巨乳妻と思春期。
悠士と蛍斗の長男、悠斗視点です。
僕の母さんは変わっている。
母さんの名前は「蛍」だ。けれど父さんは母さんのことを「蛍斗」と呼ぶ。
母さんの昔の名前らしい。その名前の一部を僕はもらった。もう母さんをその名前で呼ぶ人は誰もいないのに、父さんだけが呼び続けている。「蛍斗は蛍斗だからな」と言って。
蛍斗、は男の名前だ。"ケイト"という音だけなら、外国では女性名でもあり得るだろうけれど、この国では男性名だ。
母さんも父さんのことを名前で呼ぶ。「あなた」とか「お父さん」とか、そういう呼び方はしない。
母さんは自分のことを「俺」と言う。家の外では「私」も使うけど、家族の前では圧倒的に「俺」の方が多い。言葉遣いもわりと乱暴で男っぽい。
小さい頃はそういうものだと思っていて、でもよくよく考えたらお祖母ちゃんたちや伯母さんたちはそんなことはなかった。母さんだけが違っていた。だけど、母さんにはそれが自然に似合っていると思う。
母さんは昔男の人だったそうだ。
僕は女の母さんしか知らないからたまに不思議だなと思う。でも別に嫌じゃない。
この国では、思春期に性別が変わってしまう、"クマノミ"と呼ばれる子どもがいる。小学校高学年の時に道徳の授業で習う。なぜ道徳かと言うと、差別の対象になりやすいからだ。
身近なところにもし"クマノミ"が現われたらどうするか。
中学生の間が一番変化しやすい時期だと言われている。同じ学校、もしかしたら同じクラスに"クマノミ"がいるかもしれない。そんな場合どう接したらいいかを、小学生の間に学んでおくのだ。
"クマノミ"への差別は法律違反だ。飲酒、喫煙と並んで教師のチェックが厳しい。普通のイジメが見逃されがちになるのに対して、学校側が"クマノミ"を認識しているからバレやすく、些細な嫌がらせでもすぐに厳重注意になる。
僕が学校の授業で習ったことを伝えたら。
「あ、俺"クマノミ"なんだけど」
あっけらかんと、母さんは言った。
たぶん最初から隠す気はなかったのだろう。ただ、言うべきタイミングを見計らっていたのだと思う。
言われてみれば、昔の母さんの写真は男勝りと言うよりは男の子そのもののようで。男言葉がしっくり来るのも本当に男だったからで。
僕は、学校どころか家庭に"クマノミ"がいる、と言われても別に驚かなかった。
「そうなんだ」
「あれ、それだけ?」
「? だって、母さんは母さんだもの」
僕にとっては、過去も現在も未来も、ずっと母親だ。それ以外の何者でもない。
"クマノミ"だからなんだと言うのだろう。
両親は仲が良くて、家族仲も良くて、僕は母さんの子どもとして生まれたことを嫌だと思ったことはない。
「顔は俺に似てるけど、中身は悠士だなぁ」
そう言って、母さんは笑って僕の頭を撫でてくれた。
"クマノミ"になる薬が使われはじめたのはそう遠い昔のことじゃない。
"クマノミ"の子どもである僕が変化すれば"クマノミ"の第二世代ということになる。第三世代はまだ生まれたことがないらしい。
もっとも、"クマノミ"の子だから"クマノミ"になりやすいかと言うとそうでもない。親がしあわせな"クマノミ"なら"クマノミ"になってもいいと思う子は多いだろう。でも僕自身、今のところ変わりたい理由はない。
母さんにとっての父さんが僕にも現われてくれるかと言うと、きっと他の"クマノミ"に出会うより難しいことなんじゃないかと思うし、僕は女の子が好きだ。
「あ、俺も俺も」
「そうなの?」
「今でもどっちかっつったら女の子の方が好きさー」
「そう言えば母さん、女子アイドル好きだね」
「そりゃあ、男見るより女の子見た方が楽しいじゃん」
「えーと、それは父さん的にはいいの?」
「実害がなければいいんじゃないか」
「実害?」
「本気で女の子とどうこうなろうとしてなければいいってこと」
「どうこう?」
「悠士ぃ、俺が女の子に何するって言うんだよ。子どもの前で何言ってんの?」
「お前こそ何言ってんだ」
呆れたように言って、父さんが僕を見た。
「女の子が好きだからって誰とでも付き合いたいと思うか?」
僕はふるふると首を横に振った。
かわいいと思う子は何人かいるけれど、特別どうにかなりたいわけじゃない。
