巨乳妻の処世術。
悠士が大学に入学した直後のお話です。
春は出会いと別れの季節だと言う。
そしてまた、再会の季節でもあるようだ。
「悠士?」
大学の構内を歩いていた悠士に声を掛けてくる者があった。
「悠士だろ? 久しぶり!」
「……北岡か?」
中学時代の同級生だった。他にも数人の男子学生と一緒だ。
「悠士もここだったのかー」
「ああ、偶然だな」
悠士が進学した大学は、悠士の実家からは少し遠い。だが、近隣ではそれなりに名のある大学だ。実家に近い国公立という選択肢の最上位に名前が挙がりやすい。だから、悠士が通った高校からも、中学校からも、あるいは小学校からも知っている者が進学を志すことは大いにあり得た。現役で受かっているかはまた別の話だが、北岡は悠士と同じく現役合格することができたらしい。
「サークルとか、どこ入るか決めたか?」
「いや」
「迷うよなぁ」
「入らないから」
「……へ? 嘘だろっ?」
本気だ。
「俺ら今いろいろサークル見てきたんだけどさ、新歓の飲み会があるって誘われたんだ。悠士も行こうぜ」
「いや行かねーよ」
「お前変わってねーな。いや、前はもうちょいノリ良かった気がするぞ」
「なんだよ。こいつあんまり遊ばないタイプ?」
「せっかくの大学だぜ? 遊ばないでどうする」
「勉強する」
「かーっ! お堅い奴だな、おい!」
「それ以前の問題だ」
「ぱーっと飲んではじけようぜ? かわいい子もいるってさ」
「尚更行かない」
「おいおい、こわーい彼女でもいんのか?」
かつての悠士なら、無下に誘いを断ることはなかったかもしれない。進んで行きたいとは思わなかっただろうが、別にノリが悪いわけではない。
だが今の悠士は誘われても断る。最高にノリが悪い。なぜなら。
「彼女っつーか嫁だから。八ヶ月」
正確には悠士が婿なのだが、妻や奥さんという言葉よりも嫁の方が使いやすい気がするのはなぜだろう。
「えっ……えっ? 結婚してんの!?」
「いや指輪してんだろうが」
高校の間は旧姓で通していたこともあり、そろいで買った指輪はチェーンに通して首から下げていた。
卒業式の写真を撮る時指に填めて以来、左手の薬指に鎮座しているそれを北岡たちの目の前に掲げてみせる。
「てか、え? 八ヶ月!?」
結局信じてはもらえなかった。
指輪は単なる虫除けだと思われ、妊娠についてはなぜか「お前もそういう冗談言うようになったんだな」としみじみ呟かれてしまった。解せない。
「へー。中学卒業以来? ってことは三年ぶり?」
「そんなもんだな」
夕食の時に今日の出来事を話すと、蛍斗が興味を示した。
「合コン行くの?」
興味の矛先はそちらだったようだ。いつの間にか飲み会が合コンに変換されている。まぁ似たようなものか。
大学生の合コン。
蛍斗が進学していたら、きっと喜び勇んで出かけていたに違いない。
「行かない」
「なんで」
なんで、がなんでだ。
「飲み歩いてる場合じゃないだろ」
「別にいいのに」
北岡に言ったことは冗談でもなんでもない。
蛍斗は現在妊娠八ヶ月、もうすぐ九ヶ月になる。今にも生まれそうに思えるほどその腹部は大きくなっているのだが、出産予定日まではまだ一か月以上あるというのだから驚きだ。
講義中などであればともかく飲みに行っている間に緊急連絡、なんてそれこそ冗談ではない。
「サークルもさぁ、やりたいことあったらやっていいよ?」
「やりたいことを我慢してるわけじゃない。こっちが大事」
事もなげに言いきる悠士に、蛍斗はむず痒そうな顔をした。
十八歳からの二年間は人生最大の猶予期間だ。
法的な権利を数々認められながら、未成年であるとして責任や義務を免除されやすい。
最高に遊び甲斐のある時期と言っていい。楽しまないと損だ、とも言われる。
「真面目くん」
「真面目で悪いか。生まれてからだって大変だろうが」
妊娠中もさることながら、出産後の方がもっと大変だろう。当たり前だが二人とも育児の経験などない。小さい子どもの面倒を見たこともない。
蛍斗に任せて一人遊び呆ける。悠士にはとてもできない芸当だ。罪悪感と不安で楽しむどころではない。
「悠士って絶対人生損してる」
否定はしない。採算を度外視しているから損得で言えば損なのだろう。だが、勝ち組だ。
「笑って生きられたら十分だろ」
あいにく悠士は損な人生を楽しんでいる。しあわせを感じている。たとえ大損しても、得たものの価値は計り知れない。
「そうだ。悠士、中学の卒アル持ってきた?」
「しまってあると思う」
「見たい」
夕食後、クローゼットの片隅で段ボールにしまわれたままだった卒業アルバムを引っ張り出した。
「どの人?」
「北岡……こいつ」
「ふーん。あ、悠士だ。ちょっと幼い」
中学三年の悠士は身長が百七十に届いていなかった。
蛍斗と出会った当初はそれほど身長差がなかったのだ。高校一年の間に十センチ近く伸びた。蛍斗も伸びたのだが、いかんせん伸び幅が小さく、さらには女になって縮んでしまったので、今の二人の身長差は十センチ以上ある。
