巨乳妻と記念日。
悠士がそのうち「ちゃんとしたい」と言っていた指輪と結婚式のお話です。
毎年結婚記念日は二人で過ごす、と二人で決めた。
子どもは蛍斗の母親が快く預かってくれる。
一年に一度だけ、親から夫婦に戻るのだ。
悠士から結婚指輪を贈られたのは、五回目の記念日のことだ。
「まぁ、無難なものなんだが」
そうは言っても、入籍当時に買った指輪とは桁が違うはずだ。
アクセサリーにはあまり興味もこだわりもない蛍斗だが、結婚指輪だけは別物だ。
大学を卒業してその年の四月から働き出した悠士は、初任給でそれぞれの家族と食事をした。まずはこれまでの感謝を、というのが悠士らしい。その後家計をやりくりして、もしくははじめての賞与で用意してくれたのだろう。
一つだけ不満があるとすれば。
「一緒に選びたかった」
「そう言うとは思ったんだが。俺が選んで、贈りたかった」
照れくさそうに悠士は言った。
それは嬉しい。選んでくれた指輪が気に入らないわけでもない。
きっと一緒に買いに行ったら、蛍斗の主張が通って、悠士の意見はほとんど言葉にも上らなかったに違いない。
それでも、蛍斗のために悩みながら指輪を選ぶ悠士が見たかった。蛍斗も悠士のために指輪を選びたかった。
素直に喜んでいればいいものを、我がままで甘ったれな一面がすぐに顔を覗かせる。
かわいくないとは思われたくない。だから欲張りすぎてはいけないと思うのだが、なかなか自制できない。
蛍斗は悠士にぎゅう、と抱き着いた。
「蛍斗?」
「見るな」
悠士の胸に顔を埋めて、蛍斗は不満の表情を隠した。
すぐに切り替えるから、少しだけ待ってほしい。
悠士が蛍斗を抱きしめ返して、頭を撫でた。
「かわいい」
「嘘」
「なんで」
「……」
「かわいいったらかわいい」
「……ほんと?」
「ほんと」
「我がままで、甘ったれでも?」
悠士が噴き出した。
「自覚あるのか」
「あるからやなの」
自覚するようになったのは、悠士と付き合うようになってからだ。
悠士にどう思われているか、気にするようになったからだ。
嫌われたくないと、好かれていたいと、意識してしまうからだ。
ただでさえ元男であるというハンデがあるのだ。悠士はそれをむしろアドバンテージだと言ってくれるが、普段の蛍斗もそのことについてくよくよ考えたりはしないが、ふとした拍子に考えてしまう。
親になって、子どもの我がままや甘えを諫める立場になって、余計に自分のそうした一面が気になるようになった。
「俺は嫌いじゃないよ。我がままなお前も、甘ったれなお前も」
「……物好きめ」
「はいはい、言ってろ。なんだかんだ最近のお前は物分かり良いからさ」
「そう?」
「悠斗のこととか俺のこととか、自分より優先してくれてる」
「そりゃあ……するよ」
それだけ大事な人たちだ。
蛍斗だって大人になっているのだ。自分のことだけでいっぱいいっぱいだった頃より、少しは成長していると思いたい。
「それが嬉しくて、少し寂しい」
「へ」
「我がままなのはお互い様ってこと」
「……欲張り?」
「そ」
相手の全部が欲しいと思う。変わるものも変わらないものも、すべて。同時には得られないものも、すべて。どちらか一方ではなく、どちらも欲しい。
盲目的ではないが、これもまた恋だろう。
蛍斗は悠士に、悠士は蛍斗に、恋をしている。
顔を上げた蛍斗の鼻先にちょん、と悠士がキスをした。
「二人だけの時は、我慢しなくていい」
そんなに蛍斗を甘やかしてどうしようと言うのだろう。
蛍斗はどういう顔をしていいか分からず、悠士の首に齧り付いた。そんな蛍斗を、悠士はどっしりと受け止めた。本当に揺るぎない男だ。
「あのね、嬉しいの」
「ああ」
「でも、寂しいの」
「ああ」
「俺の知らない悠士がいるのは嫌」
「そうか」
「一緒がいいの」
「ごめんな」
蛍斗はぶんぶんとかぶりを振った。
「謝んないで。嬉しいんだってば」
「ん」
「悠士が、俺だけのために、一人で選んでくれたから、すごく嬉しい」
「お前のことだけ考えたよ」
「うん」
蛍斗はふにゃり、と微笑んだ。
蛍斗の左手を取って、悠士が薬指にキスを落とした。
今そこに填めている指輪は二人で選んだ。シンプルなシルバーリングだ。