「あ、そういうことか」
「え、なになに、どういうこと?」
「子どもに理解力で負ける親……」
「あー、また人のこと馬鹿にして!」
「馬鹿にはしてない。呆れただけで」
「十分悪いわ!」
母さんと父さんの会話は、僕が男の友だちと話している時の雰囲気に似ている。
「ただの好き嫌いと、それ以上とは別物だろうって話」
「何当たり前のこと言ってんの?」
「……とにかくそういうことだ」
僕のために言葉で答えを示してくれようとした父さんが、母さん相手には諦めた。
「うん。でも、じゃあ母さんはその、えーと」
聞こうとして、けれどふと聞いてもいいことなのかと不安になって口ごもってしまった。ちょっと怖い可能性に思い当たってしまった。
「『どうして父さんと結婚したのか?』って?」
そんな僕の頭を父さんがやさしく撫でてくれた。
父さんが僕や母さんを見る目は、いつもとてもやさしい。
「なんでって、俺が女だから?」
「……蛍斗、それはいろいろ端折りすぎだ」
「え、そう? んじゃあ、えー、そうだなぁ。一緒にいたいと思ったから?」
「女の子が好きなのに?」
「うーん、うん、そうなんだけど、でも男の中じゃあ悠士が一番かっこいいと思うし」
「うん、父さんはかっこいいね」
「ろくに他の男の顔を見てないだけだろう」
「見る意味が分からん」
「……さようで」
「だからぁ、俺が女になって、見たい顔の男は一人しかいなくって、そいつと一緒にいたかったから、かな」
「付き合いたいと思ったの?」
「んー、それもちょっと違うんだけど。元は親友だったから。友だちとして一番だったから、一番であり続けたかったっていうか」
言葉より感覚で生きているっぽい母さんは説明が苦手みたいだ。ちらっと父さんの方を見て、僕も父さんの方を見て、急に視線が集まった父さんは困ったように頭を掻いた。
「当時の蛍斗の心中まで代弁できるか」
「じゃあ、父さんはどうして母さんを選んだの?」
たとえば僕の友だちが"クマノミ"になった時、僕ならどうするだろう。
「……男でも女でも、その時一番大事だったのが蛍斗だからだよ」
少しだけそっぽを向きながら答えるのは、きっと照れくさいから。
母さんがぱあぁっと顔を輝かせて父さんに抱き着いた。父さんは母さんを拒めなくて、でも僕の前だから受け入れるわけにもいかないのか、微妙な位置に手を浮かせたまま固まってしまった。
僕は空気を読んでリビングを出た。しばらくは自室にこもっていよう。
一応子どもにはそういうところは見せないようにと気を使ってくれているようなのだけれど、いかんせん母さんは父さんが大好きすぎるから隠しきれていない。男っぽい母さんだけど、たまにかわいく父さんに甘えてるんだ。そして父さんも、なんだかんだ母さんがかわいくて仕方がないというのが伝わってくる。
おかげで僕は空気を読むのがうまくなった。そういう空気を察知したらすぐに退散できるようにアンテナを張っている。
両親の仲が良いというのはしあわせなことだ。従弟のところは離婚してしまったから余計にそう思う。
『一人が長いと、自分が大事になりすぎるのね』
赤の他人が家族になるのは大変なことなのだと、どういう話の流れだったかは忘れてしまったけれど、伯母さんが僕にとっぷり語ってくれた。
自分の中に確固としたものが出来上がってしまって、人と折り合いづらくなる。妥協しづらくなる。譲歩できなくなる。
残念ながら僕にはまだよく分からないことだったけれど、その点うちの両親はお互い譲らないようでいてうまく折り合いを付けているみたいだ。
大抵言い出しっぺは母さんで、意見が割れた時に優位なのも母さんで、さっきみたいに父さんは負けっぱなしに見えるけれど、父さんが尻に敷かれているかと言うとちょっと違う気がする。最終的にはしっかり父さんが母さんの手綱を握っている感じだ。
母さんが"クマノミ"になっても、変わらず隣に居続けた父さんはすごいと思う。
僕自身は"クマノミ"にもなれる可能性があるけれど、なれるなら父さんのようになりたい。
ところで、うちの母さんはとても若い。
授業参観に母さんが来るとすごく浮く。他のお母さんたちより十歳ぐらいかそれよりもっと若いのだ。実年齢以上に若く見えるらしく、つまりは中学生の子どもがいる年にはとても見えない。
