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〈四〉一八六七年の悲劇、或いは憧憬

 その悲劇が起きたのは、ホークアイを出立してから五日目のことだった。長旅の疲労がヘンリー氏の弱った身体を蝕み、とうとう限界が訪れたのだ。

 アルノルンまで残り五十マイルとなった宿場町で、ヘンリー氏は倒れた。すぐさま御者が近くの宿に運び込み、医者を呼んで診てもらった。しかし、診察を終えた医者は申し訳無さそうに首を左右に振るだけだった。寝台に横たわるヘンリー氏の呼吸はまるで古家のドアから入ってくる隙間風のように弱々しく、顔色はさながら色付けを忘れた蝋人形のように蒼白だった。ビリーは瞳に涙を溜めながら、そんな父親の右手を強く握りしめていた。ヘンリー氏は―――おそらく息子の頭を撫でようとしたのだろう―――自分の左手を一瞬だけ痙攣させてから、やがて何かを諦めたかのように穏やかな表情を浮かべた。優しげに細めた瞳で、私たち二人を見やる。

「二人とも、よく聞きなさい。御者には代金を既に全額支払っている。おまえたちはこのまま馬車でアルノルンに向かうんだ」

 先ほどまでとは打って変わり、淀みのない口調だった。私にはそれが、まるで蝋燭の灯が消える直前の瞬きのように思えて、どうしようもなく悲しい気持ちになった。

「鞄に、ゾイゼン氏への手紙とマッキントッシュ銀行の通帳が入っている。印鑑も一緒だ」

「そんなの、いらない」

 ビリーが涙をこぼしながら言った。

「いいから聞くんだ、ウィリアム」

 安心させようと微笑みながらも、ヘンリー氏の瞳には涙が浮かんでいた。

「これらは私たちのこれからの生活の上でとても大事なものだ。だからおまえたちに先にこれを持ってアルノルンに行って欲しいんだ。父さんは具合が良くなったらすぐに後を追うよ」

 あまりにも見え透いた嘘に、そしてそれでも尚、そんな嘘を言うヘンリー氏の姿に、私は何も言えなかった。

「リジル、君は賢い子だ。ウィリアムを頼むよ。まだまだ頼りない子だからね」

 私は頬を伝う滴を袖口で拭いながら、無言でこくりと頷いた。ヘンリー氏は馬車の御者に一度目配せして頷いてから、再びビリーに目をやった。

「おまえには正しい資質が眠っている。日々、その研鑽に努めるんだ。いつか必ず、それがおまえ自身を救うだろう」

 父親の言葉を聞きながら、しかしそれを拒絶するようにビリーは泣きじゃくった。そんな彼に、ヘンリー氏は最後に言った。

「……先に行け。必ずまた会える」

 その言葉が、約束ではなくただの願いであることに、ビリーも私も気づいていた。

 氏の手を必死に握りしめるビリーの肩に、老齢の御者が申し訳なさそうに両手を置いて優しく引き剥がした。私は涙に濡れた手でそんなビリーの手を取り、そのまま彼を引き連れて部屋を出た。ヘンリー氏の出立を看取ることはしなかった。子供ながらに、私は理解していたのだ。

 ―――彼は最期を見届けられたいのではなく、最後に子の背中を見届けたいのだと。

 宿の出口で、診察してくれた医者が何かを語った。後は任せて欲しいとか、そういった内容だったと思うが、正確なところは覚えていない。気がついたときには、私とビリーは御者の繰る馬車の中で膝を抱えて俯いていた。

 車輪を伝わってくる道の振動を全身で感じながら、しかし感覚はまるで夢見心地だった。つい数時間前まで三人で狭苦しい思いをしていたコネストーガの幌の中は、子供二人ではあまりに広く、伽藍としていた。私はその虚無を肌で感じながら、これから先の途方もない旅路のことを想像していた。だが、どれだけ思考を巡らせても、絶望的な気分にしかならなかった。十歳の子供に出来ることと出来ないことぐらい、容易に想像がついた。そしてそれは後者が圧倒的に多いということも。

「―――リジル」

 しばらくしてから、ビリーがそう呼びかけてきた。口調は静かで、先ほどよりも随分と落ち着いていた。

「僕らはどうしてこうなったんだろう」

 その疑問に、私はこれまでの旅路のすべてを思い描いた。ホークアイを出てからの、この五日間の旅だけではない。私が―――いや、私とビリーが此処に至るまでのすべてだ。

 燃え盛るネルルク公国、凍える吹雪の平野、アントリウム一家の過酷な運命、そして砕かれた僅か一年間の平穏……どうして今、私たちはたった二人で、こんな孤独と絶望に取り囲まれながら馬車に揺られているのか。そんなの、分かり切っている。