「これ、どうしよう」
重ねて填めてもいいが、取って代わるものだ。あくまで代わりの、だが五年間役目を果たしてくれたもの。決して要らないものではない。
「飾っとくか」
「じゃあ写真のとこだね」
リビングの一角に写真を飾っている。結婚した時の記念写真と悠斗が生まれた時の家族写真は額に入れて、それ以外はデジタルフォトフレームで再生している。
ぱっと目に付くところにはできるだけ蛍斗が男だった形跡は残さない。だがよく目を凝らせば至るところに隠れている。
蛍斗が男だったという過去は、気心の知れた身内や友人たちだけでひっそりと楽しむものになっていた。
十八歳の二人が寄り添う写真の前に、二つの指輪を並べて置く。
五年後の二人も寄り添って、お互いに恋をしている。
じゃあ、と悠士が蛍斗の左手の薬指に新しい指輪を填め、蛍斗も悠士の指に填めて。
「これからも、よろしく」
誓いのキスをもう一度。
深まるキスの合間に、蛍斗は囁いた。
「悠士」
「うん」
「大好き」
「ああ」
「愛してる」
悠士は少しびっくりしたように目を見張って、だがすぐに笑った。
「やっと言ったな」
とても嬉しそうに笑った。
「ほんとはずっと言いたかったよ」
「知ってる」
自分のことと同じくらい、悠士や悠斗のことを考えるようになった。
自分のことを考える分は減ったけれども、蛍斗のことは悠士が考えてくれるから構わない。
だから、蛍斗は思うのだ。
「俺ね、悠士の赤ちゃん欲しいの」
もう、悠士を取られる、と不安になることはない。
悠士と一緒に子どもを愛していきたいと思う。家族が増えたら、その分しあわせも上乗せだ。
悠斗を出産した直後は、あまりにも痛かったので「二度と産まない!」と思った。元来思いつめるような性格ではないことと、協力的な家族のおかげで育児ノイローゼになるようなことはなかったが、乳児の世話も大変だった。
それでも、悠斗が幼稚園に通いはじめると、蛍斗は漠然とした寂しさを抱えた。
命を生み出すのは大変なことだ。命を育てるのも大変なことだ。だが、十分すぎる報いがある。後天的な女性である蛍斗にも、母性というものはあったらしい。
「じゃあがんばらないとな」
もちろん悠士は蛍斗のおねだりに応えてくれる。
「いっぱい、愛し合おう」
強く抱きしめられて、蛍斗は胸いっぱいのしあわせに酔いしれた。
残念ながらその時には妊娠しなかったが、年が明けてから蛍斗は妊娠した。恐らく正月休みにがんばったおかげだろう。出産予定日は十月だった。
「双子!」
なんと、多胎妊娠だった。
「今度は名前、お義母さんたちに付けてもらおうね」
新しい家族が、愛すべき家族が増える。
蛍斗の想像を超える形で、いつもしあわせはやって来る。
一人目の時は、何かを考える余裕はなかった。陣痛の波に翻弄されて、ひたすら悠士の手に縋って声を上げた。めちゃくちゃ痛かった、ということしか記憶に残らなかった。
もちろん二度目の出産も非常に痛かったのだが、不思議と心持ちが少し穏やかだった。
新しい命が誕生するということは奇跡的なことなのだと、改めて思う。
蛍斗は"クマノミ"だ。本来であれば陣痛を味わう立場ではない。自分で命を生み出すことなどできなかった。女にならなければ、それは経験できなかったことだ。
痛いのは嫌だ。辛いのも、大変なのも好きではない。でも、蛍斗の手をしっかりと握って、少しでも痛みを共有しようと、分かち合おうとしてくれる人の子どもを産むことができるのは、他でもなくそれが自分の特権であるのは、なんてしあわせなことなのか。
蛍斗は泣いた。痛みだけでなく、しあわせで。
――女になってよかった。
心から、そう思った。
悠士を選んだことはもちろん、悠士に愛されて、悠士の子どもが産める女になったこともファインプレイだった。
十回目の結婚記念日はいつもと違って二人きりではなかった。
その日に、蛍斗と悠士は結婚式を挙げた。
「おかあさん!」
「お、ほたも準備できたかー? かわいくしてもらったなあ」
「おかあさん、きれいだね」
「ありがと。つーは?」
「つー兄はねぇ、恥ずかしがってるの」
「ふは、そっか。男の子だもんな」
