〈五〉掃除屋の伝承
ビリーと二人で修道院に向かう道すがら、ブルーの店の前を通りかかる。そこではリットが苛立たしげな顔で箒を振るい、店の前を掃除していた。足元には壺や鉢植えの破片が散らばっており、まるで嵐が去った後のようだ。
リットは私たちの存在に気が付くと、掃除の手を止めた。
「よう、リジルにビリーか」
「リット、どうしたの?」
惨状を見渡しながら私が問うと、彼は舌打ちと共に肩を竦めてみせた。
「どうもこうもねぇ、またメルビンジャン・ファミリーの連中だよ」
「メルビンジャン?」
「……ほら、さっきうちの店に来てたギャングたちの名前だよ」
首を傾げる私に、ビリーが耳打ちする。
ああ、と私は頷いて彼らの顔を思い出そうとした。が、思い出せたのは連中が黒いスーツを着ていたことだけだった。リットが憎々しげに舌打ちをして言う。
「よく分からんが、さっきその二人組が物に当たり散らしながら此処を通ったんだ。随分と苛立ってたみたいだが……いい迷惑だよ。奴らを不機嫌にさせたのはどこのどいつだ、まったく」
私とビリーは顔を見合わせた。原因には大いに心当たりがある。私は話題を変えるために疑問を投げかけた。
「あいつら、どうして急にこの界隈に湧き始めたの? この街の連中じゃないわよね?」
「ああ、もともとは東海岸、イクスラハを拠点にしてたらしいんだが」リットが答える。「ほら、知ってるだろ。しばらく前にマルムスティーン枢機卿がグランヨーク州の行政官に着任してから、向こうじゃ今まで灰色だったものがガンガン規制されてるそうだ。教皇庁が商業貿易にも目を光らせ始めたらしいしな」
「なるほど」と私は納得の吐息を洩らす。「陰日向の商業ルート潰されてアルノルンに移住してきたわけね」
「汚水ってのは高いところから低いところに流れるもんだ」
リットはそう言ってカラカラと笑った。教皇のいる皇都を、ましてや信徒である修道女を前にして蔑むとは、なんと不敬な男だろうか。私はまったく気にしないけど。
「騎士団や警官隊は動かないの?」
私が訊ねると、リットは嘲笑うように鼻を鳴らした。
「人道は犯して隠さず、法は犯して隠し通す、ってのが奴らだからな」
「そんな器用な真似が出来るタイプには見えなかったけど」
と、私も皮肉っぽく口元を歪めてみせた。リットはそこで肩を竦めてみせる。
「害虫みたいに厄介な連中だが、まぁ、いずれいつものように『掃除屋』が片付けてくれるだろうよ」
「まさか」
リットの言葉に、私は呆れて吐息をついた。
「そんなの第零騎士団と同じ、ただの都市伝説よ」
『掃除屋』とは、いつの頃からか此処、アルノルンの人々の間に伝わる|民間伝承〈フォークロワー〉のひとつだ。街を脅かす存在を秘密裏に処理する、謎の義賊。その姿は誰も見たことがなく、一人なのか、はたまた複数人の組織なのかも判然としない。雑多な人々が集まるこの都市が今日も平穏であるのは、そんな『掃除屋』が暗躍しているからだ、と信じている人も相当数いるらしい。
ちなみに、誰も見たことが無い時点でその存在が根本的に疑わしい、というのが私個人の考え方である。
しかし、リットは振るう箒を逆さに立て、まるでそれが『掃除屋』の存在証明であるかのように自信満々に反論する。
「いやいや、『掃除屋』はいるって。現にこの店にだって何度も来たことがあるんだ」
「ブルーの店に? どうして?」
「どうしてって、此処は喫茶店だぞ。店に来る理由なんか言うまでもないだろ。賭けポーカーをしに来るような例外はおまえだけだ」
「そうじゃなくて、どうしてその人が『掃除屋』だって分かったのよ。自分から言ったの?」
「いや、名乗ったわけじゃないが……」
私の質問にリットは煮え切らない答えを返す。
「次に潰されるギャングの奴らとか、罰せられる汚職政治家のこととか、とにかくズバズバ当てて見せたんだよ。おまけに鷹のような鋭い目をしてるんだ。只者じゃねぇよ、あれは」
「論拠になってないわ」
途端に関心が薄れていくのを感じて、私は大きく溜め息をついた。リットは憤慨する。
「証拠じゃないにしても、ここまで要素が揃ってたらほぼ確定だろうが」
「『ほぼ』と『確定』という言葉は共存しないわよ、リット。つまりは結局はあなたの主観に基づく推測、ってこと。それに」
と、私は自分の鼻先を指で示してみせた。
「リットは嘘をつくと鼻の下をこする癖があるもの」
リットは苦々しげに顔をしかめる。
「いや、まぁ、確かに誇張はあったかもしれないが……それっぽい男がいたのは本当だぜ。なんだよ、掃除屋が実在して欲しいと思うのは別に悪いことじゃないだろ」
もちろん、悪いことではない。正義の味方がいて欲しい、今の平穏を守って欲しいというのは、力を持たない民衆の祈りだ。それは神の存在を信じ崇める教会の信徒たちと何ら変わりは無い。
……話を過剰に誇張したり、虚偽を入り交えるのはいただけないが。
そこで話題を変えるようにビリーが口を開いた。
「しかし、教皇庁の理想郷政策の効果って、あまり良い事例を耳にしたことがないね。治安が良くなっている実感が無いっていうか」
「掲げられてる『理想郷』っていうのが観念的で具体性に乏しいもの。今や賢しい国民は効果の疑わしい施策だと思い始めてると思うわ」私は皮肉げに口の端を歪めた。「だいたい、方角を指差すだけで国が変わるなら、これほど楽なことは無いわよ」
