ネバーランドに馳せる
「ネバーランドには、もう行けない」
寒さも極まり風呂へ入るのも億劫になるそんな日。リビングでぼんやりとテレビを眺めていた藍はそっと呟いた。その焦点はテレビ画面には合っておらず、画面の中では最近話題の芸能人が楽しそうな顔を作って笑っていた。
うるさくは無いが静かでもないその空間で、洗い物をしていた柊真が小さな声を聞き取れたのは......幸か、不幸か。藍にはどちらでも無かった。どちらでも良い事だった。
「ネバー……何?」
「ネバーランド。知らない?」
泡を流す為に手を動かし続けながらも興味を示している夫に、藍は少し微笑みを浮かべてから教えた。ネバーランドとはピーター・パンに登場する架空の国であること。そこでは子どもだけで暮らしていて大人は子どもに害をなす海賊しか登場しないこと。そこに住む子ども達は歳をとることがないこと。
そして藍は子どもの頃、ピーターパンが大好きで、いつかネバーランドへ行ってみたいと思っていたこと。
視線は彼の目と交わっているのに、まるで窓の向こう側を見つめるような顔で、彼女は話をした。
「私、どこかでずっと子どものままだったんだわ」
また、視線が逸らされる。
濡れた手を拭いた彼は、その視線を追うようにして彼女の側へ寄り添った。
「それは精神的にって事か?」
妻の思考を理解しようと尋ねてくる夫に、藍は肯定するよう首を動かす。
「社会的に見ればもう既に大人になってる。そんなことは分かってるの。日本での成人は20。就職して、子どもの"先生"になって、命を預かる責任だってあればまだまだ子どもだなんて言ってられない」
数年前に大学を出た彼女は小学校で教師をしている。少なくない教え子を抱える中で責任への自覚もせざるを得なくなっていた。
それでも、と彼女は言う。
「どこかで大人になるって、もっと明確なものだと思ってた」
はじめは独り言のようだったそれは徐々に語り掛けへと変化していく。彼女のぼんやりとしていた表情に少しずつ、いつもの気の強い彼女が戻ってくる。
ふうっと息を吐いた藍は、首を傾げる柊真を見て苦笑した。
「だけど、違ったんだね。考え方とか精神とか、昔に比べたら随分と"大人"になったと思うけれど、根っこは変わらないし、責任の分だけ大人にならなければいけなくなっただけ」
その言葉は藍にとっては真理だった。
ここにきてようやく柊真にも合点がいった。柊真だって自分の中にも精神的幼子がいることを自覚していた。例えばそれは仲間との遊びの中で、はたまた愛する妻との情事の中で、極たまに顔をのぞかせるに過ぎなかった。
柊真も妻と同じ学び舎で働き教え子を持つ先生である。もう子どもだとは言えない。彼の社会的立場がそれを許してはくれない。
「でもね、もうネバーランドには行けなくなった」
繰り返し、その言葉を重ねる。
まるで自分に言い聞かせるようだった。
「そもそもネバーランドなんて無い、創られたものだって分かってるの。でも、どこかそこに幻想を抱いてたんだなって」
ネバーランド、子どもだけで過ごす、ずっと子どもでいられる国。
子どもであれば楽しいことばかりのそこへ幻想を抱くのは当たり前のような気もした。
彼女の話は終わらない。躊躇うことなく……躊躇いを知らず、心をこぼれ落としていた。
「もう、私にとってはネバーランドは子どもだった私の安息地ではなく、大人である私から子どもを奪ってしまうかもしれない恐ろしいものになってしまったんだなって」
ふと、そう思ったの。
その声は寂しそうでありながらどこか安堵を含んでいた。ひっそりと息を吐いた藍はまた何も映さなくなった画面をぼんやりと見る。合わない視線は合わせていないだけだと、画面を見ているのではなく、上げた視線の先に画面があっただけなのだと柊真はやっと理解した。藍のすっかり大きくなったお腹を撫でながら柊真は彼女の横顔を見つめた。子は内側から蹴ってくることなく母の海でたゆたっているようだ。
ヒーターの紛い物の炎がゆらりゆらりと揺れていた。