脱走
「スレイン様が死んだ?」
何を言っているのか分からない。婚約破棄されたのはほんの5日前だ。最後に会ったときは麗しい出で立ちだった。あり得ない。
「ああ、だからあれはもう忘れろ。まあ、政略結婚とはいえ、あまりにも考えなしだった。お前には悪かったと思っている。でも、終わったことだから水に流してくれ。それよりも朗報がある。お前はカーネリウス様と明日の晩餐会で婚約を正式に発表することになる。これはこの家と国にとって大変喜ばしいことだ。お前の父親として俺も鼻が高い。カーネリウス殿は優秀だしどこに顔を出しても恥ずかしくない。お前とも釣り合いがとれていると思うし、正直言って前の婚約は私も後悔していた。今回は素直に喜ぶといい。ククククク」
「釣り合いがとれている?私に一度も勝てたことのないあいつが?」
「ああ、そうだ。お前の容姿と能力なら十分に釣り合っている。あいつなんてカーネリウス様のことを呼べるのはこの国ではお前くらいのものだ。さすが俺の娘だ。生まれながらの為政者の器だな。」
気持ち悪い。あんな醜い王子と私が同レベルだったなんて。これじゃあ婚約破棄されて当然じゃないか。いままで自分の容姿は平均よりもちょっと上くらいだと思っていたが、私の過大評価だったようだ。スレイン様があんまりにも可哀そうだ。カーネリウスがいやらしく私に近づいてきたのと同じことを私はスレイン様にやってきたのか。学校で避けられていた理由がようやくわかった。
気付いてはいたが、彼に対する思いは私の一方通行だったのだ。
笑えてくる。いままでの私はピエロじゃないか。馬鹿みたいにいままでの社交界でスレイン様が素晴らしいかを説いてきた私はネタキャラでしかなかったのだ。
確かに、カーネリウスレベルならどこに顔を出しても恥ずかしくないだろう。あそこまで飛び抜けていれば逆に周りが美形に見えるという意味で、恥ずかしくないな。私のことを父は笑い者にしたいのだろうか。
「世間一般の筋書ではお前はおとぎ話に出てくる魔王に囚われた姫で、王子様であるカーネリウス様がお前を助け出したという設定だ。胸でも押し付けて王太子を誘惑すると良いだろう。ま、そこまでしなくてもお前には深い愛情が注がれるだろう。」
愛情が注がれるということは孕まされるということの暗喩だろう。あれと体を重ねることを想像しただけで吐き気がする。
それにしても、スレイン様が死んだということから現実逃避するためにさっきからどうでもいいことばかり考えてしまう。絶対に死んだなんて嘘だ。信じない。
「今日はよく寝て、明日の晴れ舞台に備えてくれ。以上だ。」
このまま残っていても待っているのは破滅だ。
心の中がぐちゃぐちゃで、もう何も分からないけど、それだけは確かなことである。
私はもう誰かのために人生を使いたくない。愛する彼からは婚約を破棄され、父親は私にあの男に嫁がせようと躍起になっている。私は怒った。家出してやる。
彼から愛されていなかったと思うと馬鹿馬鹿しくなってきた。ひどく滑稽だ。いままで私は色んな人に誉められてきたが、どこまでが本当でどこまでが嘘なのか分からない。
その晩、私は寝室の窓を抜け出し、外に逃げた。我が家の隠密部隊が察知し、私のことを追いかける。庭を走り抜け、外に飛び出す。城下町を全力で疾走する。
気づいたら、追いかけてくる隠密は一人になっていた。他の隠密は先回りしたか、あるいはスピードに追いつけなかっただろう。まあ、おそらく後者だ。こいつを振り切れば逃げ切れる。
「待ちな。アリアお嬢さま、逃がさねえぞ。」
自分勝手なお嬢さまだ。俺は彼女の小さい頃から護衛と監視をしてきたが、今日という今日は看過できない。さすがに諸外国の要人がいる明日の晩餐会をすっぽかして王太子の顔に泥を塗ったら公爵家の信頼が完全になくなる。
アリアお嬢さまの父君も今日の脱走の限っては武力行使を事前に容認した。まあ、まさか脱走するとは思わなかった。だって、王太子は容姿・能力・人望といったあらゆる点で豚よりも優れている。豚王子とアリアお嬢さまの婚姻はどうみても政略結婚だったのだ。彼女は被害者だと皆思っていたのだ。だが、事実は違った。ここまで違うと笑えてくる。誰もお嬢さまがここまで本気とは思わなかった。釣り合わないと誰もが噂していた。俺もそう思ったし、当主さまが娘を犠牲にしたことを何度も後悔していたのは屋敷中の人間が知っている。
「カイル、貴方は家に帰りなさい。」
「絶対に帰りません。」
「しつこい男は嫌われますよ。」
「うるせえ、お前は王妃になるべき人間だ。この国を良くするにはお前が必要なんだ。」
実際はそんなことどうでも良い。このまま行かせては隠密部隊の信用もがた落ちだ。俺の評価も下がる。ブラックジャガーの二つ名を持つ俺がもし小娘一人を取り逃がしたら、もう仕事を誰も頼んでくれなくなる。独立してフリーランスになりたかったのに台無しだ。
「そんなことは知らないわ。私は自分のために生きるの。」
カイルがうざい。私の後ろで子供の頃はうじうじしてた癖に私に指図してくるなんて。
「だから、それはダメだって。家出はやめなさい、お嫁にいきなさい」
「嫌だ、あんたが代わりに女装して行けば?」
「打ち首になるわ、ボケ。戻ってこい。さもないと攻撃するぞ。」
「うるさい。帰れ。」
もう怒った。俺は魔力を右腕に集め、イメージにより風を生み出す。そして、一気に解き放つ。魔力に言霊に乗せ、威力を底上げした魔法で攻撃を仕掛ける。
「風よ、眼前の女を拘束しろ、バインドウィンド」
風は彼女をとらえようとした。しかし、当たらない。距離が遠すぎた。今もどんどん俺と彼女の距離が離れていく。俺のスピードが落ちているからだ。全力疾走をすると長くは走れない。息が苦しい。
彼女のことを俺では止められない。
「俺を置いてかないで、お嬢さま。」
彼女は夜の闇に消えてしまった。俺は彼女を保護しなくてはいけないのに、できなかった。失敗した。お嬢さまがいなくなった夜道をたった一人、諦められない俺は走り続けた。