「―――そしてそんな国は、誰かの指先ひとつで崩壊する脆弱な国だ」
突然、背後から聞こえてきた懐かしい声に、私たちは反射的に振り返った。
そこに立っていたのは、教会騎士団の青い軍服を纏った銀髪の女性。その凛々しい眼差しが我々に向けられる。
「……弁解するわけではないが、理想郷政策については辞書一冊分程度の具体的な計画書がある。目を通すのも億劫になるほど詳細なものが、な」
「げ」
「ヴィリティスさん!」
リットは表情を歪め、私とビリーは思わず共にその名を叫んでいた。彼女はやんわりと目を細めた。
「久しぶりだな、リジル、ウィリアム。そして……」
女騎士の視線が、傍らのエプロン姿の男性に向けられる。口元に苦笑のようなものを浮かべながら。
「リット、相変わらず不景気そうだな」
「……帰ってきてたのか、ヴィリティス」
リットはどこかうんざりした面持ちで言った。そして何かに思い至ったのか、周囲をきょろきょろと見まわし始める。何かを警戒しているような様子だ。
「今日は私だけだ、そんなに気構える必要はないぞ、リット」ヴィリティスさんが呆れ顔で言う。「バーダは今ごろは大陸の東の端、オーリアは西の端だ」
「そりゃ安心した、ロイヤルストレートフラッシュは勘弁して欲しいからな」リットは自虐的な笑みを浮かべた。「いつ帰ってきたんだ? イクスラハに配属になったと聞いていたが」
「ついさっきだよ。公務でね。三日後には演習応援で、今度は西海岸のロア市まで行かねばならん。イクスラハに戻れるのは一ヶ月後だ」
「へぇ、偉くなったもんだな」とリットは感心する。「悪ガキだった頃からは想像もつかねぇや」
そこでヴィリティスさんは咳払いを一つ挟み、じろりとリットを睨んだ。
「その表現に合致するのは私の知る限りでは別人だ、訂正を求める」
「|運命共同体〈イン・ザ・セイム・ボート〉だろ」
ヴィリティスさんは心外そうにムっと唸った。だが、彼女の反論は飲み込まれる。リットの続く言葉によって。
「だから、おまえは騎士になったんじゃないのか」
どこか意味深な言葉だった。黙するヴィリティスさんの瞳に、一瞬だけ哀しげな色が宿ったのが見えた。その表情の意味を、私には推し量ることは出来なかった。それは何となく、とても個人的で重要な事柄に起因するものであるように感じたからだ。
だが、彼女のそんな表情はすぐに払拭され、優しげな瞳が私たちに向けられる。
「それにしても、二人とも成長したな。特にウィリアム、見違えたぞ」
「お会いするのは一年ぶりですから。背も少し伸びましたし」
ビリーは少し照れたように頭を掻いた。
「ゾイゼン店主は元気か?」
「相変わらず。毎日怒鳴られてばかりです」
「未だ現役、か。頼もしいものだ。滞在中にそちらにも顔を出そう。宜しく言っておいてくれ」
と、そこで私は咳払いを挟んで見せる。
「客観的に観れば、私もある程度は『見違えた』と思うのだけれど」
私の胸を張った主張に、ヴィリティスさんは苦笑する。
「そうだな。だが、その胸部はいささか剣術には不向きになりつつあると思うぞ」
「あら、これはトレードオフよ。他の分野に秀でることで戦力差を補ってるの」
「ふむ、問題はその分野が神職に携わる人間には不向きであることだろうな」
「それは剣術も同じじゃない?」
私の反論に、ヴィリティスさんは「もっともだ」と笑った。懐かしい感じがした。
「そうだ、リジル。実はお前にも用事があったんだ。今日は日曜日だろう、少し時間はあるか」
「ええ、大丈夫よ。もしかして、剣の稽古をしてくれるの?」
「ん……そうだな、そうしよう」
と、ヴィリティスさんは少し歯切れが悪そうに言った。そして、私とビリーを交互に見つめた後で、少し強張ったような声で告げる。
「夕暮れになったら、いつもの川原の橋の下まで来てくれ。ウィリアムも一緒にな」
もちろん、断る理由など無かった。多少、怪訝に思える声のトーンだったが、我々はこくりと頷きを返した。そこでヴィリティスさんは軍服の懐から懐中時計を取りだした。
「おっと、そろそろ行かねば」
「何だよ、店に寄っていかないのか? ブルーの旦那も会いたがってるだろうぜ」
「本部に向かう前に立ち寄ったんだ。皇都にいる間にまた来るさ。それではな、三人とも」
そういって彼女は軽く手を振って踵を返す。
「ああ、そういえば」
と、ヴィリティスさんはふと足を止めて、思い出したように振り返った。
「私とは入れ違いになるかもしれんが、バーダも来週あたり帰郷するそうだ。西海岸に向かう途中で立ち寄るらしい」
その言葉を聞いたリットの眉間に不愉快そうな皺が刻まれる。
「冗談だろ?」
「さて、な。来週を楽しみにしていればいい」
どこか楽しそうに去っていくヴィリティスさんとは対照的に、リットは重苦しいため息をついていた。そんな彼に私は訊ねてみる。
「バーダって誰?」
「おまえの先輩だよ」
と、リットは私をじろりと見やり、また溜め息をついた。
「……そうか、どうもやりにくいと思ったら、おまえはあいつに似てるんだな」
「ふぅん。よほどの人格者ってことかしら。話が合いそうだわ」
リットは私の顔をもう一度見て、三度目の溜め息をついていた。
「―――おまえらが一緒にいる所には、絶対に立ち会いたくねぇな」