03.彼女は彼氏に謝りたい。
二学期には、学校行事が目白押しだ。
元々運動神経の良かった蛍斗だが、女になってもそれは健在だった。
女子の中では最速のタイムをたたき出し、体育祭での活躍をクラス中から期待されている。
そんな中、悠士の懸念はただ一つ。
「あんまり張り切りすぎるなよ」
「張り切るに決まってんじゃん。こういうイベントで張り切らなくてどうするよ」
「別にいいけど、だったらちゃんと下着を着けろ」
「なんでっ?」
「逆にセクハラだぞ、それ」
風を切って走る蛍斗の胸にある二つの大きな膨らみが悠士の悩みの種だ。タンクトップやキャミソールを着ているとは言え、相変わらずブラジャーを着けていないために、上下左右にそれはまぁ盛大に弾んで跳ねて暴れている。
あれは目に毒だ。
下着を着けても揺れるものは揺れるだろうが、着けないよりは数段ましなはずだ。
正直がんばらないという選択肢の方が悠士には望ましいが、そこまで蛍斗の行動を制限しようとは思わない。
「そのまま走ったらどういう目で見られるか、お前にも想像はできるだろう?」
蛍斗は渋々頷いた。
悠士も蛍斗もリレーの走者に選ばれた。
やたら気合の入った担任の指示により、放課後に居残り練習までさせられた。
「荷物取ってくるから校門でな」
「うぃー」
体育館横の部室で着替える蛍斗と別れ、悠士は教室へ向かった。着替えた後、二人分の荷物を回収し校門へ向かう。だが、いつもなら先に着替えを済ませているはずの蛍斗がまだ来ていなかった。
なんだか嫌な予感がした。
「ふあぁ……んな気合い入れてどうすんだよ……」
自分のことを棚に上げ、蛍斗は担任の張り切り具合に文句を垂れた。
バトンパスの練習のために何度も走らされてさすがに疲れたのだ。男の身体よりもスタミナが少ないのか、疲れやすい気がする。これも重いし、と自らの胸をふにっと持ち上げてみた。
再三に渡ってブラジャーを着けるように言われているが、どうしても、どうしても、毎日着けるのは辛い。だったらせめて運動する時だけでも、と譲歩されたのだが、うっかり忘れてきてしまうことが多い。誓ってわざとではない。ちなみに今日はカップの付いたタンクトップを体操着の下に着ている。大きな胸を支えるには頼りないが、それこそ着けないよりはいいだろう。
部室の扉を開けて中に入る。後ろ手に閉めようとしたところで、何かに阻まれた。
振り返ると、ドアの隙間に足を噛ませながら蛍斗をにやにやと見つめる、一年生の頃のクラスメイトたちの姿があった。二年になってからはクラスが分かれ、ついでに女になってからはほぼ接触ゼロだ。
「……なんのつもり?」
「いやさぁ、悠士にばっか懐いてないで、俺たちもご相伴にあずからせてくれよ」
「そうそう、俺ら友だちだろぉ?」
蛍斗は顔をしかめた。
(そういうことを言うから避けられてるって気づけ、ドあほ)
女として見るのはまぁ許そう。だが「友だちだから」という名目で蛍斗に近づき不埒なことをしようとするのは許せない。
そんなのは、友だちのすることではない。
「お前らと悠士を一緒にすんな」
「悠士みたいな堅ぇこと言うなよ」
「そんな格好してさぁ、男誘ってんじゃん」
そんなつもりはない、と言ってもきっと通用しない。
確かに蛍斗は家族や悠士の忠告をあまり真剣に聞いていなかった。
男だった頃はそれなりに仲良くしていた相手だった。ただ腹立たしいというだけでなく、寂しいような悲しいような気持ちになる。
しばらく蛍斗と三人は睨み合った。
三人相手に逃げ出すのは少し厳しい。
雑然とものが置かれた部屋の中、じりじりとにじり寄ってくる彼らと距離を取ろうとするがすぐに行き詰まる。
男子たちの手が伸びてきた。
「うわああぁぁ――っ! おーそーわーれーるーっ!!!」
蛍斗はとにかく出せる最大級の叫び声を上げた。
蛍斗がいつも着替えている部室から悲鳴が聞こえてきた。
蛍斗を迎えに行こうと動かしていた足を速め、慌てて室内に飛び込んだ悠士の目に、あってはならない光景が飛び込んできた。
「おとなしくしろって!」
「んー! んむー!」
蛍斗が押し倒されていた。
三人がかりで床に押さえつけられ、男の手で口を塞がれている。
その豊かな胸に悠士以外の手が触れようとしているのを見て、一瞬目の前が真っ白になり、次いで視界が真っ赤に染まった。
「――その汚い手を離せ」
恐らく、人生で一番低い声を更新した。蛍斗に怒りをぶつけた時よりももっと苛烈な感情が心に渦巻く。
大股で近づき、蛍斗に馬乗りになっている男の襟首を掴んで引き離した。
「ゆ、悠士」
「あ、いや、これは」
男子たちが気まずそうに顔を見合わせる。
