱き、群衆に巻き込まれた時に足をひねったのか、倒れている女性だった。


「おねが、い! この子、だけでいいから!!」


女性は逃げきれないと判断した様子で、誰でもいいから赤ちゃんを助けてほしい、と声を出しているけれど、皆それに手を貸せる余裕がない。

そして、倒れている女性なんて魔性にとって格好の獲物で、彼女の背後に、魔性が迫ってきている。

見捨てても、良かったのに、私の体は動いていた。逃げ出す時に誰かが落とした斧があって、私は、その斧を、その女性の背後から切り殺そうとする剣士系の魔性に、力いっぱい投げつけたのだ。

投擲の訓練もそれなりに受けて来ていた過去が、ここで初めて私の役に立った。

投擲された斧は回転しながら、その剣士系の魔性の顔面に直撃し、剣士系の魔性はどうと倒れ伏したのだ。

私は相手が絶命したか確認する前に、彼女に駆け寄り、死に物狂いで彼女を立ち上がらせ、その辺に落ちていた板切れの破片で、彼女のくじいているらしい片足を固定し路地の細い道を指さした。


「あっちに走って! 突き当りを右に曲がれば、寺院の聖堂の脇の道に着く!!」


「あ、ありがとうございます……!」


「お礼は生き残ってからにして!!」


私は怒鳴り、彼女を先に走らせ、彼女は赤ちゃんとともに生き残りたいから、火事場の何とやらを発揮してすごい勢いで走り去っていく。

私も、逃げねば、と走り出そうとして、その時胸を襲ったすさまじい痛みに、うめき声も出せないで膝をついた。

こんな時に!!

心の中で自分を罵った時、私の視界の影で、ヘリオスが、いかにもこの魔性の群れの頂点のような、一層禍々しい魔性と打ち合っているのが見えた。

ヘリオスの周りに、彼の仲間は一人もたどり着いていない。

彼女たちは、人々がひしめきすぎて、そちらに駆け付けられないのだ。

そっちを見ると、彼女たちもなんとかヘリオスのもとに行こうとしているのに、かなわないどころか、人々に助けてとすがられて、身動きがほとんどとれていない。


「助けてください!」


「聖姫様!」


「剣士様!」


「魔法使い様!」


「私だけでも助けてください!!」


そんな声が雑音に似た量になるほど、彼女たちを取り囲み、彼女たちはそれを振り払えない。多すぎるのだ。

私はそして、単身、補助も援軍も何もなく、魔性の長と打ち合うヘリオスを見やる。

魔王を倒したヘリオスだったら、補助とかがなくても、魔王と比べれば弱いはずのそれに勝利すると、思われた。

でも、そう簡単にはいかなかった。魔性の長は強いようで、ヘリオスの剣技を受け流し、決定的な攻撃がどうしても当たらないのだ。

ヘリオスは動きにくい正装を破りながら、必死に戦っている。きっとあの魔性の長らしき魔性を倒せば、他の魔性たちも引き上げると思っているのか。

……でもどうして、今まで、町や村には一切入ってこなかった魔性たちが、人間の暮らす場所に入れば、諦めて去って行った魔性たちが、そんなのもう関係ない、と言わんばかりに、ここダズエルの高い壁を突破して、入ってきて人々を襲っているのか。

考えても答えは出ない。私は、ヘリオスの援護をすれば、道は開かれる、と信じて、意地で立ち上がった。

これ位の痛みだったら、魔王との決戦の時の方がずっと痛い。あの時は失神できないから、殺してくれって思いたくなるほど痛かった。

今はそこまでじゃない。だったら、援軍のこないヘリオスを、援軍したくても人々に縋られて、押されて、駆け付けられない彼の仲間や、町の衛兵たちの代わりに、補佐するのだ。

私は立ち上がり、ふらつく足でも、叱咤して、走り出した。

走って、ヘリオスの背後まで走る。そこで、ヘリオスが数多の切り傷を負っていて、魔王討伐の際に着用していた聖なる鎧もないから、結構直接魔性の剣を受けていると気付いて、私が出来る、焼け石に水くらいにしかならない、最低級回復魔術を唱えた。

