巨乳妻と恋の話。
蛍斗の両親の馴れ初めのお話です。
「この型でよかったの?」
「この型がよかったの。よかったー、入って。おかしくない?」
「よく似合っているわ」
十年前と同じ型のドレスに身を包み、蛍斗はほっと胸を撫で下ろした。
採寸したから入らないわけはないのだが、子どもを三人産んでいるのだ。体型が変わってしまっていたらと不安だったが、どうやら見苦しいことにはなっていないようだった。
週末には蛍斗と悠士の結婚式が予定されている。
十年経てばドレスの型の流行りも移ろうが、蛍斗にしてみれば同じ型であることに意味がある。
ちゃんとした指輪は五回目、悠士が就職した年の結婚記念日にもらった。その後双子が生まれ、なんやかんやと物入りだったり忙しかったりしてなかなか式を挙げられなかったのだが、十回目の結婚記念日にようやく叶う。
蛍斗としては別にどうしてもしたかったわけではないのだが、悠士は約束を守る男だ。やると言ったらやる。お世話になった人たちに「ちゃんとしあわせです」と伝える機会にもなる。
十年前の時は借り物だったドレスと同じ型のドレスを、蛍斗の母親が縫ってくれた。今日実家を訪れたのはその最終調整のためだ。
ドレスを縫う、というのがとんでもないことだというのは素人でも分かる。
蛍斗の母親はスーパー専業主婦だと思う。主婦歴十年になる蛍斗だが、とても真似できないし敵わない。
「洋裁って言うんだっけ? 習ったの?」
「いいえ」
家事という家事を完璧にこなす母親のすごさを、自分も主婦となり、母となった今だからこそ痛感している。娘の結婚式にドレスを仕立てる、なんて真似は、たとえ十年時間をもらっても蛍斗にはできないことだ。
「懐かしいわね」
「それは十年前のこと? それとも母さんたちの結婚式のこと?」
「どちらもよ。私たちの結婚式も内輪だけで済ましちゃったから」
「そう言えば母さんたちの馴れ初めってちゃんと聞いたことないや」
「話すほどのこともないわよ?」
「えー、でもよく考えたら不思議っちゃ不思議」
蛍斗の母親はおっとりした美人で、しかもスーパー専業主婦だ。一方の父親はうだつの上がらないサラリーマン、という感じである。
「出会いは?」
「あら、あなたも恋の話が好きになったのね」
「まーね」
「ドレスは問題ないみたいね。それじゃあ、着替えたらお茶でも飲みながら話しましょうか」
「はーい」
蛍斗の母親――友里恵は、何から話そうかしら、と微笑んだ。
自慢ではないが、友里恵は非常にモテた。
ふわふわと愛らしい容姿と、軽妙洒脱な言動が男心をくすぐる。
だが、友里恵が付き合っている男性にある一言を言うと、決まって男たちは離れていく。フラれてしまう。
次の男はすぐ見つかるのだが、おかげで友里恵はとても早いサイクルで彼氏を変える、遊んでいる女だと思われている。
男漁りには違いない。求めているのはたった一人なのだが、これがなかなか見つからない。
だから友里恵は今日も誘われるままに合コンに参加していた。
当たりっぽい男はいない。
友里恵の正面に座っているのは、明らかに数合わせで連れて来られたと思しき地味で冴えない男。
真面目そうだが、シャツの襟はよれっとしている。
(気になる)
アイロンを当ててぴしっとした襟元なら、それだけで印象は変わるのに。
もったいない。もどかしい。
男は理工学部では有名な「奇才」らしい。頭の出来はすこぶる良いが、生活能力が著しく低いのだとか。今日も、しばらくまともにごはんを食べていないというので心配した友人に連れて来られたらしい。数合わせですらない、まさかの食事目当てだった。
「友里恵ー? さっきから奇才くんのことじっと見てどうしたの?」
「まさか今日は奇才くん狙い? 似合わないーっ」
「え、あ、そうじゃなくて」
「僕の顔、何か付いてます?」
友里恵の視線に男も気づいていたようだ。話しかけられた友里恵は思わずぽろっと口を滑らせた。
「アイロン、持ってます?」
「へ?」
「すみません、気になって」
「ああ、いや、こちらこそすみません。そういうところ気が回らなくて」
人前で指摘されて気まずいだろうに、男は逆に謝った。
「友里恵はこう見えて家事好きだもんね」
どう見えているのかは知らないが、少なくとも家庭的には見えていないらしい。
「そうなんですか。すごいですね」
男があまりにも無邪気に尊敬の眼差しを向けてきたから、友里恵はまたしても口を滑らせた。
「私、専業主婦になりたいんです」
男はぽかんとした。
(ああ、やっぱり)
友里恵がその言葉を言うと、男はみんな引いてしまう。