『あれ、お前の姉ちゃんか?』
そう聞かれたのは一度や二度じゃない。
有賀さん家の奥さん、はちょっとした有名人だ。子どもの目から見ても、うちの母さんはかわいくて人目を引く。
小学生の頃はまだしも、中学生くらいになるとそれはもう男子の目線が集中して、どことなくそわそわした空気が漂う。しかも教師までが浮足立つ始末だ。
小学生の頃から、担任が男の先生だった場合はやたらと母さんの話題が多かった。家庭訪問の時は絶対一緒にいること、と父さんからも母方のお祖母ちゃんからも厳命されていたくらいだ。
そして残念なことに僕は母親似だ。父さんの身長は平均以上だし、母さんも女性としては低くないからそこそこ伸びてほしいところなのだけれど、中学二年になっても百六十半ばに届かない。かわいい顔のおかげで女子には人気がある。それ以上に男子に人気がある。頭の痛い話だ。
今日も僕は告白――幸い女子からだった――を断って、友人と一緒に下校していた。
「また断ったのかよ? かわいい子だったじゃん」
「うちの母さんの方がかわいいもん」
「そりゃあお前んとこのお母さんは美人でエロくて最高だけどさぁ」
「人の母親捕まえて失礼な表現しないでよ」
「褒めたんだろ」
「まさかオカズにしてないよね」
「う」
「分かった。絶交」
「もうしない!」
「やっぱりしたんだ」
「しょうがねーだろ。あれは刺激が強すぎるって」
「まあね」
僕にも若い男の衝動くらいは分かる。母さんがそういう目で見られやすいのも分かっている。だからって子どもの立場としてはそれを是とは言えない。仕方がないとも言いたくない。
「お前の妹も将来あんな風になんのかな」
「やっぱり絶交」
「わーっ、うそうそ! 狙ってない、狙ってないから」
慌てて手を振る友人を冷ややかに睨む。
僕には弟と妹がいる。五歳年下の双子だ。
弟の名前は『つかさ』、妹は『ほたる』だ。どちらも両親の名前を訓読みしただけだ。両親の名前を足しただけの僕の名前といい、発想が安直なのはたぶん母さんの所為だろう、と思ったら双子を名付けたのはお祖母ちゃんだった。
母さんはつかさを「つー」、ほたるを「ほた」と省略して呼ぶ。僕のことは省略しない。たぶん父さんの名前とまぎらわしくなるからだ。ほたるはそれが移ったのか、僕を「ゆうにいちゃん」、つかさを「つーにいちゃん」と呼んでいる。
見た目は、僕とほたるが母さん似、つかさは父さん似だ。中身は、僕は両親のいいとこ取りだと言われる。しっかりちゃっかりしているらしい。つかさとほたるは見た目同様で、お祖母ちゃんたち曰くそれぞれ父さんと母さんの小さい頃によく似ているとのことだ。
もしかしたらさらに弟か妹ができるかもしれない。時々母さんが言っているのだ。「次の名前どうしよう」と。できてもおかしくないくらい母さんたちは仲が良い。お祖母ちゃんたちの予想では次は『はるか』だそうだ。
僕たちは時々お祖母ちゃんと一緒にお出かけする。母さんたちは「親孝行」だと言っているけれど、たぶんその時間を楽しんでいるのは母さんたちもだろう。一度忘れ物を取りに戻った時にさっそく両親がイチャついているのを見てしまって以来、忘れ物をしても絶対に取りに戻らないことにしている。僕は空気を読む男だ。
「あー、お前が女ならなぁ」
とても残念そうに友人がぼやいた。
「あいにくだね」
僕が女なら、たぶん友人になっていなかったと思うけど。
「君が女になったら、付き合ってあげてもいいよ」
そう思うぐらいには、大事な存在だから。
僕は女になるより、女に変わった親友を受け止められる男になりたい。父さんみたいにどっしり受け止められるかは分からないけれどね。
∞オマケの有賀夫妻∞
「他の男見ても、やっぱりゆーじが一番かっこいいと思うよ?」
「そりゃどうも」
「ゆーじは?」
「……お前が一番かわいいよ」
「へへ。あ、ところで一つ訂正を求む」
「何?」
「『その時』ってなんだよ。今は違うの」
「?」
「さっき、『その時一番大事だった』って言った」
「よく聞いてたな」
「今は?」
「別に今は違うって意味じゃない。その時からずっとってこと」
「ふはっ。『はるか』に、会いたいね?」
「他に言うことは?」
「愛してる!」




