03.巨乳女子、親友に迫る。
悠士は深い溜め息を吐いた。
「とりあえずでヤるな、馬鹿」
蛍斗に言わせれば、機会があるのに手を出す気のない悠士は変わった男であるらしい。
「突き詰めれば子作りだ。自分がまだ養われている身分で結婚できる年齢でもないのに、責任持てないことする方がどうかしてる」
むぅ、と口を尖らせる蛍斗を置いて、悠士はさっさと身体を起こそうとした。
「待った!」
「待つか」
「乙女の願いを無下にすんな!」
「誰が乙女だ! お前みたいのは痴女って言うんだ」
「痴女痴女言うなっ!」
「言われたくなきゃそれらしく振る舞え!」
少なくとも悠士の認識では、暗い部屋のベッドの上で男を引き留める女は乙女ではない。
「もー怒ったかんな」
勝手に怒ってろと言おうとして、しかし悠士は重力に逆らえなかった。もう一度蛍斗が力任せに悠士の腕を引っ張ったからだ。
「あぶっ――」
悠士の怒声が響くことはなかった。
再び倒れ込んだ先には蛍斗の身体があり、そして悠士の口は蛍斗の口で塞がれていた。
蛍斗に覆い被さる形で、蛍斗からキスされている。
(なんだこれ)
意味が分からない。
ただ唇が触れているだけの、だが決して偶発的にぶつかったのではない、それは紛れもなくキスだった。
固まったまま身動きができない。
この後どう動いたらいいのか分からない。
至近距離にある蛍斗の顔は、見慣れているはずなのに、見たこともないような――。
どくん、と鼓動が跳ねた。
蛍斗の唇が離れ、彼女と目が合う。
その瞬間、悠士はばっと身体を起こして蛍斗から距離を取った。
たぶん顔は真っ赤だ。電気が点いていなくてよかった。
「~~~っ、だから軽率なことはするなって言ってるだろ!」
「いや、さすがに俺もさぁ、誰でもいいわけじゃないんだよ?」
キスの余韻か、それとも悠士の耳がバグったのか、やけに蛍斗の声が甘く聞こえた。
「お前ならいけそうな気がしたからさぁ」
なぜだろう、全然嬉しくない。
「巻き込むならお前だろ?」
へらっと笑ってそんなことを言う。
危機感がなさすぎる。
こういう状況で下手に男を煽ったらどうなるか、分からないとは言わせない。
「……いきなり発情した理由は何だ」
深呼吸する。
蛍斗のペースに乗せられるのはマズい。
好奇心が望まぬ結果をもたらすこともあると、身をもって学んだはずの蛍斗だ。彼なりの理由があるのだろう。いや、あってほしい。そうでないと悠士の心が休まらない。
悠士が拒むことで、蛍斗が他の男に目を向けたらそれはそれで厄介だ。
「理由? 理由……言ったらヤる?」
「ヤらない。それとこれとは別」
「なんだよケチぃ」
結局、蛍斗は理由を言わなかった。
のらりくらりと核心を避けている間に悠士の親が帰宅して、ベッドの上で問答している場合ではなくなったからだ。
しかしそれで話が終わったわけではなかった。むしろ、はじまりでしかなかった。
――親友に迫られています。どうしたらいいですか。
悠士の目下の悩みだ。
あの日以来、油断すると蛍斗が襲ってくる。
周囲の男からは羨ましがられるが、自分のためにも彼女のためにもうっかり流されるわけにはいかない。
口ではお堅いことを言ったって悠士も若い男だ。身体は反応する。身体が意思を裏切る可能性を否定はできない。
そして蛍斗も、なぜか「ヤらなければならない」という強迫観念に駆られているようだが、それこそ身体だけどうにかしようとしているのが分かるから、悠士はなんとしてでも拒み続けなければならなかった。
これがもし、身体の変化に伴って蛍斗の心が女性化し身近な男を意識するようになった、という状況であれば悠士も拒絶ありきでは考えなかっただろう。しかしそうではない。蛍斗の心までは変化しておらず、悠士を異性として見ているわけでもない。
それでいて迫ってくるから性質が悪い。
なにせ女の子なのだ。見るからに、疑いようもなく。
今でも親友だという認識を変えたつもりはないが、性別が変わった以上対応を変化させざるを得ないのが現実だった。
女性のバストサイズに詳しくない悠士だが、それが一般的に巨乳に相当することぐらいは分かる。
うっかり触ってしまった――あれは事故、あるいは蛍斗の過失であって悠士に非はないはずだ――胸の膨らみは非常にやわらかく、存在感があり、悠士の手に馴染んだ。
かつての同性をその気にさせて子孫を保つための種の選択――生物としては間違っていないだろう。だからと言ってほいほいその気になれるかと言うと、少なくとも悠士はなっていいとは思えなかった。なんだかよく分からないうちに奪われてしまった唇といい、うっかりを積み重ねて流されるのはよろしくない。
