〈序〉業火の公女
世界は硝子で出来ている。
業火に燃える館から逃げ出す最中、私はそう想った。
そんなことを想ったのは、きっとその日の昼間に、誤って来客用のアンティーク・グラスを七つも割ってしまっていたからだ。こんなにも唐突に、こんなにも呆気なく砕けてしまうものなのか、と、そのときの私は茫然と足下の惨状を見下ろした。無力感、悲哀、焦燥、怒り―――それらすべてがない交ぜになった、冷たく暗い感情。
今の私の胸中にあるのは、そのときと同じ感情だ。
「お急ぎください、姫!」
ベルンハルト将軍が私の手を引っ張り、叫ぶ。降り積もった雪が幼い私の足をからめ取り、私は何度もつまずきかける。半ば彼に引きずられるような格好になりつつも、私は必死で走った。
「妹は……クラムは後から来るのよね?」
吐き出す白い息と共に、私は叫ぶ。しかし、将軍は答えなかった。それが意味する所を察して、今すぐ引き返したい衝動に駆られる。だが同時に、脳裏に浮かぶ先ほどの光景が私の恐怖心を煽った。
紅蓮に取り囲まれた大広間と、その中心で胸に刃を突き立てられた母親。立ち向かう父親と、飛び散る鮮血。そして崩れ落ちる父の先に立つ、黒い人影。
その人物が浮かべた酷薄な笑みは、今なお私の背筋に冷たさを残していた。それは普段見慣れた兄上の微笑とは、まるで似ても似つかぬ表情だった。
「この先のミルズ河を横断すればユナリア領です!」将軍が走りながら言う。「その先のホークアイまでたどり着ければ、アントリウム家の保護を受けられるはず! 彼らはネルルク家とは代々懇意の家柄、必ずや力になってくれるでしょう……!」
彼の古傷だらけの顔は、焦りと苦悶の色に歪んでいた。こんなに追いつめられた表情の将軍は、今まで見たことが無い。
しかし、彼の言う言葉のほとんどは、私の頭からこぼれ落ちていく。
「どうして……どうして……!」
すべてに納得がいかなかった。今日の午前中まではいつも通りだったはずだ。正午を回るまで、私はクラムと庭で雪遊びをしていたのだ。それが今は、涙をこぼしながら吹き荒ぶ冷気の中を走っている。その変容があまりにも理不尽で、あまりにも悲しかった。走るたびに、足下で日常が粉々に砕け散っていくように思えた。
まるで割れてしまったアンティーク・グラスの破片を、自らの足で踏み砕いて行くかのように。
やがて林を抜け、眼前に大河が現れる。桟橋には一艘の小舟が止まっており、その傍らには一人の若い将校の姿があった。
「父上、こちらです!」
「ジノ!」
名を呼ばれた青年は、その精悍な顔を、父親同様に焦燥に染めていた。積もった雪に反射した月光が、その頬を染める血を照らし出す。それを見て父親は目を見開いた。
「その血は……」
「不覚です、賊は有事の近衛対応を把握していたようです」ジノの血濡れの顔が悔恨に歪む。「駐屯所の部下は皆……!」
ベルンハルト将軍は息子の肩に無言で手を置く。ジノはそこに自分の手を重ねた。
「すぐに追っ手が来ます。それに間もなく吹雪だ、これに紛れて父上は早く姫を連れてお逃げください」
「何を言う」将軍はそれを固辞する。「おまえも共に来るのだ。我々は主君の盾となる者、それを忘れたか?」
「ならばこそ、です」
重ねられたジノ将校の手が、強く父の手を掴む。その瞳には、使命と義憤が渦巻いていた。
「その盾たる衛士達を守れなかったのは私のせいです。私には此処で連中を食い止める責任があります」
「私情ゆえの仇討ちか?」
その問いに、ジノが切迫した目で見上げる。
「死んだ友の尊厳と、姫の命を守る。そのためです」
将軍は言葉を飲み込み、じっと息子の瞳を見つめる。やがて、諦めたように白い吐息をついた。
「―――断じて死ぬことは許さぬ。生きて再び主君を守ると誓え」
「必至!」
ジノは敬礼の姿勢を取ると、背に担いだ銃剣を構える。将軍は彼を一瞥すると、振り返ることなく舟に乗り込んだ。そして私に手を差し伸べる。
「さぁ、姫様」
しかし、私は動けなかった。背後、暗夜の空を舐める紅蓮が、その中にいるであろう妹が、私を呼んでいるような気がしたからだ。
「でも、クラムが、妹が……」
そこに、ジノ将校が屈み込んで、私の両肩に手を置いた。その瞳には、戸惑うような気弱な色があった。
「姫様、その妹君のことですが……」
彼は一瞬苦渋の表情を浮かべてから、それを抑え込むように首を振った。そして、私を安心させるように優しく微笑む。
「……ご安心めされよ。妹君は必ず、私がお救いいたします」
私の瞳に、再び涙が溢れ出す。信じるのではなく、縋ったのだ。その言葉が、その約束が、そのときの私にとってどれほど心強かったか。
「きっと、きっとよ……!」
「ええ、もちろんです」
泣きじゃくる私の頭を、ジノが優しく撫でる。
「姫様、あなたは必ず生き延びてください。そしていつの日か、この国を―――」
