豚
ある朝目覚めると、俺はベッドの上で、一頭の豚に変身していた。とは言うものの、では豚になる前は何だったかというと、まったく記憶にない。もしかすると最初から豚だったのかもしれない。部屋の中はいやに明るかった。どこにも窓はないのに、天井から煌々と人工的な光が降り注いでいる。誰かが俺を上から覗きこんだ。真っ黒な影の中に若い音楽の表情が徐々に浮かび上がり、俺に向かって笑いかけた。
「目が覚めた?」
何か言おうとしたが、俺は不細工で大きな鼻息で答えることしかできない。
「大丈夫? 痛くなかった?」
女は俺のわき腹を優しく撫でてくれた。くすぐったく懐かしい感触に俺は身震いしたが、以前どこで味わったものなのか、俺はやはり思い出すことはできなかった。
遠いとおい昔、もしかしたら前世で、俺はこの女と恋仲だった気がする。いや、俺が一方的に思いを寄せていただけかもしれない。俺は来る日も来る日も、女の尻を追い回し、疎んじられても、その周りを離れなかった。
「好きなんだ」と俺は言った。
「私は好きじゃないの」彼女はそっぽを向いたまま言った。
「こんなに好きなのに、どうして分かってくれないんだ」
「だって私は、こんなに若くてきれいなのに、あなたは私よりずっと年上で、おまけに太って醜いじゃないの。まるで豚みたいに」
「豚? 俺が豚みたいだって?」
「そうよ」女はやっと俺の顔を正面から見た。「目は小さいし、鼻は上向いて二重顎だし、手足は太くて寸詰まりで豚足そっくり、そのくせ肌は毛だらけでごわごわ硬いし、どこから見ても豚じゃないの」
俺が何も言い返せず、ふがふが鼻を動かすと、女はさらに続けた。
「それに比べて、私は鼻も顎もすっと形よくとがっているし、スマートで手足も長い。おまけに肌はすべすべでツルツル。あなたなんかとつり合うわけないじゃない」
怒りに燃えた俺は、黒魔術、呪術のたぐいの本を探して、街じゅうの古本屋という古本屋を歩き回った。呪いの力で人を犬に変えるバラモン僧の話を以前読んだことがあったが、むろんそんな都合の良い呪文はどの書物にも載っていなかった。俺は最後にたどり着いた場末の古本屋の、店頭の均一本の山の中に、「悪魔を呼び出す法」という一冊のかび臭い本を見つけた。
「本当に悪魔を呼び出せるのか?」
俺が尋ねると、べっ甲ぶち眼鏡をかけた狡猾そうな店主は、もう本を包み始めながら答えた。
「ええ、もう悪魔でもなんでも・・・」
俺は本を受け取って、家に持ち帰った。
古本に書かれた「悪魔を呼び出す法」を実践するため、俺は古道具屋で二枚の等身大の姿見を買ってきた。真っ暗にした部屋の中央に一本の蝋燭を灯し、二枚の姿見を向かい合わせて、その間に立つと、薄明るい蝋燭に照らされた俺が鏡の中の奥の奥まで、何人も何人も果てしなく連なっていた。両側から何人もの俺に見つめられ、俺は本に書かれていた悪魔を呼び出す呪文を唱えた。昔、漫画で読んでしょっちゅう唱えていたから、お手の物だ。
「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム、われは求め訴えたり」・・・
鏡の中の俺が、スーッと奥の方へ退いていき、代わりに何かが鏡を通り抜け、俺の中へ忍びこんだ。漫画のようなマントを羽織った悪魔は姿を現さなかったが、その冷酷で残忍な性格はいち早く俺の心を占領した。むろん、それは最初から俺に備わっていたものかもしれないが。俺は台所に行き、出刃包丁をベルトの隙間に挟んで、家を出て行った。
「あの古本屋のオヤジ、騙しやがったな」・・・
夢の中で俺は、女の服を引き剥がし、うつ伏せに押さえつけた。白い両方の尻を両手でわしづかみにして、暗い陰部を押し広げようとするが、いつの間にか女の尻にはくるりと丸まった可愛い尻尾が生えているではないか。押し入ろうとした俺の陰茎も、かつて見たこともないくらい長い、しかし紐のように頼りなく細いものに変貌している。そして女の柔らかい尻肉に食い込ませた俺の指先は、ぶよぶよと縮み上がった、そう、豚足になってしまっているのだ。それでも女の尻は薄赤く上気し、ねだるように左右に揺さぶられている。
「ぶひー」
俺は鼻息荒く、そのまま押し込もうとしたが、その瞬間、軽々と誰かに抱え上げられ、短い手足を空中にむなしくバタつかせた。太った首を無理にねじ曲げて後ろを伺うと、白衣に覆われたたくましい背中がかろうじて見えた。片腕で俺の胴をラグビーボールのように抱え、もう片方の手の指先に太い注射器の針を光らせている。その瞬間、分厚い尻の皮を貫いて針が突き刺さり、薬液が注入されていくのがはっきりと感じ取れた。夢の中で、俺はさらに深い夢へと落ち込んでいった。
古本屋を血祭りに上げた後、俺は血に染まった出刃包丁で脅しつけ、女を自分の部屋へ連れ込んだ。脅えた女を無理に椅子に座らせ、その両側に鏡を据えてから、俺は蝋燭を立て部屋の照明をすべて消した。女は青ざめた顔で、キョロキョロと左右に首を振る。俺は両手を上げ、あらん限りの声を振り絞った。
「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム、われは求め訴えたり。エロイムエッサイム、わが願いを叶えたまえ。」
俺は女の真正面に立ち、腕を振り下ろし、女の額をぴたりと指さした。俺が悪魔になったのなら、これくらいの願いは叶うはずだ。
「豚になれ。一生、豚になれ。豚になるんだ。エロイムエッサイム、豚にしてくれー!」・・・
俺は夢うつつの中で、女が誰かと話すのを聞いていた。相手は若くて張りのある、男の声だ。
「ミニ豚と言いますがね、そういう種類の豚がいるわけじゃないんです」
「そうなんですか?」
「比較的からだの小さな豚を、そう呼んでいるだけで、実態は普通の豚と何も変わりありません。もっと言えば、イノシシと一緒ですよ」
「あら怖い・・・」
「特に去勢していないオス豚がいちばん危ない。何かのはずみで暴れだしたら、手がつけられませんよ」
薄目をあけてみると、それは白衣を着た、背の高い、女と同じくらいの年の若い男だった。おそらく獣医なのだろう。
「だから、こんな手術をしたんですか?」
「そうです。もう安心ですよ」
男はそう言って、俺の股ぐらを手でまさぐった。先ほど感じた、くすぐったいような快感はすでになく、ただ頼りなく、ぐにゃぐにゃした感触が腹をはい回るだけだった。
「まだしばらく麻酔が効いてますから、あちらへ行って、お茶でも飲みましょう」
医者はそう言うと、女の腰に手を回して、向こうへ歩いて行った。
「ぶう・・・」
俺の呼び声は鼻息にしかならず、彼らは振り向きもしなかった。しかし、俺は幸せだった。目が覚めたら、彼らに可愛がられるような、良いペットになろう。そう思いながら、俺は再び眠りに落ちていった。
(終)