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〈一〉シスター・リジルマリア


 目を覚ましたのは、頭に軽い衝撃があったからだ。瞼をこすりながら顔を上げると、修女長のシスター・ローレンスが、聖書を胸に抱えながら私を見下ろしていた。皺だらけの顔の眉間には、さらに不機嫌そうな皺が刻まれている。

「日曜の礼拝はどうしたのです、シスター・リジルマリア?」

 その問いは、この状況を見れば既に答えが分かり切っていると思うのだが。私は思わず溜め息をついた。辟易を感じつつも、表面上は謝罪をしておく。

「……すみません、つい此処の居心地が良くて忘れてしまいました」

 私がうたた寝をしてしまったその場所は、図書室の奥まった場所にある、黴臭い本棚の狭間だった。薄暗く、空気はじめじめと淀んでいる。周りには私が先ほど読み切った本や、読みかけの新聞などが無造作に散らばっていた。

 修女長はそんな周囲を見渡すと、溜め息混じりに言う。

「この修道院に、あなた以上にネズミの気持ちが分かるシスターはいないでしょうね」

 なかなか上質な冗談だった。

 その皮肉に応えねば、と、思わず私も言葉を返していた。

「ネズミもきっと、今の私の気持ちが分かると思います」

 シスター・ローレンスは猫のように瞳を丸くした。私の真剣な顔を見つめ、やがてやれやれと首を左右に振る。どうやら呆れられてしまったらしい。

「まったく、貴女を見ていると、昔ここにいた問題児のことを思い出しますよ」頭痛でもするのか、彼女はこめかみを押さえながら言う。「もっとも、その子は修道女になる前に教会を去ってしまいましたが」

 その人物に少しばかり興味が湧き、私は訊ねていた。

「その人は今どこに?」

「今のあなたと同じくらいの年に小説の賞を取って、今は文筆の仕事をしています」

 説教めいた言い方ではあったが、同時に揶揄されているようにも聞こえた。少なくとも、現状の私にはその人物のような突出した才能は無い。だとすれば、残るのは問題児という肩書きだけである。

「いずれにせよ」とシスター・ローレンスが言う。「あなたは今や初誓願を立てた立派な修道女です。清貧に自ら戒める必要があります。修道女である以上は怠惰に過ごしてはなりません」

 その諫言に私は口を真一文字に結んだ。その初誓願は、十五歳になると同時に半ば強制的に立てさせられたものだ。最初から私に選択肢など無い。それに、私は礼拝の時間を無為に使っていたわけではないのだ。書を読むことを怠惰と言うのなら、世の学者たちはみんな怠け者ということになるではないか。

 しかし、ここで修女長に反を呈しても得るものなどない。私は渋々立ち上がり、修道服の裾を手で払った。積まれた本を持ち上げ、書棚に戻そうとする。と、一番上に積んであった新聞が床に落ちた。それを目にして、修女長の表情に一瞬、憐憫のようなものが浮かんだ。

 一面に踊るのは『アルダナク連邦内乱激化』の文字。

 私は慌てて新聞を取り上げると、何食わぬ顔でそれを畳んだ。

「……リジル、あなたの気持ちは分かります。ですが」

「リジルマリア」と、私は彼女の言葉を制して名乗る。「初誓願を済ませた以上、それが今の私の名前です、修女長」

 そう言って、私は淡く微笑みを浮かべて見せる。シスター・ローレンスはそんな私をじっと見つめていた。何か言いたげだったが、私は先に言葉を制した。

「それでは、礼拝に行ってまいります」

 告げて、私は踵を返す。

 修女長が私を心配してくれているのは分かっていたし、それを無碍にすることに良心が痛まないでも無かった。しかし、為す術も無い状況で掛けられる他人の憐憫ほど、自分を哀れにするものはない。

 得体の知れない強迫とささやかな罪悪感を押し込めながら、私はそそくさと図書室を後にした。


             ◆


 入り口から中を覗くと、礼拝堂の前列と後列では人数に大きな差があった。教壇に近い席には修道女たちが隙間なく座っているものの、出入り口に近づくに連れて一般参列者の着席はまばらになっていった。

