01.彼女は彼氏に襲われたい。
夏だ。
照りつける太陽の下、出歩くという選択肢は最初から消えていた。
蛍斗が「デートしよーぜ」と言ったので悠士も軽く「おう」と返したのだが、この炎天下を歩き回るのは自殺行為だ。
悠士は蛍斗の家に来るだけでかなり体力を奪われた。
「ごめんなさいね、あの子まだ寝てるわ」
そして蛍斗の母親の言葉で一層疲れた気がした。
思わず怒りマークが浮かんだ悠士を誰が責められるだろう。
「ちょっと出かけなきゃいけなくて、あ、お昼はこれで好きなもの食べてね」
蛍斗の母親は悠士にお金を渡してそそくさと出かけてしまった。
つまり早くても昼までに帰って来ることはないわけで、気を使われたのかそうでないのか判断に悩むところだ。
悠士はとりあえず蛍斗の部屋へ向かった。
扉をノックしても応答がない。
「蛍斗?」
一応女の子の部屋だという意識が頭を過ぎるが、女の子である前に蛍斗だ。
悠士の親友で、今は恋人ということになっている。ついでに今日出かける約束もしている。それを忘れて寝過ごした蛍斗が悪い、と結論付け、悠士は扉を開けた。
窓際のベッドの上、こちらに背を向けるようにして少女が横たわっている。すたすたと、悠士は無遠慮に近づいた。
うつ伏せに眠る蛍斗の上から覆い被さるようにして、その耳元で囁く。
「蛍斗、起きろ」
「ん……」
少しの反応を見せるが起きる気配はない。それどころかタオルケットの中に潜り込もうとするので奪い取った。
「いつまで寝てんだよ」
むき出しの肩を揺らす。
蛍斗が対面で抱き合うことを好むから、こうして後ろ姿をじっくり拝む機会は少ない。
せっかくだからと背中のあちらこちらに吸い付いて痕を残してみた。
「んん……っ」
もぞもぞと蛍斗が動く。逃げたかったのかもしれないが、背中を丸めたら余計に悠士の餌食だ。
パジャマ代わりのキャミソールはただでさえ防壁として役立たずだった。
普段着は男だった頃のものをそのまま着ている蛍斗だが、たまに女性用の衣類も身に着けている。女の身体にはそちらの方が合うようにできているのだからおかしくはない。夏場はタンクトップよりも涼しくていいとキャミソールを好んでいる。
頼りない下着――と言って差し支えないだろう――を少し引っ張って、背筋をつうっ、と舐め上げた。
「ふぁっ、え、あ、え、ゆーじ?」
(ようやくお目覚めか)
蛍斗が背後の悠士を振り返ろうとして、その細くやわらかい毛がふわふわと揺れた。
「なにしてんの?」
「味見」
「わっ、それくすぐったい」
うなじへのキスに、蛍斗は首を竦めた。
「出かけるんじゃないのか?」
「寝込み襲うとか卑怯だぞ」
「寝過ごして文句言うな」
「う、ちゃんと起きたし」
「……ベッドでしっかり寝てたじゃないか」
「や、だから一回起きて、まだ時間あったからまた寝ちゃった、みたいな?」
あはは、と笑って誤魔化そうとするので額を小突いた。
「あいたっ」
「一回起きたんならちゃんと起きとけ」
「だってさぁ」
「だって?」
「……早く目ぇ覚めちゃったから」
「……」
遠足前の小学生か、とツッコむのは止めておいた。
暗に楽しみにしていたと言われて悪い気はしない。
「汗かいてる。そんなに外熱い?」
「軽く死ねる」
「うげー、萎えること言うなよ」
蛍斗の部屋は冷房が効いて涼しかった。
あまりに暑そうに見えたのか、くっつかれて自分が暑かったのか、蛍斗がむくりと起き出して飲み物を持ってきてくれた。
「ほれ」
「サンキュ」
ベッドを背もたれにして座りなおす。蛍斗も悠士の隣に腰を下ろすかと思いきや、床ではなくベッドに腰かけた。冷たいジュースで喉の渇きを潤し、一息吐いた悠士は改めて蛍斗に目を向けた。
相変わらず慎みは行方不明らしい。
淡いラベンダー色のキャミソール一枚、胸元のラインがくっきりと谷間を強調しており、全体的に透けている。涼しげではあるが、やはりどう見ても下着だった。その胸を覆い隠すべき本来の下着を着けていない分、それ一枚では外出に不適切と判断せざるを得ない。