それは、紙一重で、ヘリオスの命を守った。彼の首に走った傷だけが、瞬く間にふさがって、彼が大量出血で死ぬ事を防いだのだ。

私は、神殿で普通とはいいがたいほど訓練を受け続けてきた。でも、かろうじて覚えたのは、切り傷をいくつか直せる程度の、ちゃちな最低級回復魔術と、魔性相手に役に立たない事の方多い投擲術と、何とか一般人の攻撃を受け流せる体術くらいで、旅の間魔性との戦いでは、足手まといの役立たずにしかならなかった。

でも、その、最低級が三つも揃えば、何かにはなれる。だから、私はヘリオスの傷を一つずつ、厄介なものから順番に癒す事に集中した。

ヘリオスが、あの魔性の長を倒すまで、なんとか持ちこたえさせられればいい。元々少ない魔力量の私は、直ぐにそれを枯渇させてしまうだろう。

でも、やらないで死ぬよりも、やって死ぬ方がまだ胸を張れる。

ヘリオスは、私の方を見やりもしない。いいや、見やる余裕なんてない。それ位、魔性の長の剣の腕は卓越していて、魔王との戦いを実際に見ていない私には、魔王以上の強さではないか、と思ってしまう物があった。

それでも、私は、魔性の長とヘリオスの戦いを、意地で補佐した。枯渇しそうな魔力をぎりぎりまで絞り、ヘリオスの致命傷だけに集中してふさぎ、ヘリオスが剣をふるうたびに走る激痛に歯をくいしばって耐え続けた。

でも、そんな必死のあれこれも、あまり時間稼ぎにはならなかった。

敵の攻撃を減退させる聖なる鎧も、自身の体を癒す神の兜も、自身の力や魔力を増幅させる精霊の盾も持っていない……持ってくる理由がなかったから……ヘリオスが、ついに魔性の長の剣で、吹っ飛ばされて、私の脇に転がったのだ。

強かに地面に打ち付けられたヘリオスが、うめく。私は彼の手から、神剣がすでにこぼれ落ち、全く何も持っていない事に気付いて、神剣は何処なのだ、と周りを見回した。

神剣は、見える場所のどこにも見つけられなかった。


「ヘリオス!! しっかりして! 立って自分を癒す事に集中して!!」


私は、ジーナだとばれるとわかっていたけれど、うめく彼に怒鳴り、ヘリオスの前に出た。

魔性の長は、そんな私をにやにやと見ている。


「憐れな、勇者に恋する乙女と言った所か? 哀れな。だが安心したまえ、二人とも一緒に、あの世に送り届けてやろう」


魔性の長はそう言って、口から何かを唱えた。魔性の長は角を持った牛の頭をした魔性で、剣よりも斧の方を持っていそうだけれど、持っているのは禍々しい大剣だ。

その大剣に、どす黒く赤い霧がまとわりつく。それを受ければ、死ぬ、と詳しくなくてもわかるほど、それはぞっとする霧だった。

それでも、私は、時間を稼ぐために、頭を働かせた。


「……ねえ、死ぬ前に聞かせて。どうして今まで町とか村に入ってこなかった魔性たちが、入ってくるようになったの」


相手は自分の方が絶対に有利だと思っている。余裕がある。

ならば、死にゆく弱者の、最期の問いかけに、答える程度には自分に酔っていてもおかしくないと思ったのだ。

そして私の問いかけに、牛の魔人は答えた。


「答えは簡単だ、哀れな人間の乙女。魔王様が死んだからだ」


「簡単じゃないわ。魔王が死んだら、世界は平和になるんじゃないの」


時間を稼げ、会話をしろ、長引かせて、ヘリオスの仲間たちが来るまでの時間を作れ。

頭の中で必死に思考が周り、会話を続けようと努力する。


「魔王様は正しく、世界の魔性の王であらせられた。ゆえに魔王様が、町や村を襲って人間を滅亡させるのは面白くない、とおっしゃれば、配下の五王もその配下たちも、それに従うまで。だがそれを命じた魔王様が消え去った今、五王は新たな頂点を決めるために、こう取り決めた」