慎重派の悠士とは違い、蛍斗は即断即決即実行するタイプだ。反省も適当で、その分後悔もあまりしないようだが、女性としてのはじめて――処女を捧げるというのは文字通り一大事のはずだ。それとも、処女を特別視するのは男、というか悠士の勝手な思い込みでしかないのだろうか。いや、蛍斗は童貞の卒業の仕方にもこだわりがあったようだからあながち間違いではないだろう。
特殊な状況下で何やらおかしな方向へ思考を飛ばした可能性を心配するのは、蛍斗という人物をよく知る親友としては当たり前のことで、しかも今はお目付け役という立場上一緒に馬鹿をやるわけにはいかない。
どうしたものかと悩む悠士の背後から細い腕が伸びてきて首筋に絡みついた。
顎を捕らえられる。誘導された先には、どこか楽しげな表情の蛍斗が待ち構えていた。
唇が触れる。同時にどちらともなく舌を滑り込ませる。すぐに舌が絡み合い、淫靡な音が響いた。
試験勉強のために、というかあまり成績の良くない蛍斗の勉強を見てやるために彼女の部屋にお邪魔したはずだった。
親友とのキスが、すっかり日常になってしまっていた。
おかしい。
分かっていても止められない。誘われたら、拒みきれない。
二度目のキスは、容易に視認できる明るさの中でもたらされた。視界が蛍斗で埋まったところで拒否感も嫌悪感も抱かなかったのが敗因だろうか。押しつけられた身体を離そうとその肩を掴んだところで動きを止めたのがマズかったのだろうか。思った以上に華奢で頼りない体格に愕然としたのだ。男女では肉付きや筋肉量が異なる。力加減を間違えば傷つけてしまうかもしれないという危惧が、悠士の抵抗を鈍くさせた。そうして流されて、今に至る。
伏せられていた蛍斗の双眸が再び開けられ、至近距離で視線が交錯する。
蛍斗はゆるく目を細めて囁いた。
「もっと、さわりたくない?」
瞬間的にこみ上げた衝動を、きつく奥歯を噛んでやり過ごす。
力加減を間違えないように注意しながら蛍斗の肩を押し返し、不満げに唇を尖らせる蛍斗を置いて悠士は部屋の外へ出た。
何を焦っているのか知らないが、どうしても投げやりに見える。
誰でもいいのだと、言われている気がする。ただ近くにいたのが悠士だったというだけで。誰でもいいのなら、悠士ではない他の男で試してくれ、と言いたくなる。
もちろんお目付け役である手前それを許すことはできないのだが。
そんな、誰でもいい役割まで背負わされたくない。
お目付け役だからとか、彼女が他の男の元へふらふら行かないように自分が重石になるなら、などという体のいい言い訳をしながら、本当はただ単にキスがしたいだけなのかもしれなかった。
別段恋人でもなんでもないはずの男女が交わすそれを、愛情表現とは呼べないだろう。
背中に感じた、やわらかい感触。
しっかりと主張する二つの膨らみのやわらかさを、悠士の手は知っている。
(このまま、何も考えずに奪ってしまえたら)
蛍斗の思惑に乗ってしまいたくなるのをぐっと堪える。
キスを許容してしまっている時点で手遅れのような気もするが、少なくとも自分からは求めない。
悠士はそう決意していた、はずだった。
女子として登校するようになって約一か月。
無事、かどうかは分からないがひとまず試験も終わり、後はさぁ来い夏休みという時期である。
蛍斗は相変わらず悠士のそばにいる。それでも変化に多少慣れたのか、周囲との距離は縮まりつつあった。
女性化してから、蛍斗はよく「かわいい」と言われるようになった。いや、実は男だった頃からそれなりに言われていたのだが、男にとっては褒め言葉にならない形容詞だったため聞き流していた。
今も「かわいい」という評価はあまり嬉しくない。特に女子からの「かわいい」はなんだか小馬鹿にされているような気がするのだ。もちろん彼女たちに悪気も他意もないことは分かっているのだが。そして男子からの「かわいい」は、やはりなんとなく下心が感じられて素直に受け取ることができない。
そう言えば、悠士は決して蛍斗を「かわいい」とは言わない。もちろん親友に「かわいい」と連呼するような危ない奴ではないから当然だ。だから別に、気になんかしていなかったのに。
男子たちのくだらない会話の中で、付き合いたい女子についての話題が出た。蛍斗たちが通う学校の女子で付き合えるとしたら誰がいいかという、かつては蛍斗も参加していたよくある人気投票だ。アイドル相手の夢想よりは現実的だが、それでもやはり妄想には違いない。
ちょうど蛍斗たちの席の近くで盛り上がっていて、誰かが言った。
「悠士、お前だったら誰がいい?」