現代は共働き社会だ。専業主婦という言葉は、働きもしないでのうのうと男に寄生して生きたいという女の甘えだと言われるぐらいだ。
友里恵がなりたいのは、そんなものではないのに。
「いいですねー」
しかし、男はすぐににこにこと相好を崩した。
「僕、家事が全然だめなんです。大学のために一人暮らしなんですけど、もう追いつかなくて」
たはは、と男は頭を掻いた。
「男が働いて、女が家を守る。時代錯誤だって言う人もいるけど、場合によっては適材適所ですよねぇ」
今度は友里恵がぽかんとする番だった。
「僕は家事ができないけどがんばって働くし、家で奥さんが家事をしながら帰りを待っててくれたらいいなぁと思うんです。そういう人とお付き合いできたら嬉しいなぁ」
「じゃあ付き合ってください」
友里恵は三度口を滑らせた。
「はい。……ん? え?」
「私とお付き合いしてください」
合コンの席は一瞬で騒然となった。
友里恵は半ば自棄だった。友人の前での放言は手痛い。だが言ってしまったものは仕方がない。そして、もしかしたらこの男は友里恵が求めていた"たった一人"かもしれない。
狙いを定めた獲物を逃すほど、友里恵はおっとりしていない。
「えーと、あれぇ?」
男は、訳が分からないという顔をして首を捻った。
「あのー、ほんとにひどいですよ?」
その日友里恵ははじめてお持ち帰りされた。付き合った男性の数は多いが、会ったその日に相手の家に行ったことはさすがにない。それでも友里恵が彼の家に行きたいと思ったのは、その惨状を見てみたかったからだ。
「ほんとにほんとにひどいですよ?」
男はしつこいぐらいに友里恵に念押しして扉を開けた。
結論から言えば、中の様子は友里恵の想像を超えていた。ごみ屋敷、という言葉が思わず口から飛び出そうになった。
「やっぱりひどいですよねー」
「ひどすぎます」
「うっ」
「燃えます」
「えっ、燃えちゃいます!?」
「違います」
「はい?」
「すごく、片付け甲斐がありそうです」
気合いを入れた友里恵を見て、男は「変わってますね」と失礼な感想を呟いた。男にだけは言われたくないセリフだった。
もちろんそんな惨状で色っぽい雰囲気になるわけもなく、終電より前に友里恵は自宅に帰った。その代わり次の日から日参して男の家を掃除した。
友里恵より一つ年上で、大学四年だと言う男――有賀 誠一郎と言うらしい――はすでに就職の内定をもらっており、四年間住んだ部屋から引っ越すつもりでいたらしい。こんな状態を大家に見せたら清掃費としていくら取られるか分かったものではない。
大学帰りに一週間通い詰めて、どうにか部屋は見られる状態になった。
誠一郎は手放しで友里恵を褒めた。片付いた部屋に感動し、友里恵の手料理に感激した。
「ずっと外食か出来合いのものを食べていたんですか」
「いやー、最初は料理しようと思ったんですが、あれ実験みたいでしょ? なんかごはん食べるどころじゃなくなっちゃって」
一つのことに夢中になったら他を忘れてしまう、子どもみたいな人。かと思えば「適材適所」と言って友里恵の願望を叶えてくれそうな、ちゃんとした大人だ。
友里恵は働きたくないわけではない。むしろ働き者の部類だろう。ただ、誰のために働くかという部分が問題だ。
ハウスキーピングを仕事にしたいわけではない。
好きだからこそ尽くしたいと思う。だが、今までは全部逃げられた。
最初は友里恵の手料理を喜んで、家庭的だと褒めて、そしてそのうち重い、と言うのだ。男に頼らないと生きていけない女というレッテルを貼られるのだ。
この人は、どうだろう。この先、やはりいつか友里恵のことを重いと言うのだろうか。
好きになった人ではないが、友里恵を否定しない人だ。友里恵を必要としてくれる人だ。
たまごが先か鶏が先か。そんなことは分からないけれども、放っておけないから、きっと嫌いではない。尽くしたいと思うようになったら、きっと好きになる。
「友里恵さんは魔法使いみたいですねぇ」
「それを言うなら、あなたの方が近いでしょう」
友里恵は家事しかできないが、誠一郎は奇才と言われるぐらい頭が良い。友里恵にはさっぱり分からない数式を解き、文献を読み、機械を触っている。
友里恵の動かなくなった時計をあっという間に直してしまった。
友里恵が壊したパソコンから無事にデータを救出してくれた。
誠一郎こそ、友里恵にとっては魔法使いだ。
「一度あなたの頭の中が見てみたいです」
「あ、僕も友里恵さんの脳を研究してみたい! いいデータが取れそうです」
「……」
時計のねじより自分の頭のねじをちゃんと回してほしい、と思うこともあるのだが。
誠一郎が大学を卒業するまでの数か月、友里恵は誠一郎の部屋に通った。