 説教をするゲオルグ枢機卿の熱意も、後方の席までは届いていないように思える。参拝者の中には欠伸をかみ殺す者が見受けられた。惰性で日曜礼拝に足を運ぶ、平穏で典型的なアルノルン都民の姿だ。

 あるいはこの国の大衆はもはや信仰など必要としていないのかもしれない。希わずとも、不足の無い暮らしを得ているのだろう。だが、神に縋る必要の無い国というのは、ある意味では理想の国家の姿なのかもしれないな、と私は思った。

 しばらく逡巡したが、結局私は礼拝堂には入らず踵を返した。考えてみれば、私個人に切望することはあれど、おそらくそれは神に頼んだ程度では叶えられないだろう。

 空を見上げてみると、太陽は既に最高度を越えようとしていた。礼拝が終われば、修道女にとっても日曜の午後は安息日である。ふと私の耳に、半刻ほど早い正午の鐘が聞こえた気がした。空耳であるという可能性を切り捨て、私の足は自然と修道院の裏手に向かっていた。

 大きな合歓木ねむのきの枝々が作る影の中に、我が修道院の裏門はある。そこをくぐり抜け、薄暗い路地をしばらく進むと、真昼の雑多な街並みが私を出迎えた。

 道幅の狭い参道には露店が並び、方々からは商売人の力強い声が飛び交う。道行く人々の数は膨大で、周囲に気を使わねば歩くこともままならないほどだ。

 ユナリア合衆教皇国のちょうど中央に位置する皇都、アルノルン。その下町は、今日もまた活気に満ち満ちていた。

 私はそんな人混みの中を泳ぐように突き進み、途中で脇道に逸れて再び裏路地に入った。日当たりがさほど良いとは言えない区域だが、私にとっては寮の自室よりもよほど親しみのある場所である。

「よう、リジル。礼拝は終わったのかい? 昼にしちゃ随分早くないか?」

 オーバーオールを着た中年男性が、すれ違い様に言う。私は右手をひらひらと振りながら答えた。

「腹痛で神様が早退してね」

 可笑しそうに笑う声を背に私は更に歩を進める。表参道ほど道幅は広くなく、陽光と建物の影が石畳の上で凹凸ある境界線を描いている。民家の軒先の陽だまりで、二匹の猫が丸くなりながら欠伸をしているのが見えた。

 しばらく進むと、右手に目当ての建物が見えてくる。三階建ての煉瓦作りの建物だが、その二階から上が何の店なのか、私は知らない。一階のガラス戸を押し開けると、涼しげな鐘の音が響いた。

「やあ、シスター・リジル」

「げ、シスター・リジル」

 最初ににこやかに微笑んでくれたのが店主のブルー、そして顔をしかめたのがウェイターのリットだ。

 この喫茶店に、名前は無い。入り口には喫茶店であることを示す看板すら無い。店は随分昔から営業をしているらしいが、ブルー店主ですら何年前から店開いているのか忘れてしまったそうだ。

 それほどいい加減な経営であるにも関わらず、しかし、店はそれなりに繁盛しているらしい。今日も店内には数人の客の姿があった。

 私はまっすぐにカウンターの席につく。すぐにブルー店主が冷たい水を私の前に置いた。

「いつものランチかい?」

 店主はいつもの人の良さそうな笑みで訊ねてくる。

 彼の年齢は四〇歳を少し過ぎた頃だろうか。長身痩躯でボサボサの黒髪に、いつもサボテンの針のような無精髭を顎下に蓄えている。黒レンズの眼鏡がトレードマークらしく、私は彼がこれを外すところを見たことが無い。

 私は頷き、手をひらひらと振った。

「うん、代金はリットにツケておいて」

「なんでだよ」

 横からリットが仏頂面で口を出してくる。

 彼は二十八歳。赤みがかかった長髪と、狐のように切れ長の瞳、背丈はブルー店主より少しばかり低い。

 年は私より十二歳も年上だが、実感としてそれほど年が離れているような気がしないのが不思議だ。私の精神年齢が高いのか、それとも彼が低いだけなのか―――あるいは両者なのかもしれない。

