気づいたら命がけの追いかけっこ
はじめまして。よろしくお願いします。
「おい待てや! このクソガキ!」
後ろから鍬や鉄の棒を持った村人が何人も追ってくる。子どもの足でなんとか逃げられているのは、村人が入るのもためらうこの森に慣れているからだ。でも俺は高校生で、こんな森なんて入ったこともない。体はもっとデカかったはずだし追いかけてくるやつらとは会ったこともなかったはずだ。それなのに今、こんな場所で命がけの鬼ごっこをしている。
もう訳が分からない。その上、ずっと湿っぽくて足場の悪い森を必死に走り回っているせいで体力はみるみる減っている。あっちも疲れていないはずないが、諦める気配はない。
「あっ」
木の根に足を引っかけて転ぶ。慌てて後ろを見れば村人が一人追いついていた。
「くそっ、散々逃げ回りやがって…! 天使の腕をどこにやった!」
「し、しらない…」
「そんな訳あるか! このクソガキが!」
男が手に持っていた鍬を振りかぶる。地面についた腕がずきりと痛んだ。
「やめ…!」
カアン、という音が残響となって広がっていく。恐る恐る目を開けると村人が振り下ろした鋤が目の前で止まっていた。
「な、なにを……」
「おい、なにがあった!」
「な、何って、何が何だか……」
「あのガキ探してんだろうな⁉」
「あ、ああ。さっき見つけて……いない!」
遠くから他の村人の声が聞こえた。俺はさっさと逃げ出す。こっちは命がかかっているのだ。とりあえず、うっそうとした茂みに飛び込んで身を隠した。さっきから手が氷水に浸かったように痛む。毒のある植物にでも触っていたのだろうか。
「どこいったアイツ!」
「落ち着け、こんだけ人数いれば見つかるはずだ!」
「だいたいお前が落とし穴にはまるから……」
「そんなもんあるなんて思わなかったんだからしかたねえだろ⁉」
「ああくそ、天使の腕ぶっ壊してねえだろうなあのガキ……」
話し声が遠ざかっていく。『天使の腕』が何なのかは分からないがとにかくこのままだと窃盗の冤罪かなんかで集団リンチコースまっしぐらだ。俺は連中とは別の方向に走った。
あてもなく走っていると木々の向こうに開けた場所があるのに気づいた。見つかったらマズイのでここは迂回して…
そのとき、血生臭い風がゆっくりと通り過ぎていった。風上の方を伺うと小川のすぐそばに大きな血だまりができていた。その横にはまとめられた縄が置かれていた。
この血は肉食動物の食事の跡じゃない。村人がめったに立ち入らないこの森で、人間が狩りをしたのだ。それはたぶん、村の外の誰かだ。
「おい、いたぞ!」
「ガキ! 盗んだもの返しやがれ!」
「……俺、何も盗ってないよ。勘違いじゃないか」
「ごまかしてもムダなんだよ! 当番のやつがお前が出てきたときに天使の腕がなくなったのを見てんだよ!」
手に農具や火かき棒を持った村人たちが近づいてくる。気づけば後ろからも村人が距離を詰めていた。逃げられない。俺が観念して降参しようとしたとき、凛とした声が響いた。
「物騒ですね。大人が寄ってたかって子ども一人をいじめるのは卑怯ですよ」
厳しい顔で村人を見まわした青年は俺を見てニッコリと笑った。その手には柄に顔が彫られた槍が握られ、頬には真っ赤な血が飛んでいる。村人たちは完全に気おされていた。
「なんだてめえ! こっちは20人いるんだぞ!」
「……な、なあ。あの当番のやつはどうした?」
「さっきまで俺と一緒に……あれ?」
「あ、一人で森を歩き回っていた青年なら会いましたよ。あなたたちのお仲間だったんですね」
鬱蒼とした森にかろうじて差し込んでいた日差しが曇り、背筋を冷やすような冷たい風がふいた。青年は血で汚れた頬を手の甲でぬぐう。乾いた血が掠れて引き延ばされる。彼の槍からポタリと赤茶色の液体が垂れ、顔の装飾を涙のように濡らした。
「早く探してあげた方がいいかもしれません。……間に合わないかもしれませんから」
「ひっ……」
「うわああああ!」
「化け物だ! 逃げろ!」
恐怖が爆発したように村人たちが逃げていく。俺はその後ろ姿を呆然と見送ることしかできなかった。村人たちは迷信深いところがあり、この森には人食いの化け物がいると言って入るのも嫌がるくらいだから仕方ないのかもしれないが、流石にビビり過ぎのような気もする。
「あの人たち、腹下しの実を食べた人を拾ってくれるといいのですが……」
「腹下しの実?」
「はい。リンゴにそっくりなのですが、食べると下痢が止まらなくなります。たまたま青年が食べ終わったところに出くわしたのですが、どこかに逃げて行ってしまったのです」
「それは……間に合うといいな」
トイレに。
青年は小川の脇に置かれていた縄を拾うと、さっきよりもずいぶん柔らかい笑顔を浮かべて膝を折り、俺と目線を合わせた。
「私はレイスタと言います。職業は……占い師と魔術師の中間です。怪しい者じゃありませんから一食ご一緒しませんか? 追いかけられて疲れたでしょう」
俺はとりあえず飯をいただくことにした。散々体力を消耗したあとだと肉入りスープが余計に体に染み渡る。ちなみに、小川近くの血だまりはレイスタさんがウサギの血抜きをした跡だった。槍から垂れた茶色い液体はスープの具材の皮に切れ目を入れたときについた汁らしい。紛らわしいにもほどがある。
「つらいことをきくようかもしれませんが、何があったんですか? 彼ら、武器まで持っていましたよね」
「それは……」
俺はやっと落ち着いた頭で思い出せる限りのことを思い出し始めた。