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聖夜には汚泥を飲まなければならない。

 自分を呼ぶ声を聞いて、スマホを閉じて、立ち上がる。立ちくらみに耐えた後、溺れながら浮き輪に手を伸ばすみたいに、電気を消す。手から滑った反動で、暗闇の中紐が跳ねる。


 ドアノブに手をかけた瞬間だった。「行ってきます」と、間違えて言ったのは。しかしまあ、別に間違っていない気もする。振り返ってみると、ベッド、いつかの何かのポスター、クローゼット、の前に散ったマフラー、ベッド、反対側に机と、埃を被った参考書達、に挟まれた四冊目のスケッチブック。全てが名残惜しい。毎日こうしているのに、毎日名残惜しいんだ。


 ドアを開けて、薄暗い廊下を歩いて、階段を降りると、右手の扉から光が漏れている。開けると同居人二人の間に、宅配ピザとタンドリーチキンが冷めていた。


 男の方の同居人の右隣、女の方の正面に座った。反対の壁に寄りかかり、肩を押し付けながら、渋々乾杯に応じる。


 女の「まずチキン、冷めないうちに食べちゃいなさい」と言うのに従う。衣はすっかりと冷えていて、噛む度にぬるい汁が口内を蝕む。


 コンビニの唐揚げの方が美味しい。というか、不味い。そもそもこの食卓で食べるものは大概なんでも不味いのだ。


 隣が「美味いか」と聞くので、精一杯の親切で「普通」と言ってやった。


「ピザ好きなだけ食べていいからね。マヨコーン、好きでしょう」


 言った覚えがない。


 残ると後で自分に押し付けられるのが目に見えているので、とりあえずコーンを二切れ。トマトの方を食べようとして、いい加減味のしない小麦に飽きたので、瓶の香辛料を目一杯かけて齧った。一切「満たされた」気はしないが、それで満腹になった。


 急いで席を立とうとすると、「待って。ケーキ」と。「半分位食べるでしょう」というのはつまり、折角買ってきてやったのだから、ありがたく食え、残飯を出すな、という意味で、これが五年程前の自分なら拒もうとしたのだが、最早無駄なのはわかっていたので、ただ「はい」と言った。


「ああそうだ、写真撮らせて」


 ーーしまった。そうだ。


「ほらケーキ持って、両手で、チョコの文字見えるようにね。ーーなんでそんな嫌そうな顔してるのよぅ。ほら笑って」


 笑えと言うな。笑って欲しいならあんたが笑わせろ。無理に口角だけ上げてやり過ごす。反面、肩と背筋は低くなっているのが、自分でもわかった。女は気づいていないらしい。


 ケーキが切られている間の退屈に、左から音。


 ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ。


 ああ、鶏肉の油を噛んでいる音だ。


 ぐちゃ、ぐちゃ、こきゃ。


 歯が唾液を纏って、肉に刺し込まれる。断たれたそれを舌が混ぜて。


 ぐちゃ、ぐちゃ。


 ケーキが出てきた。皿いっぱいの大きさに、感づかれないように溜息を吐く。


 ぐちゃ。


 一度気になりだしてしまった咀嚼音に耐えながら、生クリームを口に突っ込む。


 ぐちゃ、ずず、ちゃっ。


 三口程で不快感が募る。出された半分まで食べると、舌の根から先まで、何かこびりついたような感触がある。生クリームの塊。陰気な味覚が私の口を侵す。苔か。(かび)だ。今私の口には、黴が巣食っている。


 ごきゅ。ああ、ちょっと、俺にも注いでくれ。そう、シャンパン。二本目あるだろ。


 最後の一口は、胃に向かった感じがしなかった。水筒に水を入れ続けて、飲み口から溢れるように。喉にも黴が詰まっている。


 ごちそうさま、と言って、今度こそ部屋を出る。シャンメリー飲み忘れてるよ、と言われた。聞こえないふりをした。


 早足でトイレに向かって、便器に顔を向ける。口に手を突っ込んで、中指で喉を、撫でる。撫でる。


 込み上げる。黴も、コーンも、ぬるい油も、胃液と混ざって、上がってくる。くる。いいぞ、いいぞ、もうすぐ楽になれる。もうすぐ放てる。


 放った。


 水に向かって、溢れさせた。陰気な甘みを、酸味が落として、塗りつぶしていく。


 落ち着いてから覗き込んでみると、黄ばんだ泥が溜まっている。ーーああ、これが、奴らが「愛情」と表現するものだ。この泥が、「あなたのために」というものだ。クソ喰らえ。いや、糞そのものだ。


 私は一切の苦しみから解放されて、吐瀉物を流して、手を洗ってから悠々階段を上った。


 ようやく、故郷に戻ってきた。私はドアノブに手をかけて、ただいま、と言った。

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