白いショートパンツからは悩ましい太腿が伸びる。布面積はボクサータイプの下着とそう変わらないように思えた。こちらは不適切とまではいかないが、それにしても男の視線は否応なく集めるだろう。蛍斗は無意味に見られることを鬱陶しがっていたはずだが。
「それで出かけるつもりか?」
「まっさかぁ」
悠士の渋い顔とは対照的に、蛍斗はけらけらと楽しそうだ。それは悠士の理性を揺さぶったあの頃の表情に似ている。
「誘ってんのか」
「あ、分かった?」
「……」
「お前以外に襲われても困るしなぁ?」
小首を傾げてそんなことを言う。
蛍斗の父親にとっては待望の長男だったはずだが、子どもの自主性を重んじた結果息子は娘になり、それを下手に惜しもうものなら他の女性陣が黙っていないという四面楚歌の状態だ。仮にこの姿の元息子と出くわした場合、恐らく父親は泣くだろう。
ちなみに蛍斗には姉が二人いる。通っている大学の近くに部屋を借りているそうで、悠士は会ったことがない。今日蛍斗の母親はその娘たちと買い物に行っているらしい。
「お前には襲ってもらわないと困るし」
「……なんで襲われる選択肢しかないんだ、お前は」
どうしてそこで本気できょとんとするのか、悠士には分からない。世の男女は何も襲うか襲われるかだけではないはずだ。
「まぁ俺が襲ってもいいんだけど。だってさぁ、俺とお前でそういう雰囲気作れる?」
「……」
確かにそう言われると自信はなかった。
付き合いはじめて、というか初体験からおよそ二週間。その間今日に至るまで悠士と蛍斗は健全すぎるお付き合いをしていた。なんのことはない、二人っきりでゆっくりする時間がなかったのだ。
悠士を落とすことにかまけていた蛍斗の期末テストの結果は散々だった。いつもなら悠士と一緒にお勉強に励むはずの時間にキスを仕掛けていたのだから、当然と言えば当然の結果だ。夏休みを補習で潰すという悪夢を振り払うべく、死ぬ気で追試をクリアした。
ちなみに悠士は一教科たりとも落としていない。そもそも授業を聞いているだけでそれなりに点数は稼げるものだ。授業中に寝ていた蛍斗が赤点だったのは自業自得以外の何物でもない。それでも、蛍斗が勉強に集中していないことを分かっていながら彼女の誘惑に抵抗しきれなかったのは悠士の責任だった。
当然追試クリアのための面倒は悠士が見てやったので、二人っきりで会わなかったわけではない。ただしその時の二人は家庭教師と教え子でしかなかったが。その甲斐あって蛍斗は無事に追試をクリアし、めでたく夏休みを満喫できる運びとなった。多少解放感に浮かれても罰は当たらないはずだ。
しかしその弊害と言うべきか、一度時間を置いてしまうと本来親友同士である二人の間の空気がどうにもこうにも甘くならない。今から色っぽいことをしましょうという雰囲気にならない。それはそれで心地良く嫌なわけではないが、せっかくの夏休み初日、親は出かけていて彼女は据え膳という完璧なお膳立てをフイにするのはもったいなさすぎる。
「寝込みを襲ったら文句言われたが」
「だからお前以外に襲われるのは困るんだって。寝起きは相手が誰だかすぐ分かんないからちょっと焦る」
「そりゃ悪かった」
悠士は素直に謝った。
「起きたからもう襲っていいんだな」
「ぅわっ」
シーツの上にあった細い手首を掴んで引っ張れば、蛍斗が手の中に落ちてきた。
「あっぶねー」
ちょっとした浮遊感が怖かったらしい。悠士の太腿の上に横抱きにされた蛍斗の声には非難の色がうっすら滲んでいたが、すぐに霧散した。文句を言うべく上向いた蛍斗の唇を悠士が奪ったからだ。
追試のための勉強会の最中に「キスくらいいいじゃんか」と文句を言う蛍斗にそれを許さなかったのは悠士だ。キスくらいと言うが、それにかまけて追試を食らった奴が言っていいセリフではない。
さらに言えば、キスくらい、ではない。キスの先をすでに知ってしまった以上、キスだけで止めるという方が難しい。
悠士の理性の糸は自分で思うほど太くなかった。それを学習できたのは他ならぬ蛍斗のおかげだ。絶対に手を出さないつもりでいた彼女に手を出してしまったことで、悠士は自分の理性を信用しないことにした。もちろん蛍斗の理性も信用していない。そもそも蛍斗は本能で生きているような感じだが。