三歳の双子は、男女ということもあるのか、あまり似ていない。
男のつかさの方がどちらかと言えばおとなしくて慎重だ。女のほたるは活発で行動派である。どちらがどちらに似たかは言うまでもない。
「つーもおいで?」
おいでおいでをすると、おずおずとつかさが姿を見せた。ほたる同様しっかりおめかしが決まっている。
双子には、ベールの裾を持つという大役があるのだ。
式自体はこぢんまりとしたものだ。どちらかと言えばその後予定されている披露宴の方がメインに近い。
すでに付けている結婚指輪を外してもう一度指輪交換、というのもなんだかおかしい気がして、式から省いた。そんな感じであれもこれも、と省いていったら結婚式ですることがほとんどなくなってしまった。
それでも、今更だと思いつつも式を挙げることにしたのは、しあわせだと伝えたい人たちがいたからだ。
控室から移動した蛍斗を、式場の入り口で蛍斗の父親が待っていた。
花婿は中で待っている。花嫁は父親の腕を借りて入場するのだ。
ウエディングドレスを身に纏う蛍斗の姿を、父親は眩しそうに見つめた。
「父さん」
「なんだい?」
「俺ね、女になってよかったよ」
笑いかけると、父親が目を丸くした。
――いつかお前が、心から「女になってよかった」と言える日が来ることを願っているよ。
そう言って、父親は蛍斗と悠士の結婚を許してくれた。
その日は実はもっと前に来ていたのだが、なかなか面と向かって父親にそうと言える場面がなかった。多忙な父親にも、そして双子の世話にかかりきりの蛍斗にも、ゆっくりした時間を取る余裕はあまりないのだ。こんな日でもない限り。
――お前は、悠士くんをしあわせにできるか?
父親は、蛍斗にそう問いかけた。ただ「しあわせになりなさい」ではなく。
そして蛍斗は答えたのだ。
――二人でしあわせになるよ。
蛍斗は疑いようもなくしあわせだ。きっと悠士も。
言葉で言うのは簡単だが、口だけにもなってしまいかねない。
見てもらった方が早いこともあるのだ。
式場の扉が開く。
道の先で待つ悠士をまっすぐに見つめて、蛍斗はしあわせそうに笑った。
義父とともに入場してくる花嫁の姿を、悠士はじっと見つめた。
蛍斗が化粧をしているのは珍しい。一応蛍斗の母親から一通り教わったらしいが、自分からしているところは見たことがない。
化粧をせずに人前に出ることを恥ずかしがる感性が悠士には理解できない。職場にも化粧の濃い女性や香水の匂いをまき散らす女性がいる。身なりを整えるという意味合いや美しく飾りたいという欲求は理解できないものではないが、まるで違う顔に仕上げるのはいかがなものなのか。それはもう自分を偽る仮面ではないのか。その辺りは蛍斗も同じ感覚らしく、必要に迫られなければしない、という方向性でいるようだ。
女心を分かっていないと言われたらその通りなので反論はできない。蛍斗の妻が元男でよかったと思う。もちろんそれに甘んじていいとは思わないが、話が通じるのはありがたい。
きれいだ、と思う。
きれいに結われた髪も、長い睫も、紅い唇も。特別な装いにふさわしく飾られた妻は美しい。いつもと違う姿にどきりとする。
でも、と思ってしまうのは、きっと悠士が朴念仁だからだ。
蛍斗を一番美しく見せるのは、整えられた美ではない。もちろんどちらも彼女である以上悠士の心は動くのだが、化粧などされたら、味わいにくくなる。余計な味付けはいらない。
人前での自制を促す防壁としては非常に有用かもしれない、などと埒もないことを考えているうちに、蛍斗は義父の腕を離れ、そして悠士の隣まで来た。
手を重ねて、列席者の方を向く。
誓いの言葉ではなく、感謝の言葉を。
お互いに向けての誓いは十年前にも五年前にも行なった。そう何度も重ねがけするものではない気がして、列席者に二人の誓いの証人になってもらうのではなく、列席者への感謝を述べる機会にさせてもらうことにした。
他人が決めた枠に収まらなくても、他人が決めた形に沿わなくても、自分たちらしくしあわせに。
これからも悠士と蛍斗は、そして子どもたちは、そうやって生きていく。
予定にはなかった誓いのキスを実行してしまったのは、花嫁がきれいだったからということにしておいてほしい。




