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煌命 −こうめい−

作者: 小路雪生

 これが織り上がったら終わりにしよう…歌歩子かほこは機織機に向かい、反物を織りながら不意に思った。

 何故、そんな気持ちになるのか自分でも分からなかったが、この頃妙に心が重い。織が進み、その色合いが鮮やかになるごとに鉛を呑み込んだ様な重苦しさが歌歩子にのしかかっていた。

 どうしてだろう…歌歩は、杼を打ちながらぼんやりと思い巡らす。

 以前は、自らのイメージが形を成す事に至福の喜びを感じられたのに…今は、色が交ざり合い糸が形になるほどに憂鬱になっていくのだった。

「誰かに妬まれてるのかしら…」

 歌歩子は小さく笑うと邪気を祓う様に、全身の力を込め筬を手前に打ち込んだ。

 杼が上下に開い経糸の間をくぐり抜けていく度に、歌歩子のイメージが形になっていく。


 いつからだろう…こうして、反物や帯を織る様になったのは…祖母や母などから譲り受けた和服を着る度に、自分好みの装いをしたいと感じていた歌歩子は、着物や帯、小物類を買い足すうちに、気に入る品はいずれも高価で物によっては容易に手が届かないという現実を知った。着物好きが高じた歌歩子は、やがて創る事へと興味が向かい出したのだ。

「そんなに高価なものなら自分で作ってしまおう」

 歌歩子は単純にそう思った。しかし、織も染色も知るほどに奥が深く、片手間ではイメージしていた反物を作る技術が身につかないと痛感するや否や、気が付くと京都や新潟まで赴き、織や染色の勉強を始めていたのだ。

 そうして数年間に渡って情熱を注ぎ習得した結果、歌歩子は何とか、自らのイメージを染織によって表現出来るだけの力量を備えるに至り、以降、郊外の自宅で機織に精出す日々となった。

「四捨五入すると四十じゃない…」

 歌歩子は機織をしながら独り言を呟いた。染織に没頭し出した頃の歌歩子はまだ二十代だった。老い先長いと思い悠長に構えていたが、好きな事にのめり込んでいる間にかすっかり四十路が迫っている…そんな我が身に思わず苦笑した。

 実家の母はこんな娘をどう思っているのだろうか…歌歩子は女親の胸のをうちを訊いてみたい気がするが、きっと

「ふーん…」

 などと、興味無さそうに曖昧な唸り声で答えるだけだろう。

 歌歩子の母親は世間並みの親とは違う。我が子に無関心というか…気ままに生きる我が子に嫉妬しているのだろうか、結婚すらしそうもない娘を冷ややかに見つつも、小言すら言おうとはしない。その代わりに褒める事もなかった。

 もし自分が母親だったら娘の先行きが気にかかり、思わず「好きな事やるのもいいけど…結婚しないの? 誰かいい人いないの?」などと詮索してしまうだろう。しかし、母がそんなセリフを歌歩子に言う事は無い…窓辺に置いた歌歩子の背丈ほどある大型の機織の筬を手前に引きながら思った。

「だから、私は織物を始めたんだっけ…」

 一人呟くその部屋に、ガタン、という木製の機の音が響く。

 優雅な暮らし向きではないが、今の歌歩子にとってはこれだけが生き甲斐と言える。

「好きな事が出来ていいわね」

「自由でいいわ」

 他人は歌歩子にいろいろな事を言う。独身貴族だと思っているのだろうか…敢えて否定はしないが、歌歩子はこんな人生をどこかで終りにしたいと願っていた。

 いつ、どんな形で終りにすればいいのだろうか…歌歩子は、その日は老いた時に自然に訪れる…そう考えていた。

 しかし、この頃無性に「そろそろ終わりにしたい…」そう思う事が増えていたのだ。別に死にたい訳ではなかった。自殺する気もなければ痛く苦しい思いもしたくない。が、時折「こんな暮らしをいつまで続けるんだろう…」そう思うと、言い様の無い疲れを覚える。

「こどもがいたら…今頃夕飯の仕度をしないといけないんだろうな…早く宿題やりなさい!…なーんてこども相手に怒鳴り散らしてストレス発散したり、ね…」

 しかし今の歌歩子にはそんな暮らしのアクセントすらない。

「へー、そんな歌が流行ってるんだぁ…誰が歌ってるの?…なんて、訊く相手もいなーい」

 歌歩子は、杼を通しながらおどけて呟く。が、返ってくる声はない…そう…こんな、ふとした瞬間の物足りなさ…これを一生続けていくのだろうか…考えると気が重くなるのだった。