「……戦争がすべて悪いのよ」

 ぽつりと、私はそう答えた。その言葉が、すべてを語っている気がした。

「……そうかな」

 しかし、ビリーは疑問を口にする。そこで私は顔を上げた。

「どういうこと?」

「僕らがこうなった本当の原因は、実は僕らの内側にあるんじゃないかって思うんだ」

「内側?」

 ビリーが何を言わんとしているのか、私には分からなかった。彼の瞳には既に絶望の色は無く、妖しい業火のような煌めきがあった。

「そう。母が死んだのも、そもそも父が国を捨てたことも、そして今の僕と君の現状も……」

 迷いのない口調で、彼は口にする。

「―――きっと僕らの弱さが、本当の原因なんだ」

 その言葉が、私の伽藍とした胸の中に落ちて、静かに波紋を広げていった。

 ―――弱さ。

 思い返せば、その通りなのかもしれない、と私は思った。

 その要因から、私はそれまで目をそらしていたのだ。

 もし私に『力』があれば、両親を失い、故国を追いやられることもなかったのではないか。

 あのとき私に、兄、ヴァルムの暴走を止めるだけの『力』があれば、これほどまでに惨めな思いをしなくて済んだのではないか。

 ヘンリー氏やビリーにしてもそうだ。

 彼らに財力という『力』があれば、こんな結末は避けられたのではないか。或いはそれ以前に、ヘンリー氏が亡命という選択をせず、真っ向からハリファー領の軍部に立ち向かっていれば……。

 そこまで思考したとき、目頭に熱量を感じた。悲しさからではない、それは世界の理不尽さに直面しながら、それを打開し得ない自分の弱さを嘆いての涙だった。

 私がこれほど惨めで絶望的な気分で、馬車に揺られているのは―――私が、弱い側の人間だからなのだ。

 思考を遮ったのは、突然の馬車の揺れだった。全身に慣性の力を感じたところで、馬車が急停止したのを悟った。次いで、劈くような馬の嘶きが聞こえた。

「……な、何!?」

 突然の異常に、無意識のうちに私はヘンリー氏が車内に残した短剣を引っ掴んでいた。咄嗟に私とビリーが幌布で覆われた荷台から飛び出すと、御者が真っ青な顔で御者台から振り向き、叫んだ。

「ウルガの群れだ! 牙持つ獣たちだ!」

 その言葉を理解するよりも先に、状況が私たちの視界に飛び込んできた。馬車は荒野のど真ん中で立ち往生していた。そんな我々を取り囲むのは、数にして十頭はいるだろう、灰褐色の毛並をした獣たち―――攻殻と呼ばれる超硬度の牙と爪を持った人類の天敵、そう、『牙持つ獣たち』だった。

 文献などで知識として知ってはいたものの、その異形を初めて目の当たりにして、私とビリーは思わず立ちすくんだ。口腔から除く二本の牙はさながら短剣のごとき大きさで、咬まれれば人間の体などひとたまりもないであろうことは容易に想像がついた。それが十対も我々を取り囲んでいるこの状況が、絶体絶命の危機であることも。

「坊ちゃんたち、荷台に戻りなせぇ! 早くここから逃げねぇと……!」

 凍りつく私たちを荷台に戻そうと御者が馬車を降りようとしたとき、獣たちが一斉に動いた。

 さながら、それはまるで疾風の如き速度だった。

 最初の一頭が御者の喉笛を噛み千切る瞬間、彼の瞳はじっと私たちを見つめていた。御者は自分に何が起きたのか理解できていないようだった。速度を落とした私たちの視界に、血飛沫が舞い踊り、その血が地面に落ちるよりも早く、獣たちが我先にと御者の身体に殺到していた。

 私とビリーはその場で崩れ落ちた。足に力が入らず、ただ茫然と、目の前で起きる凄惨な光景を見つめ続けた。声は出なかった。呼吸すら忘れていた。既に現実感というものが、我々の感覚から剥奪されてしまっていた。

 ……何だ、これは。

 獣の一匹が、私とビリーを振り返る。

 ……何が、起きているんだ。

 獣の口からは、食べかけの肉片と血が滴っている。

 ……私たちはこれからどうなるんだ。

 やがて他の獣たちも私たちの存在に気付く。 

 ……私たちは、死ぬのか。

 じりじりと、獣たちは私たちへにじり寄って来る。

 ……こんな場所で?

 唸り声、血の匂い、背筋の冷たさ。

 ……まだ、何も。

 反して湧き出る、得体の知れない胸の奥の灼熱。

 ……あの男への復讐も、妹を救い出すことも。

 それは暗く、ただひたすらに暗い。 

 ……まだ何ひとつとして果たしていないのに?

