〈三〉一八六六年の平穏、或いは暗雲
今から七年前、私が九歳のときのことだ。
アルダナク連邦ネルルク公国から逃れ、ユナリア合衆教皇国北部の町、ホークアイに辿り着いたとき、私は仔犬に襲われでもしたら死んでしまいそうなほどに衰弱しきっていた。吹雪の中を五十マイル近くも、ほぼ二日間をかけて歩き続けてきたせいで、手足はほとんど凍傷寸前だった。身体中の熱量は生命維持に回され、最初にビリーが私を見たときは「まるで骨と皮だけみたいだった」という。町の入り口で私が力尽きたとき、私は譫言で何度も「アントリウムの家に」と繰り返していたらしい。それを聞いた通行人がビリーの家に伝えに行ってくれたおかげで、私は一命を取り留めることができたのだそうだ。
ビリーの父親、ヘンリー・アントリウム元子爵は、かつてはアルダナク連邦ハリファー領の成り上がり貴族の一人だった。子爵の地位を得ているにも関わらず非常に朴訥な人間で、私の父親、つまりはネルルク公国公爵のジキル・ネルルクとは昔から懇意にしていた。後でヘンリー氏本人に聞いた話によると、父とは大学校時代の学友だったとのことだ。父の話をするとき、彼はいつも懐かしそうに目を細めていた。
アントリウム家はおよそ八〇年前から銃火器の製造業を行い、資産を作った一族だ。アントリムの作った銃は頑丈で長持ちし、何より事故が少なく、野山での狩猟を嗜む連邦諸国の貴族たちの間で非常に重宝されていた。様式美と合理性が見事に融合したアントリウム製の銃は、言うなれば一つのブランドとして広く知られていたわけである。
しかし、連邦の内戦が激化し、ハリファー領の軍部に不穏な動きがあったとき、ヘンリー氏はすぐさま資産のほとんどを投げうって、妻と三歳の息子を連れてユナリアへと亡命した。もともと戦争に反対していた彼は、アントリウムの銃製造技術が火種を増加させることを怖れたのだ。
だが、亡命は容易なことではなかった。ハリファー領のすぐ南には戦火に燃えるクベク領があり、彼らは銃撃戦の只中を駆け抜けねばならなかったのだ。結果、その際に負った傷が原因で、彼の妻ーーーつまりはビリーの母親は、亡命後ほどなくして命を落としてしまった。
亡命後の親子二人の生活は決して楽ではなかった。財産の殆どを失っていたヘンリー氏は、ホークアイの小さな鉄工所でささやかな給金を得なから、まだ幼いビリーを養っていた。工場の過酷な労働によるものか、私が訪ねた時、彼からはかつて写真で見たような鋭気は消えてしまっていた。始終、掠れたような咳を繰り返し、顔は土気色で眼窩は窪み、病を煩っていることは明らかだった。
だが、ヘンリー氏はぼろぼろの身なりで突然来訪した私を心から心配してくれた。涙を瞳に溜めて私を抱きしめると、すぐさま私を医者に看せてくれた。自らの病を二の次にして、だ。
何日か経ち、ようやくまともに会話が出来るようになってから、ヘンリー氏は私に語った。
「君が持っていた手紙を読ませてもらったよ」
ネルルク家の封蝋が為された便箋が、私の持っていた背嚢に入っていたという。おそらくベルンハルト将軍が予め記してくれていたものだろう。そこにはネルルク公国で起きたクーデターについて、慌てたような字で書き殴られてあったそうだ。
「ジキル……君のお父さんのことだが、残念でならない。彼には並々ならぬ大恩があったんだ」
そう語るヘンリー氏の瞳には涙が浮かんでいた。
「君の行く末については、この私が後見人となろう。すぐには気持ちの整理が付かないだろうが、これからは私のことを父親と思ってくれていい」
その申し出は、吹雪の旅路で凍てついていた私の胸の中に暖かさをもたらした。その熱量は喉を抜けて鼻を伝わり、やがて涙となって私の瞳からこぼれ落ちた。それまで張り詰めていたものが、ぷつりと断ち切られたような気がした。父と母の死、妹のこと、ジノ将校のこと、ベルンハルト将軍のこと……これまでに嵐の如く吹き付けていた様々な悲劇を、ようやく私の感情が認識したのだ。
