ダム湖のクジラ
その日は、上司と二人でトンネルの中を進んでいた。
そして、その日に関しては、なぜそんな所にいたのか、という理由まで珍しく覚えている。
会社の保有する水力発電用のダムの様子が、何かおかしい。
だから、現地に行って点検してこい。
上司が社長からそう告げられ、ダムの点検という緊急の仕事が発生してしまったからだ。そうは言っても、私も上司もダムの点検など、門外漢も良いところなのだが。
それでも、そのときは業務命令に疑問も持たず、ヘルメットを被りつなぎの作業服に身を包んで、ダムまで続くトンネルを進んでいた。
土が剥き出しになった簡素な造りをしたトンネルを進みながら、また変な仕事が発生しましたね、と上司に告げた。すると、上司はどこか諦めたような表情で、まあいつものことだから、と力なく答えた。その回答に私も力なく同意の言葉を口にし、トンネルを更に進んでいった。
それから、どれほどの距離を進んだろうか。
視線の先には、微かに光が見えてきた。上司と私はどちらともなく足を速めて、出口と思われる光の方へ進んでいった。
トンネルを抜け、辺りを見渡すと、そこは切り立った崖になっていた。
頭上を見上げると、虹色の雲が広がる空が目に入り、崖の下を見下ろすと、瑠璃色の水を湛えたダム湖と灰色のダムが目に入った。思い返してみると、美しい風景だったのかもしれないが、そのときはもっと他のことに意識が向いてしまっていた。
ダム湖の水が澄んでいたため、その中身が鮮明に見えてしまっていたからだ。
シャチ、オキゴンドウ、ザトウクジラなどの海獣。
バシロサウルス、ドルドンなどの原クジラ。
エラスモサウルス、プレシオサウルスなどの首長竜。
モササウルスや、イクチオサウルスなどもいたかもしれない。
ともかく、そんな類の海生生物達が、ダム湖の中にひしめき合っていた。
暫くは呆然と眺めていたが、上司が不意に、それは調子も悪くなるよな、と感慨深そうに口にした。私も、ですよね、などと曖昧な返事をし、それからまたダム湖を眺めた。
澄んだ水の中を窮屈そうに泳ぎ回る巨獣達を見ているうちに、当初の目的など忘れてしまいそうになった。
しかし、そうも言っていられないと思い、ダムの方へ目をやった。
すると、ダムにはいつの間にか大きな亀裂が走っていた。
慌てて上司に声を掛けようとしたが、時既に遅く、ダムはメリメリと音を立てて決壊した。
決壊した部分からは、瑠璃色の水が勢いよく飛び出していく。
海生生物達もその流れに乗って、虹色の空へと飛び出していった。
このまま落下しては、海生生物達が死んでしまう。そんな不安が、頭をよぎった。
しかし、海生生物達は予想に反して、ある者は悠々とヒレを動かしながら、またある者は悠然と身をくねらせながら、虹色の空を泳ぐように進んでいった。
その姿はずっと見ていたくなるほどだったが、感慨に耽っている場合ではなかった。
点検をしてこい、と言われて見に行った矢先にダムが決壊したとあっては、社長から、お前らがグズグズしていたからだ、などとお叱りを受けることは請け合いだ。
「これから、どうしましょうね?」
空を泳いでいく海生生物達を見送りながら、恐る恐る上司に声を掛けてみた。すると、上司は意外にも呑気な表情を浮かべて、そうだなぁ、と呟いた。
「まあ、こうなったら、どうしようもないだろ。それに、よくあることだし」
鷹揚に言う上司の言葉に、そうですか、と力なく答えた。すると、上司は、そうですよ、というまるで茶化したような言葉を返す。からかわれたと思い、若干の苛立ちを感じた。しかし、上司の言葉通り、決壊したダムを二人でどうこうなどできるはずも無い。
私もダム決壊の報告をした後のことなど考えるのはやめて、再び海生生物達を眺めることに専念した。
海生生物達が空を泳ぐ様子は悠然としていた。しかし、その姿からは同時に、力強さや、鋭さも感じた。
また、仄かな恐ろしささえも。
そんなことを考えながら眺めているうちに、虹色の空を泳ぐ海生生物達の姿は段々と小さくなっていった。そして、やがては雲の濃淡に紛れ、完全に見えなくなった。
私と上司はどちらともなく踵を返し、来た道を戻っていった。
あの海生生物達が、どこに行ってしまったのかは、未だに分からない。
ただ、狭いダム湖でひしめき合っている頃よりは、悠々と過ごしているのだろう。