02.彼女は彼氏と遊びたい。
夏と言えば海だ。異論は認めない。
八月に入り、蛍斗と悠士は海に遊びに来ていた。
実はまともなデートははじめてだったりする。
夏休み初日から恋人らしいことはして過ごしたのだが、肝心のデートにこぎ着けるまでが意外に難儀だった。蛍斗の妄想デートプランが悠士に却下されまくったからだ。
「夜景の見えるレストラン?」
「すっげーきれいに見えるって」
「俺とお前で? 高校生が?」
「じゃ、じゃあ遊園地――」
「絶叫系でハイになるお前と? 二度と一緒には行かないと言った覚えがある」
「映画――」
「どうしても見たいって人を連れてっといてぐーすか寝たお前と? レンタルで十分だ」
親友としての思い出が牙を剥きまくった。
あーでもないこーでもないと議論を重ね、その間にもやることはやりつつ、ようやく悠士が頷いたのが「海へ行く」という夏らしく恋人らしいド定番のプランだった。
「夏と言えば海だ。異論は認めない」
「…………まぁ、それなら」
ド定番すぎて反対意見の出しようがなかったそうだ。
ちなみに泊まりがけである。悠士と海に行くと言ったら家族が手配してくれた。何を期待されているかはいちいち考えない。というか期待されていることは別に海に行かなくてもやっているのだが。
電車で約一時間半、それほど有名な海水浴場ではないが、適度に広く適度にきれいな、地元民に愛される穴場だ。蛍斗も悠士も日帰りでなら何度か遊びに来たことがある。実際泊まりがけにするほど遠いわけでもないのだ。ただ、恋人になった二人が気兼ねなくゆっくりできる時間と場所を提供してもらったと思えば、ありがたくその気持ちに甘えるべきだろう。「気兼ねはするぞ」と悠士は言っていたけれども。
ホテルの窓からも海が見えた。
「海だーっ!」
「海だな」
「テンション! おかしい!」
「お前のな」
そんな他愛もないやり取りをしながら荷物を解いた。
まだ昼には早い時間に着いたので、とりあえず一泳ぎするという蛍斗の意見が採用された。
「――ってお前、それ」
「ん? お、食いつく?」
「……おばさんか? お姉さんか?」
「どっちも」
「……そうか」
蛍斗の水着を見た悠士がなぜか脱力している。
「あれぇ? 嬉しくない?」
「おばさんたちにほどほどにしろって言っといて」
当然ながら女性の水着を持っていなかった蛍斗は、母と姉に連れられて買いに行った。思ったよりキャーキャー盛り上がったのだが、渾身の一着だったはずの水着は悠士には不評らしかった。
「けっこう似合ってると思うんだけど、変?」
「似合ってるから問題……いやまぁ、うん、悪くはない、と思う」
「だろー? ブラジャーみたいでちょっと違和感あるけど、スク水よりはましかなぁ」
蛍斗曰くの「スク水」とは上下が一続きのワンピースタイプの水着のことだ。ボトムにショートパンツが付くのはビキニタイプしかなかった。蛍斗の大きな胸を支えるにはいささか心許ない細い紐がうなじのところで結ばれている。胸を覆う布はこれまたいささか少なめだった。さすがにこれだけで出歩くつもりはなく、紫外線を通さないというパーカーもセットで購入した。
「ちゃんと隠れるし」
たぶん悠士の顔が渋いのはそういうことだろうとパーカーも見せたが、悠士の眉は寄ったままだった。
少々大胆なデザインの水着は蛍斗に似合っていた。悪くもなかった。
(見るのが俺だけならな)
上からパーカーを羽織れば良いというものではない。パーカーを羽織ったところでその胸のボリュームは隠せないし、ファスナーの位置次第では下に何も着ていないかのように見えて、どの道男心を刺激するのだ。
とは言え蛍斗が不満を覚えていないなら口出しするのもどうかと思い、悠士はそれ以上何も言わなかった。
着替えろと言ったって替えの水着など持っていないだろうし、ここまで来て海で遊ぶなというのも酷だ。そもそも蛍斗の体型から考えて、いやらしく見えない水着というものが恐らく存在しない。であれば何を着ても悠士の眉は寄る。であればこれ以上何を言う必要もない。