それからの一年間は、有り体な言葉で言って平穏な日々だった。私は肉体的にも精神的にも少しずつ回復していった。時折、妹のクラムのことを思い出して真夜中に飛び起きることもあったが(それは今もだ)、少なくとも日常生活の中で笑顔を垣間見せることが出来るくらいには、精神的な余裕が生まれた。
同い年のビリーとはすぐに打ち解けた。異国の生まれであるという背景が、お互いを強い仲間意識で繋いだのだろう。ホークアイの街には同年代の子供たちが様々なコミュニティを作っていたが、私たちはそのどれにも属さずにひっそりと暮らした。路地裏に捨て置かれた駒の足りないチェスで遊んだり、木の枝を振り回して剣術の真似事をしたりして過ごした。
そんな私たちの生活の中でもっとも幸運だったのは、街の教会の宣教師から言語を教わったことだろう。当時のユナリア合衆教皇国では国の方針として子供たちの識字率の改善が掲げられ始めており、専門の宣教師が地方都市に常駐して無償で読み書きを教えていた。私とビリーは毎日のように教会に通い、宣教師の方がうんざりするほどの教育を受けた。二人とも言語形成期の只中であったせいもあるが、そのおかげで、一年が経つ頃には我々はユナリア語とアルダナク連邦圏の通用言語であるランスフール語を使い分ける二言語話者になっていた。
事件があったのは、私の来訪から一年が経った頃だった。ヘンリー氏の勤める町工場が、ホークアイ地銀の破綻から発した恐慌の煽りを受けて閉鎖されてしまったのだ。一八六七年に起きたこの恐慌は、十年前に起きた大恐慌と比べれば小さなものではあったが、それでも地方都市で多くの失業者を出した。斯くして、我々三人は路頭に迷う寸前まで追いつめられてしまったのである。加えて、その頃のヘンリー氏の病状は更に悪化しており、新たな勤め口を探すことすらままならない状況だった。
そんな中、ヘンリー氏に運命的とも言える一通の手紙が届いた。送り主にはユナリアの皇都アルノルンのゾイゼン鍛冶店という、これまで聞きなれぬ名前が記されており、その内容としては、アルダナクの銃器の名匠たるアントリウムに一度お会いしたい、という極めて簡略なものだった。それに対してヘンリー氏が、自身が失業中の身であること、病床の身で訪問の旅路が難しいことを返信すると、すぐに返事が返ってきた。曰く「力になれると思う。帰りの旅路は考えず、当店を訪問して欲しい。住まいも用意出来る」とのことだった。
既に藁にも縋るような状況であったヘンリー氏は、残り少ない家財の全てを投げ打って、ビリーと私を連れてアルノルンに移住することを決意した。このままホークアイの街にいても、ビリーと私に満足な暮らしを送らせてやれないと判断したのだろう。
しかし、ホークアイからアルノルンへはルート十五を南へ四〇〇マイルも進まねばならない。しかも当時はまだ鉄道路線も無く、移動手段は馬車のみだった。『牙持つ獣たち』に備え、長距離の都市間の馬車旅には傭兵たちを雇うのが常識だったが、旅先での生活のことを考えると、ヘンリー氏にそれだけの財力的余裕は無かった。結果、我々は御者を一人雇い、大型のコネストーガと呼ばれる馬車を一台借りるのが精一杯だった。
我々の出立は木枯らしの吹く秋の日だった。失業した仲間たちは既にホークアイの街を出ており、ヘンリー氏を見送る者はいなかった。街門を出る際、彼はビリーに向けて言った。
「いつかお前が大きくなったら、また母さんの墓参りに来ような」
だが、そう言うヘンリー氏のか細い声は、既にその『いつか』が訪れないことを悟っているかのように、私には聞こえた。