 ―――怒りと、憎悪。

 …………ふざけるな。

 気が付けば、私は短剣の鞘を抜き捨てて、立ち上がっていた。

 既に恐怖は私の体から離れていた。その代わりに私の内を灼くのは、まるで業火のごとき怒りと憎しみの感情だった。

「リジルっ!」

 ビリーの叫びにも構わず、私は抜き身の短剣を構える。

 生き延びるための抵抗ではない。それは、私の意志を運命に見せつけるための―――言うなれば、自己満足にも似た抵抗だった。

 やがて獣たちの前脚が、僅かに大地に沈む。

 迫りくる限界点に、私が神経を尖らせた、その時だった。

 ―――銀色の風が、猛烈な速度で私たちの傍らを駆け抜けていった。

 その一瞬後には、再び鮮血の花が宙に咲いた。だが、それは人間のものではない。見上げると、血と合わせて三つの獣の首が空を舞っていた。そこでようやく、私たちの目が、それを成し遂げた人物の姿を認識する。

 それは見事な白銀の甲冑と、同じ色の美しい髪で夕陽を照らし返す、一人の小柄な女騎士の姿だった。

 私たちと比べても、それほど年を重ねているようには見えない。十代の半ば頃、まだ少女と言っても過言ではないだろう。しかし、彼女は幼さを微塵も感じさせない強い口調で叫んだ。

「伏せていろ!」

 私とビリーが反射的に身を屈めたとき、既に彼女は別の二頭を切り伏せていた。そこから先の出来事に、私は完全に魅入られてしまった。女騎士はまるで踊るように獣たちの牙と爪を躱し、その間隙を貫いて確実に一頭ずつ屠っていった。四肢を削ぎ、眼孔を貫き、動きが鈍ったものから順に確実に首を斬り落とす。目を疑う、とはこのことだろう。女騎士の戦いは圧倒的だった。一方的といってもいいほどに、獣たちは為す術もなく彼女に返り討ちにされていった。

 ものの数分も経たぬ内に、その場には十頭の獣たちの骸と、それを見下ろす女騎士の姿だけが残っていた。

 気づくと、彼女の左手から血が滴っていた。先ほどの攻防のせいだろう、甲冑の一部が砕かれており、どうやらそこを負傷したようだった。女騎士はそれを見て一瞬だけ表情を歪めた。だがそれは痛みからではなく、自身への苛立ち故の表情にも見えた。

「大丈夫か」

 女騎士は剣を鞘に納め、私たちに歩み寄って言った。先ほどまで死闘を繰り広げていたとは思えないほどに、冷静な口調だった。

「……え、あ、はい」

 私は言葉を出せず、代わりにビリーが答えた。女騎士は獣に殺された御者の遺体に目を向けると、胸の前で十字を切った。

「昨日のことだ。鉄道路線開通の為に政府がこの辺りの『牙持つ獣たち』の住処を一つ駆除したんだ。逃げた生き残りの連中を追っていたんだが……間に合わなかったようだ。すまない」

 そう言って、彼女は沈痛そうに目を細めた。

「あの、あなたは……?」

 やっと私の口から出たのは、そんな問いだった。

 女騎士は答える。

「申し遅れた。私は第十四騎士団のヴィリティス・ナイツだ」

 騎士団、という響きに私は面食らう。それがユナリア合衆教皇国の治安維持機関の一つであることは知っていたが、そこに女性の、しかもこんな年端もいかない団員がいるなど、想像したこともなかった。

「この御者は君たちの父親か?」

 彼女、ヴィリティスの問いに、私とビリーは同時に首を左右に振った。

「では、ご両親はどうしたんだ?」

 その問いに、我々は沈黙する。端的に答える言葉を、私たちは持ち得なかった。

 俯く我々を見て、女騎士は複雑な事情を少なからず察したのか、質問を変えた。

「君たちはアルノルンへ向かっていたのか?」

「……はい」

 ビリーが答える。女騎士は、ふむ、と一度頷いた。まだ十代も半ばだろうに、その仕草は随分と様になっていた。

「間もなく援軍が来る。そうしたら、君たちを皇都まで送り届けよう」

 そこで初めて、女騎士はわずかに口元を緩ませた。

「だから、まずは安心しなさい。君たちの事情を聴くのは、その後だ」

 その言葉を聞いて、ビリーが傍らで大きく安堵の息を吐き出すのが分かった。

 だが、私の胸中には安堵以上に、目の前の人物への強い憧憬が湧きあがっていた。

「……貴女は、騎士なの?」

 私は再度確認するかのように、そんな問いを投げていた。

「肩書きとしてそうだが……まぁ、見習いだ」

 そう答えて、彼女は自分の傷ついた肩に目をやった。その傷が自身の未熟さを示している、と言わんばかりに。だが、そんな傷ひとつなど、私には気にならなかった。

 五歳か六歳か、その程度しか私と年の変わらぬ少女が、先ほど見せた圧倒的な強さ。

 少なくともそのときの私は。

 ―――その強さがあれば、すべてを変えられると思った。

 だから、自然と口が、続く言葉を吐き出す。

「ヴィリティス、さん」

 そのときの私が希った、灼熱のような渇望を。

「……私に、剣の使い方を教えてください」



それが、私たちと女騎士、ヴィリティス・ナイツの最初の出逢いだった。

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