同級生か、上級生か、下級生か。
それぞれ美人だとされる顔ぶれが数人挙げられていて、蛍斗も顔と名前ぐらいは知っていた。
「やっぱ尾崎先輩っしょ」
「いやいや川上のがかわいいって、なぁ悠士?」
「まず顔が分からん」
悠士がこの手の会話に参加することはほとんどないからその反応は当然と言えたが、男子たちはなぜかにやにやと少しいやらしい表情を浮かべた。
「おーおー、相変わらずすかしてんな」
「モテる奴は余裕だねぇ」
「いやいや、悠士にはかーわいいお友だちがいるからさぁ」
そこで視線の一部が蛍斗に向いた。
嫌なからかい方をする、と蛍斗は眉をしかめた。自分も悠士をからかっている――蛍斗としてはわりと真剣な事情ゆえだが――手前言えた義理ではないが。
「別にこいつはかわいくないだろ」
顔色一つ変えず、悠士は揶揄に切り返した。
あまりにもあっさりと。
「いやそれはお前の目どうなってんのって話だぞ」
呆れたように言われても動じない。
「どうせ妄想するなら夢はでかく持て」
「ほっとけ!」
「これだから妄想の必要がない奴は!」
男子たちのくだらない会話が続く横で、蛍斗は予想外のダメージを食らっていた。
――かわいくない。
親友からの評価に、蛍斗は動揺していた。
(そうか、かわいくないのか……)
女になっても以前と変わらない距離感でいてくれることが嬉しかった。
途中からは逆に蛍斗の方から女を意識させようとしたぐらいだが、それでも悠士は変わらなかった。
変わらないことが嬉しくて、なのに、ちょっとショックだった。どうしてかは自分でも分からない。
きっと悠士の中では蛍斗は男のままだ。
(それじゃあ、ダメじゃん)
そうだとしたら、蛍斗がいくら誘惑したってなびくはずもない。
蛍斗は悠士を手に入れられず、いつか本物の女に奪われるのを黙って待つしかない。
それは――想像しただけでひどく憂鬱な光景だった。
さぁ帰ろうかと並んで歩き出し、しばらくして悠士は違和感を覚えた。
蛍斗が黙りこくっている。
昼休みまでは普通だったと思う。
普段会話の主導権は蛍斗が握る。悠士はもっぱら相槌を打つ側だ。
珍しい事態に、悠士の方から何か会話を振ろうかと思っても、蛍斗の無言が気になって糸口が見つからない。
「……体調でも悪いのか?」
「べつに」
会話終了。
悠士は己のコミュニケーション能力にちょっと疑問を持ちかけた。
調子が狂う。
いつもは聞かれてもいないのにぺらぺらしゃべる蛍斗の声が、一向に聞こえてこない。
"クマノミ"について悠士も少し調べてみた。外面的な変化はともかく、内面的な変化はゆっくり進行すると言う。ホルモンバランスだって変わる。もしかしたら何か身体に異変が起こる可能性もなくはない。あるいは、女子には女子の都合というものもあるか。
「CD、どうする」
「あー……うん、借りてく」
「じゃあうち寄るぞ」
朝、悠士が聞いていた新譜を気に入った蛍斗にCDを貸す約束をした。
週末だったため、月曜日まで待てないという蛍斗の訴えを受けて、帰りに悠士の家に寄ることにしたのだ。もちろんその時は蛍斗も普通だった。
昼休みから放課後までの間にいったい何があったのやら。
ひどい言い草だが、おとなしい蛍斗は不気味だ。
悠士の部屋には弟のものがいくらか置かれている。広い方の部屋をもらう代わりに場所を貸してやっているのだ。いつの間にか知らぬものが増えていることもある。
「お前の好みってこういうの?」
おとなしいからと油断したのが悪かった。
貸し出すCDを選別していた悠士の背後で、蛍斗はどうやらベッドの下からお宝を掘り出してきたようだ。ちなみに弟のものである。
悠士は自室の掃除を自分でするが、弟はあまりしないので母親の抜き打ち検査がある。そのため見つかるとマズいものは悠士の部屋に避難してあるのだ。
「違う」
「どっちでもいーよ」
蛍斗はそのまま弟の愛読書を読みはじめてしまった。
一瞬いつも通りになったのかと思ったが、そうでもないらしい。
最近の流れでいけば、悠士に迫ってきてもおかしくないタイミングだった――いや、別にそれを望んでいたわけではないが。
かわいい顔をした巨乳美少女が、男の夢が詰まった本を読んでいる。
視覚的にはアウトだ。
「読むな。行くぞ」
「もうちょっと。まだ脱いでない」
「黙れ痴女」
聴覚的にもアウトだった。
本の中の展開など知らない。こうやって人の理性をがんがん揺さぶるのはやめてほしい。切実に。
「ひっでーな……ほんとの女なら泣くぞ?」
「ほんとの女には言わない」
「……そりゃそうだ」
同意した蛍斗の顔は、なぜか泣き出しそうに歪んでいた。