にたり、と恐ろしい笑顔で、牛の魔人が続ける。


「一番人間の村や町を滅ぼした五王を、新たな魔王としよう、と……」


それを聞き、私はぞっとした。ぞっとするなんて簡単な言葉じゃないくらいに、ぞっとした。

それじゃあ、ヘリオスが、人間の平和のために、魔王を倒した事が、裏目に出てしまったという事なのか。

そんなの、あまりにも、酷い話過ぎる。

いいやそれ以上に、早く、ヘリオスの仲間たちに来てほしい。ヘリオスはうずくまったまま、私に注意が向いている事を利点と、体を自分の魔力で回復させている。

時間を稼がなければ、どうにかどうにか。


「じゃあ、面白くないんじゃないの」


「面白くないとは?」


「人間を完全に滅ぼしちゃったら、魔性たちの好きな絶望とかを、すすれないんじゃないの」


私が必死に巡らせた思考の中の言葉に、牛の魔人はげはげはと笑った。


「確かに我々は、人間の絶望や悲しみ、恐怖を甘露とする! だからなあ? 人間を完全に滅ぼす事はしない。だが人間たちが、常に絶望し、我々に逆らう気力も持たぬようにする事は、造作もないのだ!! 魔王様だけは、それはやめておけ、と止めていたがなあ!!」


牛の魔人はひとしきり笑った後、大剣を構えた。

そして私に、死の宣告をするような声でこう言った。


「さて、話し過ぎたか、それとも疑問はすべて解決したか? あの世への土産にはなっただろう? 哀れな恋する乙女、勇者とともに、死んでもらおう!! 勇者を殺せば、いい得点だ!!」


他に何か、と質問を探す間に、牛の魔人は距離を詰めて切りかかってこようとした。

私は、ヘリオスを守れば、勝ち目がある、とそれだけを希望に、ヘリオスの前に出て、身を盾にしようとした。

その時、だった。

目を開いたまま、全てを見届ける覚悟を決めた私の目に入り込んだのは、屈強な体と目出し帽の大男で、その大男が、何のためらいも躊躇もなく、牛の魔人の顔を、手袋に覆われた拳で、思いっきり殴りつけたのだ。

殴る程度の攻撃が利くなんて、と普通考えるだろう。

でも、その相手の拳は、尋常じゃなく強力だった。

殴られただけなんて、痛くも痒くもなさそうな牛の魔人が、ものの見事に吹っ飛ばされて、二転三転し、ごろごろと転がり、その辺の建物を巻きこんで倒れたのだから。

私は、その後姿を、呆然として見ていた。

弱体化したんじゃなかったの。

あのどさくさで、ギロチンは落ちなかったの。

そんなに強いのに、牢番の暴行を甘んじて受けたの。

疑問は幾つでも浮かんできた。でも、私を振り返る目出し帽の奥の、そこが見えないほど透き通った緑の瞳が、昨日と何も変わらない穏やかさで私を見つめていて、言いたい事は呑み込んだ。

命が残れば後で聞けばいい。そう思う余裕が出来たのだ。


「ジルダ」


その大男が、魔王のしもべが、私の名前を言って、さらに何か言おうとした時。

崩れた建物から、牛の魔人が起き上がり、魔王のしもべを見て嘲る大きな笑い声をあげたのだ。


「なんと!! 魔王様の死後、お前はまた、お前を裏切った人間の側につくのか!!」


「……」


魔王のしもべは何も言わない。でも牛の魔人は挑発するように続ける。


「魔王様が消滅すれば、聖なる印を描かぬ町や村など、あっという間に食い尽くされると知り、我らが魔王様の軍門に下ったというのになあ!! お前の覚悟は全て無駄になった!! お前が裏切り者、罪びととそしられ続けてなお、守ろうとした人間たちは、無知のあまり、魔王様を倒してしまったというのに!! まだなお、人間を守るために、その力をふるうのか!!」


……どういう事なのだろう。まるで、魔王のしもべが、人間というものを守るために、裏切り者の形になったとでも言うかのような、牛の魔人の言い方だった。

そして、牛の魔人が決定的な言葉を言おうとしたのだ。


「なあ、ゆう……」


牛の魔人が何かとても重要な情報を言おうとした時、牛の魔人は、一瞬で距離を詰めた魔王のしもべに、また思いっきり重たい拳を叩き込まれて、たぶん肋骨とかをひしゃげさせて、どす黒い血を吐き出した。