「…あと、何年くらいこどもが産めるのかな…そろそろ危ないかも…」

 最近は更年期が早いらしく、二年前に結婚した女友達が三十四歳で生理不順に陥り、医師から更年期だと告げられ、薬まで処方されたと電話口でこぼしていたのを思い出す。

「…花の命は短いのよ…」

 そう呟いた瞬間、歌歩子の好きな花色の経糸が現れ出した。

 今の夢は個展を開く事だが、何の後ろ盾も無い上、美大や芸大を出た訳でもない歌歩子にはその道の知人は数少なく、到底叶えられないだろう…そう諦めていた。

 それでも、自分が生きた証を残したい…そんな思いだけが歌歩子を突き動かすのだった。


 そんな風に日々無心に織り続けていると、ある時

「…そろそろ、もう、いいかしら…」

 張りつめていた糸が切れる様に、区切りをつけたい気持ちになっていた。誰もいない部屋で呟いた歌歩子が窓の外を見遣ると、真っ赤な夕日が差している。

 織り進めたその生地を眺めてみると、地色はうっすらとした茜色に霞がかったような色合いで、他に無数の色が長短のグラデーションを織りなしている。虹のようにも見えるし、パレットのようにも見えるがその色彩はどれも柔らかで嫌味がない。一見すると派手な気もするが、全体のトーンがグレーがかり落ち着いている為に浮く様な印象はなく、仕立てに気をつければ紬の付け下げになりそうだ。

 機織を始めようと決意した時、果たして自分が反物をなど織れる様になるのか…と、歌歩子は半信半疑だった。しかし、何度も失敗を繰り返しながら、ようやく草木染めも習得し、生糸を染める事から理想の反物を織り上げ、着物にまで仕上げられるようになった今、大きな仕事をやり遂げつつあるのを感じていたのだ。今回の反物は歌歩子の女性としての煌めきを投影したもので、これ以上に創りたいものは見あたらない。

 これが織り上がったら自分で仕立てて、既に染め上げた帯と合わせれば目標はひとまず達成だ。

 その完成が間近に迫り、終りが見えた歌歩子は、この先、何を創ればいいのか分からない…織る事が歌歩子の人生だとしたら次の目標が無い以上、自分も終りなのではないか…そこまで思い至った歌歩子は思わず筬を打ち込む手を止めると、暫し考え込んだ。

「これが仕上がってしまったら、私…どうすればいいんだろう…」

 未来が見えなかった。それは、創りたい物も無いと言う事だった。創作の意欲が掻き立てられない以上、染める事も織る事も無意味に思える。


 歌歩子は生活と理想の狭間に立っていた。

 自らの欲求に従い創りたい物だけに拘るのなら、完成間近の反物以上に欲するものなどこの先、創れそうになかった。しかし、歌歩子は生活を続けていかねばならず、その為には糧としての制作が必要になる。創作と制作の違いといったところだろうか。

 目の前に着々と織り上がりつつある渋いながらも鮮やかな色合いの布のおもてに、歌歩子に機の指導をしてくれた人達や、染織の知識を伝授してくれた達人等、少ないながらも歌歩子を支えてくれる人々の顔が映った。

「…織り続けていくうちに、今と明日が繋がっていくのかしら…」

 人との関係は織物に似ている。最初は独立した経糸が整然と並んでいるだけなのだが、杼や筬を打ち込むと時の経過と共に次第に模様を成す。糸が交差しあい、表情を変えていく布を見るにつけ、まるで人生の様だと歌歩子は思うのだ。色や形や大きさ、織り上がった布の用途は千差万別だ。好みも様々ある為、全ての織物に高額の値がつく訳ではない。が、それなりに需要がある限り、無駄にはならないのではないか…歌歩子は自分を支えてくれる人が居る限り、理想通りの反物や帯でなくても織り続けるのだろう…当たり前とも思える一つの答えに到達した時、歌歩子は小さく微笑んだ。

「『当たり前の事を当たり前にすればいい。その事を威張る(誇る)理由はない』…か…」

 染織を教えてくれた恩人の言葉を思い出すと

「…当たり前を続ける事が一番難しいのよね…」

 噛み締める様に呟いた。

 自分が染織を始めたのはこれを織りたかったから…今は、長年目標にしてきた歌歩子にとっての最高傑作とも言える目の前の作品に全精力を注ごうと、息吹を吹き込むように再び筬を勢いよく打ち込んだ。

                             〈了〉 09.01.28

 今回のタイトル『煌命』は『凪色の季節』に使おうと用意していたタイトルでした。読んで字の如く《命が煌めく》という意味の造語です。ですが『凪色…』は、少女が悩みながらも自分の人生や生き方を見出していくプロセスの中で、その心も次第に成長し凪いでいく、というイメージだった為に、連載開始直前にタイトルを『凪色の季節』に変更致しました。

 当初から『煌命』というタイトルが気に入っていた為、このタイトルを使いたくて短編を書き上げたのですが、題名に相応しい内容かについては自信がありません(笑)

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