と、そのときだった。私たちが逃げてきた方から、数人の足音が聞こえてくる。ジノは言葉を区切り、再び銃を構えた。
「ジノ!」
叫ぶ私の声を背に、彼は林から現れた兵士たちに突進していく。
「父上、姫様をお願いいたします!」
「任せよ!」
ベルンハルト将軍に抱き抱えられ、私は小舟に乗り込む。舟が桟橋を離れたとき、無数の銃声と鬨の声が響いた。
「姫様、伏せてください!」
将軍が私の頭を押し込め、私は船底に張り付くように伏せる。将軍は櫂を振るって川底を強く押しだし、勢いよく舟を出航させた。その数瞬の後、頭上から将軍の唸り声が聞こえる。
「ぐっ……!」
額に降りかかる温かな感覚に、私は顔を上げる。将軍の左胸から、血が流れ出していた。響き続ける銃声で、すぐに私は察する。岸からの流れ弾に当たってしまったのだ。
「将軍っ!」
私が立ち上がろうとするのを、彼は許さなかった。
「駄目です、姫……!」
彼は左手で私の頭を押さえ、右腕で櫂を強く振るって舟を漕ぎ続ける。
「しばし、辛抱してください……! 我が息子が作ってくれたこの機会を、私が無駄にするわけには……!」
その瞳に宿った悲愴な決意を見て、私は唇を噛みしめた。震える身体を自身の両腕で抱きしめ、私は再び舟の底にうずくまる。
涙が止めどなく溢れ出た。悲しみや、絶望や、恐怖のせいもある。だが、今はそれ以上に強い感情が私を飲み込んでいた。夜よりも暗く、炎よりも熱い、得体の知れない感情。そのときの私は、その感情の名前を知らなかった。
吹雪が世界を覆い始める。そんな中、舟は冷たいミルズ河をまっすぐに渡っていく。銃声が遠くなり、舟の縁から覗き見た対岸が、吹き抜ける雪の彼方に霞んでいった。
数十分は経っただろうか。やがて舟底に小さな衝撃が響き、対岸に辿り着いたことを告げる。と同時に、まるで糸が切れたかのようにベルンハルト将軍の身体が崩れ落ちた。
「そんな、将軍っ!」
抱き抱えようとするも、幼い私の力では彼の頭を少し持ち上げるだけで精一杯だった。将軍の顔は蒼白となり、吐く息は細く小さくなっていた。虚ろな目で私を見ると、彼は安心したように口元を緩めた。
「ひとまずは、これで、安心です、姫様……しかし、申し訳、ありません、どうやら、私はここまで、のようです」
「喋らないで! すぐに人を呼んで……」
と、顔を上げて私は絶望する。
吹雪は既に弱まり、月の明かりが雲の隙間から射し込んで、目の前の世界を照らし出していた。そこに広がるのは、どこまでも続く白亜の雪原。どれだけ目を凝らせど、民家の明かりのようなものは見つからない。
「姫、様」ベルンハルト将軍は、震える指先で傍らの小さな背嚢を指す。「その、中に、地図と、方位磁石が、ありま、す……ここから、南に進めば、ホークアイという、都市が……そこに住む、アントリウム家を、訪ねな、さい……がはっ」
将軍の口から鮮血が溢れる。私は泣きじゃくりながら、何度も頷いた。
「わかった、もうわかったから、喋らないで!」
こぼれ落ちた私の涙が、将軍の頬に落ちていく。そんな私とは対照的に、将軍は満足したかのような微笑を浮かべていた。
「大丈夫、です……リジル様……貴女は、強い……息子は、ああ言いましたが……貴女はこれから、自由に生きなさい……自由、に……」
と、そこで将軍は事切れる。開いた目の焦点は虚空を臨み、二度とその口が息を吸い込むことは無かった。私はその亡骸に覆い被さり、しばらく泣き続けた。
ひとしきり涙を流すと、驚くほど空々しい感情が胸に湧いてきた。将軍が残してくれた背嚢を背負い、私は舟から降りて大地に足を着ける。そして、再び将軍の亡骸を見下ろして、胸の前で丁字を切った。
両手を組み、言う。
「こんな弔いしかできなくて、ごめんね……」
屈み込み、小さな手で小舟を押し出す。舟は静かに岸から離れ、雄大なミルズ河の流れに乗って、静かに下流へと流されていった。見送った後で、私は目元を拭って立ち上がる。
「あなたの、そしてジノの想いは無駄にはしない」
私は彼方の対岸を睨む。その向こうで、燃えゆく祖国を想った。
そして、九歳という幼き胸の内に誓う。
「いつか、私が兄上を―――」
湧き出るその感情に、憎しみという名をつけて。
「ネルルク公国を……!」
その先の言葉は誰に届くでもなく、絶対零度の風と共に世界を駆け抜けて行った。
◆
―――正暦一八六六年、冬。
私は祖国を失った。
私の兄、アルダナク連邦首国ネルルク公国の第一公子、ヴァルム・ハインツ・ネルルクの起こした反乱により、父と母は虐殺された。
そして、それから七年後。
黒衣の魔女が私の前に現れ、私に『王殺しの魔剣』を授けたとき、この物語は再び動き出す。
私、リジル・ヴァイス・ネルルクの―――。
祖国と自分自身を取り戻す、叛逆の物語が。