そんなわけで、どんな形であれ蛍斗に触れることを控えていた悠士はひどく飢えていた。そしてそれは蛍斗も同じだった。
キスの合間にうっすらと目を開けると、眼前に悠士の顔がどんと見える。
(くそ、かっこいいな……)
別に女になったからとか、恋人になったからとか、そういうフィルターがかかっているわけではない。なんなら男だった時からちょくちょく思っていたことだ。
どうしたって「かわいい」としか評されなかった蛍斗とは違い、悠士は大抵「かっこいい」か「男前」という評価をもらう。悠士へのやっかみには「こいつモテやがって」という嫉妬と「その男らしさを分けてくれ」という羨望が入り交じる。今となっては男らしさを分けてもらっても持て余すしかないので後者の気持ちは薄れたが、その分「ああこいつかっこいいんだなぁ」という素直な気持ちが膨らむ。そういう意味では女になったから、というのも間違いではないかもしれない。
その悠士とキスしている、というのはなんだか不思議な感じもするが、独り占めできる状況はむしろ大歓迎だ。
悠士の舌は器用に動き回る。まるで違う生き物みたいだ。
背筋がぞくぞくする。身体の内側に火が点る。それが快感なのだと、蛍斗は他ならぬ悠士に教えられた。
蛍斗も一応わきまえていて、外に出る時は露出を控える。男だった頃の自分が思わず見てしまっただろう服装はアウトだ。その代わりに室内では惜しげもなくいろいろ露わにしている。男っ気のないこの家では誰も気にしないし、母親などはむしろ露出度の高い服を娘に勧めて「せっかくの彼氏を逃すな」と言ってくるほどだった。この格好も彼氏のお出迎えにふさわしい装いを心がけたつもりだ。玄関で見せつけて驚かせる予定だったのだが睡魔に負けた。
楽しみだったのだ。そりゃあもう楽しみだった。
追試が決定した蛍斗に向かって悠士がにこりともせずに「今耐えるのと夏休み中我慢するのとどっちがいい?」などと言うから、先に我慢する方を選んだ。悠士の言う「夏休み中」はまさしく夏休み全部だ。たとえ補習のない日であっても悠士は蛍斗と遊んではくれないだろう。蛍斗に対するアメとムチを心得ている悠士はやると言ったらやる。
そうしてなんとか追試をクリアし、その解放感から勢いで「待ちに待った夏休みだ! 遊ぶぞ! デートだ!」と悠士を誘ったものの、はたと冷静に考えてみたらとんでもなく恥ずかしくなった。
――悠士とデート。
とんでもない字面だ。今更すぎる羞恥心に襲われた。
蛍斗はデートをしたことがない。妄想デートなら数多の女の子と以下略。もちろん自分が女の子側で考えてみたことなどない。デートとは言ってみたものの悠士からの返事が「おう」と軽かったから、自分だけ気合を入れるのもどうなのだろうとか、とかとかとか。
テンパった蛍斗は一周回って「よし、悠士に襲わせる」という謎の落ち着きどころを見つけた。露出度の高い服で出迎えて、そのまま部屋に引っ張り込んでという算段だったのだが、まぁ多少の手違いはあったものの結果オーライである。
人生初の恋人という存在に、蛍斗は盛大に浮かれていた。
たとえそれが親友であっても、いや親友だからこそ、蛍斗の理想という名の妄想を実現できるのだ。自分の立場が変わった分調整しなければならないが、悠士相手に今更何を遠慮することがあるだろう。
この短絡的思考が蛍斗の蛍斗たる所以である。
自分が女になった分の調整が必要だと分かるなら、同時にすべての妄想上のプランに修正がかかることも分かるはずだ。なぜなら、蛍斗の妄想は「自分が女の子としてみたいデートプラン」であって「女(元男)が喜ぶデートプラン」でも「男と行きたいデートプラン」でもない。自分で自分の考えたプランを体験してダメ出しするという、なんとも自虐的な結末が目に見える。
幸い夏休みは長い。デートらしいデートはいつでもできる。まずは二週間の禁欲生活の方をなんとかするべし、と蛍斗は考えた。