どうせ昼食までの短時間だからと、二人は荷物を持たずに海辺へ向かった。
砂浜は太陽光で熱せられていた。
「おお、あっちぃ」
快晴だからか、それなりの人出で賑わっていた。
「よく焼けそうだ」
一直線に水際まで近づく。踏みしめる砂の感触が、水を含んで少しやわらかくなった。
寄せては返す波が、気まぐれに二人の足元を濡らす。
「つめてー」
何を思ったのか、蛍斗ががばっとパーカーを脱ぎ捨てた。
「はっ!?」
ばしゃばしゃと、勢いよく海に突入する背中を見送る。もちろん頼りない紐が揺れるだけで、ほぼほぼ素肌である。
悠士は思わず周りを見た。男性の視線が蛍斗に集中している。
蛍斗と同じような格好をしている女性は多い。中には蛍斗と同じように上着を脱いでから海へ入る者もいるが、着たまま入る者も多い。
悠士もそうだと思っていた。蛍斗のパーカーは水陸両用のものだ。脱いだら意味がない。
「悠士ぃ! 早く来いよー!」
「……おぅ」
楽しそうで何よりだ。
お説教を食らわせるのは昼食時でいいだろうと、悠士も海へ足を踏み入れた。
浮き輪やボールは部屋に置いてきたので、お互いを沈めたり、水を掛け合ったり、ただ並んで浮いてみたりと、大したことはできなかったがそれでも十分に楽しめた。
ひとしきり遊んだ後、昼食に向かうためにシャワーを浴びた。当然海水浴場にある簡易シャワーは男女で別れており、入り口が違う。悠士が出てきた時にはまだ蛍斗の姿が見えなかった。普通は女性の方が何かと時間がかかるものだからと悠士もしばらく待ってみたが、蛍斗の身支度にそれほど時間がかかるとも思えない。
先に部屋にでも帰ったのだろうかと思案していると、聞き覚えのある声が耳に届いた。
「だからぁ、連れがいるんだって」
「いいじゃん遊ぼうよ。なんなら連れと一緒にさぁ」
「いや、連れ男だし」
「えーそうなの? 何彼氏?」
「君かわいいもんねぇ」
「スタイルもいいし」
「彼氏とはいつでも遊べるじゃん? 今日は俺たちと遊ぼうぜ」
悠士の眉間にぐっと皺が寄った。
「ほんと邪魔だからどいて。あ、悠士!」
悠士の方へ視線を向けるナンパ男たちの間をすり抜けて、蛍斗がぱたぱたと悠士の元へ戻ってきた。そのままぐいぐいと腕を引かれる。呆気に取られる男たちとはすぐに距離ができた。
普通なら彼氏とナンパ男が一触即発というところだが、蛍斗は見事にそのフラグをへし折った。
「あれで成功すると思ってんのかな」
辛辣な評価を蛍斗が下す。だが、悠士の頭の中はそれどころではなかった。
ホテルの一階で昼食を取り、浮き輪などの荷物を取るために部屋に戻った。
それほど広くはないツインの部屋だ。
窓際に置いた荷物の元へ向かおうとした蛍斗は、だが悠士に手首を掴まれて引き留められた。
「悠士?」
「……」
返事はない。悠士の顔を見て、そこでようやく蛍斗は「あれ?」と思った。
何をそんなに難しく考え込んでいるのだろう。
「悠――」
いきなり引っ張られた。そしてぽいっとベッドに放られてすぐさま乗りかかられた。
蛍斗は呆気に取られて悠士を、覆い被さってくる恋人を見つめた。
「な、なんで」
これから、また海で遊ぶ予定だったはずだ。少なくとも夜まではベッドの出番はなかったはずだ。
ぐっと押さえつけられてそのまま深くキスされた。
じたばたともがく手足は取り押さえられた。
縦横無尽に暴れ回る舌が蛍斗の口内を犯す。ろくに息継ぎできず、あふれた唾液が唇からこぼれた。
胸を揉む力がいつもより強くて痛い。
剥き出しの太腿を這う手がそのまま上ってくる。はっとしてその手を押さえようとするが蛍斗の力では無理だった。
「んっ、んーっ」
いつもならもっと蛍斗のペースに合わせてくれるのに、なんだか強引だ。
悠士の手がショートパンツの中にあっという間に侵入する。水着の上から尻を撫で回された。ついで無遠慮な手は水着の中にも入り込もうとする。
その間にもキスは続いていた。