それだけ、今の悠士が纏う空気は不穏なものだった。
蛍斗一人を三人がかりで襲った彼らは、それほど体格に恵まれていない、男だった頃の蛍斗と同じくらいの体格をしている。群れなければ狩り一つできない。
悠士の凄みに気圧されて、彼らはろくに身動きできなかった。
「な、なんだよ。ちょっとふざけてただけだって」
「そうだ。そんな怒るなよ」
基本的にはどこにでもいるただの男子高校生たちだ。ちょっと悪ノリが過ぎただけ、と自分たちでは思っている。冗談なのに、と。したことの意味を理解していない、愚か者たちだ。
三人がかりで、力尽くで、無理矢理押さえつける。立派な暴力だ。
悠士がぐっと拳を握り込んだのとほぼ同時だった。
「うーん、その言い訳は通用しないなぁ」
第三者の声が割り込んだ。
部室の鍵を管理する体育教師だった。施錠のためにここを目指していた教師の耳にも、蛍斗の大声は届いた。
「寄ってたかって何しようとしてたんだか。あれ、一応何もされてないよな?」
蛍斗はむすっとしながら頷いた。
教師の少々無配慮な発言に悠士の眉間に皺が寄る。
直接的な被害がなければそれでいいとでも言うような、実際学校側としては事が大きくなる方が困るのだろうけれども。
「何もしてねーし」
「だいたいこいつ男だったじゃん。こんなの、ほら、コミュニケーションの一環っていうか」
「有賀は今女だぞ。下手すりゃ退学案件だな、こりゃ」
男子たちの顔がざっと青ざめる。自分たちがしでかしたことの大きさをようやく認識しはじめたようだ。
彼らのことは教師に任せて、悠士は蛍斗のそばに屈み込んだ。
「――蛍斗」
大丈夫か、とはとても聞けなかった。聞いてはいけない気がした。
「遅くなって、ごめん」
よく見ると、蛍斗の唇が小さく震えていた。
普通の女子よりはよほど肝が据わっていて図太く、男子の衝動にも理解のある蛍斗でさえ震えているのに冗談で済むものか。
頬に触れた途端、くしゃっと顔を歪めた蛍斗の目から涙がこぼれ落ちた。
――悠士だ。悠士だ。悠士だ。
蛍斗が知っている手だ。蛍斗を知っている手だ。
無我夢中で抱き着いた。
「蛍斗?」
「……や、だった。きもちわるかった」
「……そうか」
「うっ……うぅ……」
絶対に泣くものかと堪えていた涙が決壊する。ぎゅうと悠士にしがみついて、蛍斗は嗚咽を噛み締めた。蛍斗を襲った男たちがまだいるのに、泣き顔は見せたくなかった。
性的な意図をもって悠士以外の男に触られたのは、これがはじめてだった。
蛍斗も、足りないとは言え一応の自衛意識を持っており、登下校を含め学校にいる間は基本的に悠士にくっついているのだ。
悠士が一緒という条件がなければ、本来蛍斗は二学期から登校を再開する予定だった。その二学期に入り、クラスの中で蛍斗の変化がそれなりに受け入れられても、悠士はまだお目付け役を続行していた。
電車でも、教室でも、それ以外のところでも、蛍斗に伸ばされる手は悠士がすべて阻止してくれていた。
だから蛍斗は知らなかった。
今の蛍斗にとっては「異性」に当たる男の手が、性的な目的で触れてくる感触が、悠士以外の体温がこんなにも気持ちが悪いものだなんて。
悠士の手を気持ち悪いと思ったことはない。たまに理性がぷっつんしている時は怖いと思うこともあるが、それだって拒むつもりはない。
三人に囲まれた時点で大声を上げて人を呼ぶ、という選択肢もあった。だが、その時点では蛍斗もまだ悠長に構えていたのだ。下手に人を呼んで、それが三人と同種の男であった場合余計ピンチになってしまう。
しかし、男子たちに腕を掴まれた瞬間蛍斗は叫んでいた。蛍斗には「きゃー」なんていうかわいらしい声は上げられない。
びっくりするほど気持ち悪かった。気持ちが悪すぎて、触られているのが我慢ならなくて、蛍斗はがむしゃらに抵抗した。
押さえ込まれていた時間はそう長くなかったが、女子の非力さを思い知るには十分だった。
教師の「何もされてないよな?」という言葉には断固反論したかったが、蛍斗はぐっと言葉を飲み込んで頷くに留めた。ここで何かされたと言えば悠士が気に病んでしまいそうだったからだ。不幸中の幸いと言うべきか、床に押し倒された直後に悠士が来てくれたので、実際に触られたのはセクハラで訴えるには弱そうな場所だけだった。胸もギリギリセーフだった。
自分が傷つくだけなら自業自得だが、それで悠士を傷つけて、あまつさえ見限られでもしたら目も当てられない。
たぶん、本当に恐ろしかったのはあの男たちなんかではなく、悠士との関係が壊れることだった。他の男に触られた蛍斗を、悠士が「もういらない」と見捨ててしまう未来の方がよほど恐ろしかった。