 私は口元を得意げに歪めて見せる。

「この前のカード勝負、忘れてないよね。負けたら一週間、昼食をご馳走してくれるって」

 つい先日、此処で私とリットがポーカーで一勝負をしたときの話だ。彼が自信満々に広げたフルハウスを、私の四人の女王(クイーンのクワッズ)がこてんぱんに叩きのめした。あのときの彼が浮かべた絶望の表情は、私の心のアルバムに大切に納めてある。

 リットは拳を握りしめて憤慨した。

「おいおい、ふざけるなよ。あれはおまえのイカサマだろ」

「イカサマ?」

「とぼけるな。後で調べてみたら、札の中にクイーンが八枚あったぞ。あの賭けは無効だ」

「なるほど」と私は大仰に頷く。「私が席を立つ前に気づけていれば、そういう結末だったかもね」

 私がしれっと言うと、リットは口をあんぐりと開けた。そんな我々のやりとりと見ていたブルー店主が、いつもの間延びした笑い声を漏らす。

「ははは。リットはやはり、年下の女性に良いように扱われる傾向があるね」

 言われてリットは苦い顔を浮かべた。

「世の中のシスターどもは、きっと俺が嫌いなんだ」

「きっとシスターはみんな日頃の行いを見ているのね」

 私が言うと、リットはじろりと私を睨んだ。

「博打を打つ修道女が、日頃の行いを説くなよ」

 私は涼しい顔で首をすくめた。実に正論である。問題は私自身に修道女の自覚が無いこと、そして最初からその自覚を得るつもりが無いことだろう。

「おまたせ、リジル」

 ブルー店主が私の前にボリュームのあるサンドイッチと湯気立つコーヒーを置く。

「ありがとう、マスター」言った後で、リットの方にも視線をやる。「ありがと、リット」

 リットは憎々しげな舌打ちを漏らして、自分の仕事に戻って行った。私とマスターは目を合わせて小さく笑った。

 少しばかりからかい過ぎたかな、というささやかな罪悪感をコーヒーの一口で飲み干す。苦みばしった味が私を冷静にさせた。

 店の鐘が断続的に耳に届いた。サンドイッチを齧りながら、私は賑わい始めた店内を見やる。訪れる者、出て行く者、一人で昼食を摂る者、誰かと語らう者……その誰もが退屈そうで、同時に幸せそうにも見えた。少なくとも、その光景の中に悪意や憎悪のようなものは感じ取られない。

 ―――そんな光景を眺めているうちに、突然、私の中に疎外感のようなものが湧いてくる。

 喩えるなら、まるで音楽の鳴っている部屋から無音の部屋に移動した時のような、空々しい『場違い感』。

 ―――ねぇ、あなたはいったい何をしているの?

 内側からの問いかけを、私は心を閉ざして無視する。いつものことだ。朝刊を読んだ日はよくこういうことが起きる。

 私はコーヒーを啜りながら、努めて冷静にその波が去って行くのを待つ。十秒、二十秒。やがて心臓の鼓動の向こうから、ようやく店内の雑多な音が聞こえ始める。世界に色彩が取り戻されて行く感覚に、私は小さく安堵した。

 サンドイッチの最後の一口を頬張り、コーヒーで流し込む頃には、私は普段通りのシスター・リジルマリアを取り戻していた。脱力して椅子の背もたれに自重を預ける。まったく、情緒不安定にも程がある。そんな自分自身にうんざりして、私は大きくため息をついた。

 そのとき、私のすぐ隣の席に腰掛ける人物があった。さほど広い店内ではないし、珍しいことでもない。ああ、誰か座ったな、と思う程度で、私は視線を向けることもしなかった。

 だから、出し抜けにその人物が声を掛けてきた時には少し驚いた。

「―――貴女は、人を殺したことはある?」

 退っ引きなら無い不穏な問いかけに、私は丸くした目を向ける。そこにいたのは、見るからに不審な―――いや、不吉な人物だった。

 妙齢の美しい女性である。長い黒髪と黒い瞳は、明らかにユナリア生まれの人間のものではない。黒く染められたブラウスに、同じ色のロングスカートを纏い、その足下まで黒いブーツで統一している。頭のてっぺんからつま先まで、ものの見事に黒ずくめだ。その異彩は、まるで彼女の存在にだけ神様が色をつけ忘れたかのような、ある種の非現実感すら放っていた。