同棲はしていない。それどころか誠一郎は指一本友里恵に触れていない。だが友里恵は誠一郎の部屋のほとんどを知り尽くしていた。部屋の一角にある機械類は恐ろしくて手を付けていないが、それ以外のところはすべて友里恵が整理整頓し、掃除し、ぴかぴかに磨いた。
三月に、誠一郎は就職する会社に通いやすい部屋に引っ越した。
「あの、友里恵さん」
「はい?」
「えっと、あのですね」
「はい」
「その、遠く、なるんですけど」
「はい」
「また、来てくれますか」
「泊まってもいいですか」
「え」
「遠いんですよね」
「え、と……はい」
「じゃあ、行きます」
誠一郎が引っ越した後も、友里恵は週に一度のペースで誠一郎の部屋に通った。
数回泊まりもした。それでも誠一郎は友里恵に触れようとしなかった。
「誠一郎さん」
「はい?」
「私たち、お付き合いしてますよね?」
「えっ」
「私、家政婦じゃ、ないですよね」
どうしても聞いておきたかった。必要とされる理由を確認したかった。ただ必要とされるだけでは満足できなくなった。
家事能力だけを見込まれて、都合の良い女だと思われていたら、それは悲しい。
「違います!」
誠一郎はめいっぱい否定した。
「もちろん友里恵さんのおかげで僕はとても快適に暮らせていますけど、あの、友里恵さんに来てほしいと思ったのはそのためじゃありません。ただ、その、一緒に、あの、いたくて」
「じゃあどうして何もしないんですか」
「え!?」
友里恵がずいっと身体を乗り出すと、誠一郎はぐいっと仰け反った。
「私じゃ、そんな気になりませんか」
「違います!」
誠一郎はまためいっぱい否定した。
「あ、あの、えと、す、すみません。慣れてないんです……ど、どうしたらいいか分からなくて」
「だったら、一緒に慣れましょう」
赤い顔でどもる誠一郎に、友里恵は自分からキスをした。
翌朝、友里恵は誠一郎の部屋のキッチンに立って朝食を作った。友里恵という据え膳を前にしてもなかなか手を出さなかった誠一郎だが、友里恵の作ったごはんはいそいそと食べる。
気持ちの良い食べっぷりを披露した誠一郎は、ごちそうさまをした後ぴしっと背筋を伸ばした。
「友里恵さん!」
「はい」
「あの、毎日、僕のために味噌汁を作ってくれませんか?」
友里恵がアイロンをかけたシャツを着て、友里恵が作ったごはんを食べて、誠一郎は友里恵にプロポーズした。
なんのことはない、友里恵の専業主婦願望を時代錯誤だと笑わなかった誠一郎自身が古風で奥ゆかしい男だったのだ。
「はい」
友里恵はプロポーズを受けた。
たまごが先か鶏が先か、そんなことは分からないけれども、自分から迫るくらい好きになった人だ。好きだから、とことん尽くしたいと思う。
誠一郎は家事ができない代わりにがんばって働き、友里恵は家事をしながら誠一郎の帰りを待つ。
友里恵の夢は、叶ったのだ。
「それで、私が大学を卒業してすぐに結婚したの。私は別に卒業を待たなくてもいいと言ったのだけれど」
「へー。で、新婚旅行で姉ちゃんができたと」
避妊をしなければ一発だった。誠一郎は職場でも奇才ぶりを発揮して多忙を極めたが、そんな中でも三人の子どもに恵まれたのだから、男としては優秀と言っていいだろう。
「でも、それでよく父さん単身赴任したね。惨状再びだったんじゃないの」
「昔みたいで楽しかったわ」
目の前の娘――当時は蛍斗という名の息子だった――が高校一年生の頃、誠一郎は単身赴任になった。新しく起ち上がった部署の基盤作りに駆り出されたのだ。友里恵は付いていかなかった。友里恵がすべきことは家を守り、夫の帰りを待つことだったからだ。
足かけ二年の単身赴任中、息子が娘になったり、その娘が結婚したり、衝撃的なことが多く起きた。誠一郎は一時現実逃避しかけたが、最終的には「適材適所」と言ってすべてを受け入れた。
それから十年。
今朝も友里恵は味噌汁を作った。
『やっぱり友里恵さんの味噌汁が一番だ』
そう言って笑う夫のために。
「父さんももうすぐ定年かぁ。熟年離婚とかしないよね?」
「やぁね。何を心配しているの」
「いや、仕事人間に多いって聞くしさ。どうするの?」
「そうねぇ。一緒に旅行とか行ってみたいわね」
今まで夫は外で、友里恵は家で働いてきた。決して疎遠な家庭ではなかったが、夫婦で一緒に行動する時間は決して多くなかった。
これからは、二人の時間をゆっくり楽しんでもいいかもしれない。あるいは。
「孫とたくさん遊ぶのもいいわね?」
「それは願ったりだけど。悠士が気にしぃだからなぁ」
結婚して十年経とうが、三十年経とうが。
今日も変わらず、妻は夫を想って過ごしている。




