屋上のクジラ
目的は何だったのかは忘れたが、その日は立体駐車場の中にいた。
軽自動車の助手席に座り、随分と長く螺旋状のスロープを上っていたように思う。しかし、どの階も満車を表す赤いランプが点灯していた。
初めのうちは大人しく座っていたが、いつまでも続く灰色の壁や天井に、段々と飽きてきた。そこで、あとどれくらい登るの、と運転する母に尋ねようと顔を向けた。しかし、自分よりももっと不機嫌そうな表情が目に入り、正面に向き直って開きかけた口をきつく結んだ。この状況で声を掛けては、なにがしかの口論になってしまうに違いない。それから、また暫く螺旋状のスロープを上っていたが、相変わらず赤いランプがともる階ばかりだった。
空車を表す緑色のランプに出会えたのは、屋上階の入り口だった。
これでようやく灰色の視界と、不機嫌そうな母の顔から解放される。そんなことを考えているうちに、視界には眩しい光があふれ、思わず目を閉じた。
目を開くと、いつの間にか車を降りていた。
頭上には紺青色の空が広がり、足下には所々ヒビが入り雑草が生えたコンクリートが広がっている。
急に風景が変わったことに不安を覚えて辺りを見渡してみても、他の階の満車が嘘のように、他の車は一台も見当たらない。
それどころか、車を運転していたはずの母の姿も見当たらない。
私は着ていたワンピースの裾を握りしめながら、必死に辺りを見渡した。それでも、目に入るのは相変わらず青い空とひび割れのあるコンクリートの床のみで、母は見つからなかった。
私は途方に暮れながら、異様に広い屋上駐車場を歩き回った。
どのくらい歩いたのかは忘れてしまったが、気がつくと屋上の縁に到達していた。そこには、背丈と同じくらいの高さの柵が設けられていた。策に手を掛けて下を覗き込むと、周辺の様子が目に入った。
萌黄色の草原に、雑居ビルのような建物が点々と存在している。
眼下に広がっていたのは、サバンナと古い繁華街を雑に組み合わせたような景色だった。今思えば異様な景色だが、そのときはとくに疑問を持たずに、ただその景色を眺めていた。
すると、不意に雑居ビルの一つに視線が向いた。
そのビルの屋上だけ、他のビルのそれとは様子が違ったからだ。
ひび割れた灰色の床の上に、所々が錆びた檻が設けられている。
檻の中には、瑠璃色の水が湛えられた小さなプールが一つ。
プールの中には、紺青色をしたクジラが一頭。
詳しい種類までは分からなかったが、多分、ザトウクジラに似ていたと記憶している。
そんな光景が、遠眼鏡を持っていたわけでもないのに、ハッキリと見えた。
暫くの間は、母を探していたことも忘れて、屋上の様子を眺めていた。その間、クジラは飛び跳ねることも泳ぎ回ることも無かった。
あまりにも変化の無い光景のため、もしかしたら、クジラは死んでしまっているのかもしれないと思った。しかし、時折水面から顔を出し、暫しそのままの体勢でじっと制止して、またゆっくりと水中に顔を戻したりもしていた。だから、多分、まだ生きてはいたのだろう。
「何をしているの」
不意に、背後から声が聞こえた。
振り返ると、母が疲れた表情を浮かべて立っていた。
私は左手で母に手招きをして、見ていた光景を説明しながら、右手でクジラのいる屋上を指さした。すると、母は相変わらず疲れた表情で、小さくため息を吐いた。
「ああ、あそこには水族館があるからね。それよりも、早く行くわよ」
母は煩わしそうにそう言うと、踵を返して歩きだした。
名残惜しさは感じたが、また一人きりになってしまってはかなわない。そう思いながら、振り返らずに進む母親の後を追った。
母に追いついた私は、試しに、あの水族館に行ってみたい、とねだってみた。しかし、母からは、後でね、という実に素っ気ない返事しかもらえなかった。
それからのことはあまりよく覚えていないが、あの水族館には行けなかったことだけは覚えている。
その日から、随分と月日は過ぎた。その中で、あの屋上よりも大きくて華やかな水族館には、何度か足を運んだ。
ザトウクジラの実物を見たことはまだ無いが、小型のクジラやシャチやイルカといった海獣達のショーもそれなりに見てきた。
それでも、ひび割れたコンクリートの屋上に取り残されたクジラの姿を不意に思い出すことがある。
しかし、クジラのいた屋上はおろか、やけに背の高い立体駐車場にすら、未だに辿り着けずにいる。