荒々しく、強引なキス。
蛍斗の目尻にだんだんと涙が溜まる。
(なんで、なんで……っ)
ひく、と蛍斗が小さくしゃくり上げたのが伝わったらしい。
キスが止んだ。手が侵攻を止めた。
唇は離れたが、至近距離で顔を覗き込まれる。
とうとう蛍斗の目から涙がこぼれ落ちた。
悠士の目が揺れて、動揺が伝わってくる。
恐る恐る頭を撫でられた。尻をまさぐっていた手が位置を変えて背中をさする。
「……悪い」
そのまま離れていこうとするのを、服の裾を掴んで阻止した。
「あほ」
舌足らずな罵倒には微塵も強さがなかった。
「ばか」
蛍斗の口から出る「ばか」は大抵カタカナかひらがなだ。漢字表記になることはまずない。それぐらいに、罵倒と呼ぶには甘いのだ。
「慣れてないんだよ。こわいんだよ」
衝動的な男の欲を受け止めきるには経験値が足りない。
「だから悪かったって」
悠士が困ったように言う。反省しているようだ。だがきっと誤解している。
「分かってない!」
突然の悠士の乱暴の理由も分からないが、蛍斗の意図も伝わっていない。
「嫌なんじゃなくてこわいの」
「……何が違うんだ?」
「『嫌』は拒否、『こわい』はやさしくして」
「……」
意味はまるで違う。ちなみに『やだ』は否定だ。拒むわけではないが積極的に受け入れる準備ができていないのでとりあえず否定する状態である。消極的な肯定とも言う。
「やさしくしてよ」
自分でも甘ったれたことを言っていると思う。
ほんとに女の子になったみたいだ。だが、それが偽らざる本音だった。
付かず離れずの距離で逡巡している悠士を引き寄せて自分から抱き着く。その胸に顔を埋めて、ほぅと息を吐いた。
「……お、前なぁ」
「やさしく、してよ」
嫌じゃない。乱暴でもいい。
(ただ、俺の声を聞いて。俺の気持ちを無視しないで)
悠士だけは失えない。
だから、悠士が望むなら身体だけでも与えはするけれども。
「身体だけじゃ意味がないって言ったの、お前だろ?」
教えたのは悠士なのだから、ちゃんと責任を取ってくれなくては困る。
「……ああ、そうだった」
こつんと額を合わせる。「とりあえずヤろう」と言う蛍斗に、身体だけを繋げる無意味さを説いたのは悠士だ。
(情けない)
ふぅ、と悠士は深い息を吐いた。
蛍斗を泣かせるのは本意ではない。傷つけたくもない。
それでもどうしようもない衝動が沸き起こって、ぶつける相手を間違った。
怒りをぶつける矛先はナンパ男たちであるべきだった。だが、ぶつける前に逃げ出してしまった。面倒にならなくて良かったと思うが、一度頭をもたげた衝動は行き場を失った。
蛍斗の姿が目に入る。男を煽る、その身体が。
蛍斗の所為ではない。分かっているのに、暴走しかけた。
嫉妬という媚薬に眩まされて、自分の気持ちに呑まれて、蛍斗の心を蔑ろにした。
「俺だって、お前をこわがりたくなんかないよ」
悠士の胸にすり寄って甘えながら、蛍斗が言う。
「怒らせたかなとか、嫌われたかなとか、やなこと考えちゃうじゃん」
ぎゅう、と目の前の身体を抱きしめる。
大切な恋人だ。独占欲を主張しても構わないだろう。だが、所有権があるからと言って適当に扱っていいはずがない。こんな風に怯えさせていいわけがない。
大事にしなければならない。
大事に、したい。
「ふへへ」
気の抜けた笑い声。
きっといつものようにふにゃっと笑っている。
今は抱きしめているから見えないが。
「ゆーじ」
甘い呼びかけに応えて少し腕の力をゆるめた。
見上げてくる彼女の唇に触れるだけのキスを落とす。
「もっと」
不満げな催促。
本当にもうどうしてくれよう、この小悪魔。
やさしくしたらしたでこれだ。さじ加減が難しい。
だが嫌ではない。
こうしてちゃんと向き合って、意思を確認し合って、その上で抱き合うのがきっと一番気持ちが良い。
「……覚悟しとけ」
言葉とは裏腹なやさしいキスに、蛍斗がにっこり微笑んだ。
どうやら今日はもう海で遊ぶのは無理そうだった。