 私は不審さに眉を寄せて問い返した。

「失礼、今、なんて……?」

「人を、殺したことはあるかしら?」

 女は躊躇うことなく、穏やかな声で同じ質問を繰り返した。私を覗き込むその瞳には、どことなく、この会話を楽しむような愉悦の色すら見て取れる。その余裕の表情に、私の中の不信感は更に増していく。半ば睨みつけるようにして、私は端的に答えた。

「……いいえ」

「ふふふ、でしょうね」

 と、その女はまるで知っていたかのように頷く。そして、妖艶な笑みを浮かべたまま私の瞳を覗き込んでくる。

「まだ汚れていない、綺麗な瞳をしているわ。その透き通るような青色、まるでサファイアみたいね」

「あなたは何ですか?」

 しかめっ面のまま、私は問う。誰ですか、という問いよりも、もっと根本的な質問だった。

「失礼」女は耳にかかった髪を指先でかき上げる。「私は通りすがりの占い師、といったところかしら」

「占い師?」

「そう。人の未来を見て、助言を与える。まぁ、駅馬車の案内係みたいなものね」

「……私は別に、道に迷ってはいませんが」

「そうかしら?」

 見透かしたような台詞に、私は再び憮然とする。そんな私を見て、女は意味深に口の端を吊り上げた。

「―――私には、随分と迷っているように見えたけれど」

 一瞬だけ、胸の奥を刃物の切っ先でつつかれたような気がした。だが、私はそれを表情には出さず、吐息をつく。

「あなたが私に声をかけた目的は何ですか?」

 意図して棘を含んだ口調で問い返すと、女は苦笑した。

「ねぇ、この世の中には目的の無い行為というものも存在すると思わない? 貴女だって、路傍の石ころを意味も無く蹴り飛ばしたりするでしょう?」

 思わず私はムッとした。

「初対面の人間を路傍の石扱いとは、随分と質の高い教育を受けて来られたようですね」

「あら、ごめんなさい。喩えが悪かったわね」

 悪びれる様子はなく、女は少し困ったように眉を寄せただけだった。私は段々と腹が立ってくるのを感じた。どうして私はこんな得体の知れない女と会話をしなくてはならないのだろう?

「強いて言うならば、そうね。何となく貴女から感じたのよ。奇々怪々な運命の匂いを」

 とうとう私の口から溜め息がこぼれた。運命? 感じた? これ以上、この女の妄言につき合ってやる必要など無い。珈琲を飲み干し、席を立とうとした、そのときだった。

「―――貴女はこれから、数え切れぬほど大勢の人々を殺す」

 首もとに刃物を突きつけられたかのような、恐ろしく冷たい声色だった。先ほどまでの軽い口調ではない。その言葉はまるで託宣のように、仰々しい響きを持っていた。

「……どういう意味ですか?」

「占いよ。貴女の未来には、咽せかえるほどの硝煙と血臭が立ちこめている。数多の戦場と累々たる骸の上を、貴女は駆け抜けていくことになる」

 馬鹿馬鹿しい、と思ったのが半分。そして残りの半分は、その奇妙な説得力のある口調に惑わされつつあった。

 私は小さく頭を振って、その惑いを拭い去る。無言のまま立ち上がって、踵を返した。出口に向かう私の背中に、女の声が届く。

「ねぇ、最後に一つだけ、いいかしら」

 足を止めてしまった理由が、私には分からなかった。肩越しに、不機嫌な視線を送る。

「物事というものは実に多様な面を持っているものよ。『世界』は貴女の目に映るものだけじゃないわ」

 意味深な言葉と、意味深な微笑。

「また逢いましょう、シスター。次は貴女が『世界』を受け入れたときにでも、ね」

 取り合わず、私は店を出た。私の中には、サンドイッチの味とは対照的な、そこはかとない後味の悪さが残った。昼下がりの町並みは、変わらずの賑わいを見せていた。


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