水槽のクジラ
その日は、丘の上にある遊園地に来ていた。
立体的なエレベーターを有するホテルがある街と、同じ街にある遊園地だったように覚えている。
しかし、家族で遊びに来ていたのか、友人達と来ていたのか、恋人と来ていたのかは忘れてしまった。
そんな遊園地の中で、気がつけば私は一人になっていた。
同行者を探そうと思い辺りを見渡しても、誰一人目に入らない。同行者の姿だけでなく、他の来場者の姿さえも見当たらなかった。夕焼けに包まれ園内では、古びた遊具達が橙色に染まり、今にも停止しそうな速度で動いているだけだった。もうすぐ、閉園の時間が来てしまうのかもしれない。
ならば、急がないといけない。
そう思い、ゆったりと動く遊具達を横目に、私は走りだした。
息を切らして園内を駆け抜けるうちに、私は目的の場所まで辿り着いた。足を止めて呼吸を整えると、目の前には、白と水色の縞模様をしたテントが立っていた。
一見すると、サーカスのテントのようにも見えるが、そうではない。
その証拠に、入り口には、珊瑚やヒトデや魚達が描かれた看板が掲げられている。
看板の文字は歪んでいたため読むことはできないが、ここはたしかに水族館なのだ。
周りの遊具など、おまけに過ぎない。そう思うほどに、私はこの水族館を楽しみにしていた。
はやる気持ちを抑え、黒いもやのような受付にチケットを見せ、水族館の中へ足を踏み入れる。
館内は外見に反して、床も壁も天井も全てコンクリートでできていた。薄暗い通路の両面には、控えめな照明で照らされた水槽が設けられている。お目当ての物とは違うが、この展示も充分に興味深いものだ。
通路の両脇に設置された水槽には、鎧のような鱗を持つ魚や、足の生えた魚など他では見られないような魚が展示されている。
物珍しさに心を躍らせていることが多いが、他の客がいない中で眺めると空恐ろしいような気もする。しかし、ここで足をすくめているわけにはいかない。
目的の展示は、もっと奥にあるのだから。
奇妙な魚達を眺めながら暗い通路を進むうちに、円形の広間に辿り着いた。広間は深い青色の照明に照らされ、周囲を巨大な水槽に囲まれている。
広間を取り囲む水槽は、その高さもさることながら、奥行きがとてつもなくある様子だった。水槽の奥に行くほど水は暗くなっていき、最奥は暗闇に包まれて何も見えない。何度か、水槽の果てを見つけようと試みたことはあったが、ついぞ成功したことは無い。
私はそんな水槽に近づくと、アクリルに両手をついて中を覗き込んだ。
しかし、重苦しい水の中には、何の動きも無かった。
水槽の主は、今日は留守なのかもしれない。
今までも何度かそういうことがあったため、会えないということも覚悟していた。
仕方が無い、今日は運が悪かった、ということにしてもう帰ろう。
ただ、ほんの少しだけ残念ではあるが。
そう考え、名残惜しさを感じながらも、私は水槽から手を放そうとした。
そのとき、水槽の奥が微かに揺らいだ。
咄嗟に、私は水槽に額がつくほど顔を近づけた。
暗い水の奥に、微かに灰色の影が見える。
初めはぼんやりとした輪郭をしていた影は、こちらに近づくに連れて明確な形を作っていく。
鈍い光沢のある灰色の肌。
口元の尖った顔。
乱雑に並ぶ鋭く尖った歯。
体に対して小ぶりな胸びれ。
一見すると、イルカにも似ているが、その大きさはイルカの五倍以上はある。
この水族館には、まともに読むことができる案内板が無いため、正確な正体は分からない。
それでも、私はこの水槽の主をバシロサウルスだと確信している。
近づいて来たバシロサウルスは、暫く私と向かいあってから横を向いた。
そして、長い体を上下にくねらせながら、円形の水槽を泳ぎ回った。
暗い水の中に、白い泡沫が消える間もなく次々と生まれていく。
私はその姿を夢中で眺めていた。
もしも、この瞬間に水槽が砕けてしまえば、私は溺れてしまうか、バシロサウルスに食べられてしまうのだろう。
そう考えると、背筋がざわつき、耳鳴りが聞こえてくるほど恐ろしかった。
それでも、尖った歯の並ぶ細い顔、二十メートルはあろう長い体、それらが鈍く灰色に光る様子は美しいと思った。その巨獣が泳ぐ、暗い水を湛えた水槽も。
だから、広間から逃げ出すことも無く、その姿をずっと眺めていた。
円形の水槽の中を数十週ほど泳ぐと、バシロサウルスはおもむろに動きを止めた。そして、暫くの間そのまま微動だにせずに、暗い水の中に浮かんでいた。
どのくらいの時間そうしていたかは定かではない、ただ非常に長い時間だったように覚えている。
このままでは、帰宅するのが遅くなってしまう。
また、あのホテルにでも泊まろうか。
そんなことを考えていると、不意にバシロサウルスが方向を変え、水槽の奥に顔を向けた。
そして、そのままこちらを振り返ること無く、細長い体を上下にくねらせながら、暗闇の中へと消えていった。
バシロサウルスの完全に姿が見えなくなると、広間には淋しげな音楽が流れ出した。
きっと、もう閉園時間になったのだろう。ならば、もうここを出なくてはいけない。
この場所は気に入ってはいるが、一人取り残されるには恐ろしすぎる。
出口までの道のりは、真っ直ぐな一本道だったように覚えている。
途中、ペンギンの展示もあった気がするが、記憶が曖昧なため、本当にこの水族館で見たものかどうかは定かではない。ともあれ、私は迷うこと無く水族館の出口に辿り着いた。
外に出ると、日はスッカリと落ち、周囲の遊具が見えなくなるくらいの闇に包まれていた。
この中を進んで帰宅しなくてはいけないのか、そう思い、自然とため息がこぼれていたことは覚えている。
しかし、どのように進んで家に辿り着いたのか、そもそも無事に家に辿り着くことができたのかまでは、未だに思い出すことができていない。