流れた涙のほとんどは「悠士に捨てられたらどうしよう」という感情に由来していた。蛍斗の妄想力が仇になった。
現実の悠士は、蛍斗を見捨てたりしなかった。
頬に添えられたぬくもりに、悠士が触れてくれたのだと知覚した瞬間、ぽろぽろと涙があふれた。こんなに涙腺が弱かった覚えはないが――いや、女になってからはよく泣いているかもしれない。
止めどなく流れ落ちる涙を拭われる。
悠士がまだ触れてくれる。それが嬉しくて、余計に涙が止まらなくなった。蛍斗が待ち望むのは、やはりこの手だ。
悠士は苦笑しながら丁寧に蛍斗の顔を拭い、それでは足りないと思ったのか、舌でも舐め取っていく。
とりあえず施錠したいんだが、という教師の声が飛んでくるまで、蛍斗は悠士から離れなかった。悠士も蛍斗を離さなかった。
蛍斗は保健室で着替えを済ませた。また事情を聴くかもしれないが後は大人の仕事だ、という教師の言葉に悠士は頷き、呼んでもらったタクシーで蛍斗を家まで送った。泣き腫らした顔の蛍斗を電車に乗せるわけにも歩かせるわけにもいかなかった。
いつもなら出迎えてくれる蛍斗の母親の姿が見えない。リビングを覗くと、険しい顔で電話をしていた。恐らく学校から連絡があったのだろう。
子どもたちの帰宅に気が付いた彼女は、蛍斗の泣き腫らした顔にさっと表情を曇らせた。
「蛍斗、お風呂入っちゃいなさい」
電話口を押さえて蛍斗に促す。蛍斗は逡巡するように母親と悠士の顔を交互に見た。
風呂に入っている間に悠士が帰ってしまわないかを心配しているのだろう。
「待ってるから、しっかり温まってこい」
「……うん」
蛍斗の背中を見送ってからすぐに蛍斗の母親は電話を切り、悠士に言った。
「悠士くんがいてくれてよかったわ」
「……いえ、すみません。力不足で」
「ねぇ、悠士くん」
「はい」
「私ね、まだしばらく電話のそばから離れられないの。代わりにあの子の様子見てきてくれない?」
「……いいんですか?」
こんな時だからこそ、自分の信頼度の高さが不思議でならない。
「いいのよ。あの子ったら、悠士くんがそばにいないと不安でたまらないみたいだから。ゆっくりしっかり温まるように見張っててあげて」
「……分かりました」
「悠士くんの着替えも出しておくわね」
「……ありがとうございます」
いつの間にか蛍斗の家には悠士のお泊まりセットが常備されるようになっていた。
リビングを出て行こうとした悠士の背中に声がかかる。
「悠士くん、こちらこそありがとう」
振り向いた先で、蛍斗の母親が微笑んでいた。
「最初に電話がかかってきた時はね、もう目の前が真っ暗になっちゃって。でも、悠士くんがいてくれたらあの子は大丈夫なのね」
安堵のような、苦笑のような、やわらかい笑みだった。
最後に「ゆっくりしっかりよ!」と念押しされて、悠士はバスルームへ向かった。あれだけ念を押されたからには、中に入らざるを得ないだろう。今の蛍斗に男の裸を見せても平気なのかどうか分からず、一応タオルを腰に巻いて浴室の扉を開けた。
頭上から降り注ぐシャワーを浴びながら、蛍斗は俯いてじっと座っていた。
「蛍斗」
「……え、え?」
乱入者に気づいた蛍斗が目を丸くする。
「俺が洗うから」
それぐらいはさせてほしい。全身くまなくきれいにしてやる。
どこを触られたのか、などとわざわざ嫌なことを思い出させるつもりはない。とにかくすべて余すところなく洗ってしまえばいい。
「ゆ、うじ」
「ん」
また、じわりと蛍斗の目に涙が浮かんだ。
「……や、やになってない?」
「なんで」
「さわ、られた、から」
悠士が洗うと言ったからだろうか。まるで自分は汚れているとでも言いたげな蛍斗の言葉。
「蛍斗の所為じゃないだろ」
「……たぶん、俺も悪い」
人の忠告を聞かずに若い男たちの前でその肢体を見せびらかしたのは事実だが、今の蛍斗は情緒不安定気味なのであまり強くツッコめない。
「それでも、自制できない方が悪い。悪いのは触った奴で、だからお前は悪くないし、俺が嫌になる理由もない。むしろ、ああいう状況を許したのは俺の責任でもあるし」
「ごめんなさい」
「あんまり謝られると自分で自分が許せなくなるからやめてくれ」
言いながら、蛍斗の涙を拭ってやる。
もし間に合わなかったら――考えるだけで恐ろしかった。
しつこく蛍斗に注意しておきながら、蛍斗を一人で着替えに行かせたのは悠士の失態だった。
女の子なのに。恋人なのに。
いつまで親友気分でいるつもりだ。
今まではその方がいいと思ってきたが、その所為で隙が生まれてしまうなら――蛍斗を守れないのなら。
――親友だってやめてやる。