「すてタなマえだ」


だらだらと血を口から吐き出し、牛の魔人は距離を取る。そしてにたにたした顔のまま、割れがねのような声で、数多の魔性に響く音で、配下たちに命じたのだ。


「面白い物が見られた!! 皆の者、分が悪い、引き上げじゃあ!!」


牛の魔人がそう怒鳴ると、魔性たちの足元にやけに気色悪い紫の魔法陣が浮かび、魔性たちは全てそれに飲まれて消え去った。

よく分からない事が多くなったけれど、助かったのか、と私が思った時。

私の方、つまり背後を振り返った魔王のしもべのその目出し帽に、いきなり、超高温の火球がぶつけられたのだ。


「何を……!!」


魔王のしもべは結果的に、勇者ヘリオスの命の恩人でしょう、と言おうとした私が、火球を誰がぶつけたのか、軌道をたどって背後を見ると、そこにいたのは勇者の仲間である女魔法使いの女性……シンディさんだった。

そして、倒れるヘリオスに駆け寄る、聖なる姫のリリーシャさんと、剣を抜き放ち、ヘリオスとリリーシャさんの前に出て、魔王のしもべを睨み付けて立っているのは、ヘリオスの幼馴染の女性、ウテナさん。

ヘリオスを助けた魔王のしもべに対して、三人はあからさまな敵意を向けている。


「命惜しさに、今更ヘリオスを助けても遅いのよ!」


ウテナさんが言う。きっとそんな事、あの魔王のしもべは思っていないのに。


「あなたも!! どうして上級回復薬くらい常備していないのですか!! 致命傷しか癒されていないではありませんか!! 役に立ちませんね!」


私に怒鳴りつけてきたのは、リリーシャさんだ。そして、ウテナさんのやや後方で、さらに攻撃呪文を使おうと構えているシンディさん。

余りにも、あんまりじゃないか。と思っていた時だった。

火球は魔王のしもべの目出し帽を全て焼き尽くし、その炎の中から現れた魔王のしもべの顔に、私は言葉を失った。

私だけではなく、三人の勇者の仲間も、言葉を失っているほどの、顔が現れたのだ。



魔王のしもべは、とても美しい顔をしていた。端正で、男らしく、それでいて穏やかな性格を思わせる雰囲気があった。

ばさりと背中を流れたのは、他の色が一切存在しない漆黒の髪。

瞳は、あまりにも透明度が高い翠で、肌は元の色が白い物の、日に焼けている。

黒髪に、緑の目。

それは、とても特別な組み合わせとして、世界に知られている物だった。

古の時代に、人間同士の争いで滅んでしまった超大国、ウロボロスの純血である印だった。

今でも多くの国々の王族が、ウロボロスの血をひいている事を自慢とし、黒髪に緑の目という、ウロボロスの純血の色に近くなる事を望んでいる。

しかし、片方はかろうじて手に入っても、ウロボロスの色ほど美しくも、透明度が高くも慣れず、政略結婚でかなりもめると言われている事を、私でも知っている。

そんな、各国の王族たちの垂涎の的になる色味を、魔王のしもべは持っていた。

純度は、高すぎるほど高いだろう……

持っている色味も、顔立ちも、信じたくないほど選ばれたそれで、私も勇者の仲間の女性たちも、言葉を失っている。

しかし、魔王のしもべは、勇者の仲間たちなど無視して、私だけに歩み寄って、美しい形の唇を開いた。


「けがハ、ないだロウか」


「あ、うん……でも、どうして。魔性たちに紛れて、逃げると思うのに……」


私だけに向けられた言葉に、ぼろりと考えた事を口にすると、魔王のしもべは、少し目を見開いた後、何事もなかったように続けた。


「きミガ、いル。しょケイされるまデは」


「……ばかみたい」


処刑されるまでは友達の夢を見ているから、友達を助けるために、逃げなかったと、そう言いたいのだ。魔王のしもべは。

それはどう考えても馬鹿な思考回路で、理解しようと思っても難しくて、一途で、誠実なそれだった。


「ないテいるのカい」


「泣くもんか……!!」


私は指摘された事で、自分がぼろぼろ涙をこぼしている事に気が付いたけれども、意地でも認めまい、と否定した。

そして、牛の魔人という魔性の長が、重傷を負い、配下とともに撤退したという事が人々に伝わったのか、周りは次第に騒々しさを取り戻していたのだった。

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