「学ランだったんだ」
「お前は?」
「ずっとブレザー。俺のも見る?」
「ああ」
ついでに蛍斗の卒業アルバムも並べた。
悠士の静かな佇まいと、蛍斗の賑やかな写真写りが対照的だった。
「修学旅行はおんなじとこ行ってるね」
「まぁ定番だからな」
近隣の公立校は大抵行き先が同じだ。
「なんか悠士すましてる」
「どういう顔したらいいか分かんないんだよ」
「えー、にっこり笑ってピースでいいじゃん」
「恥ずかしいわ」
「一人真顔の方が浮いて恥ずかしいって」
アルバムの中では男の頃の蛍斗が楽しそうに笑っている。
蛍斗一人がでかでかと載っているページもあった。
「それねー、リレーのアンカーで大逆転した時の。めっちゃ盛り上がった」
悠士の知らない蛍斗。蛍斗の知らない悠士。
少し幼いその姿に束の間思いを馳せ、今隣にいる不思議を噛み締めて感謝した。
数日後、帰りがけに北岡とばったり出会い、そのまま悠士は拉致された。「ちょっと付き合えよ」という言葉を額面通りに受け取ってしまったのがいけなかったのだろうか。
今日は蛍斗が出かけているから少しぐらいなら付き合ってもいいかと思ったのだが、どうやら件の飲み会は今日だったらしい。
最初はがらんとしていたのに、あれよあれよと言う間に人が増え、総勢で何名になるのか、賑やかというよりは喧しい状態の中、悠士は不機嫌を隠そうともせずに座っていた。
「まぁまぁ飲めよ」
「……」
「ほら、そんな不機嫌そうにすんなよ」
「せっかくの楽しい空気が悪くなるだろ?」
「酒もマズくなるし」
「断ったはずなんだが?」
酒を飲む機会は少ない。嫌いなわけでも弱いわけでもないのだが、まだ一滴もアルコールを飲めていない蛍斗の顔がどうしてもちらついて楽しむには至らない。
そう思っていたら、悠士の携帯が震えた。メールではなく電話だった。
「もしもし? どうした。え? ああいや、まだ。もう帰る――え? そう、こないだ言ってた飲み会……は? いやお前、おい――」
悠士の返事を待たずにぷつん、と通話が切れた。
悠士はしばらく携帯とにらめっこしていたが、一つ溜め息を吐いた後メールを打ちはじめた。
「えー、悠士帰んのかよ」
「最初からそう言ってる。もう少ししたら、なんだ? 迎え? が来るから」
「迎え?」
「……ああ」
悠士もよく分からないうちにそういうことになっていた。
「悠士ぃ?」
悠士がメールを送ってから数分で、ひょっこりと蛍斗が顔を覗かせた。
「ああ、今行く」
同席していた連中がざわついた。
「え、誰?」
「今井の彼女?」
「超かわいいじゃん」
「なんだよ、リア充め!」
「どうもー」
蛍斗はにこにこ挨拶した。
行きたいと言い出したのは蛍斗だ。合コンの雰囲気を味わってみたかったらしい。
蛍斗の母親と散歩がてら買い物をした後、大学の近くを通るついでに一緒に帰ろうと思いついたのだそうだ。
「旦那がお世話になってます」
ひゅーひゅー、と囃し立てられた。
事実なのだが、その場にいた連中は冗談だと思ったらしい。彼氏を旦那と表現するのはわりとよくあるからかい文句だ。本人が言い出すことはあまりないような気もするが。
「帰っちゃうんですかー?」
「一緒に飲みましょーよ」
「そうそう、彼女さんもどうです?」
「いや、私今飲めないんで」
言いながら蛍斗がたすき掛けにしていた鞄をずらして腹鼓を打つ。ふっくらとしたお腹に視線が集まった。
「え……っ」
「ええっ?」
「八ヶ月ってマジだったのか!?」
「嘘吐いてどうする」
まるで卒業を待っていたかのように、卒業式の後蛍斗の腹部はみるみる大きくなった。
もう着込んでも隠せない大きさで、春らしい装いをすると一目瞭然だった。
飲みの席での詮索は、高校の時の比ではないだろう。
目が点になっている北岡に一応飲み代を渡して、悠士は蛍斗と一緒にそそくさと店を出た。
店の外では蛍斗の母親が買い物袋を持って待っていた。荷物を受け取り、駅へ向かう彼女と別れて自宅まで数分の距離をのんびり歩く。
荷物を持つのとは反対の手で蛍斗の腰を支えてやる。大きなお腹を抱えて、背中を反らせて歩く蛍斗の姿はなかなかにひやひやする。
『もしもし? どうした』
『悠士、もう家? 今大学の近くなんだけど、まだだったら一緒に帰ろうと思って』
『え? ああいや、まだ。もう帰る――』
『なんか騒がしいね。どっかお店?』
『え? そう、こないだ言ってた飲み会』
『あ、今日なんだ。俺も行きたい。ってか行くね。お店の場所メールして』
『……は? いやお前、おい――』
先ほどの電話の全貌である。
妊娠中でも蛍斗は蛍斗だった。
「かわいい子いたね」
「そうか?」
「気がつかなかった?」
「さっさと帰ることしか考えてなかった」
女性が数名いたことは知っている。だがその顔はじっくり見ていない。
どうでもよかったのだ。他の女のことなんか。
何をしていても、悠士の頭の片隅には蛍斗がいる。
「そこは俺の方がかわいいって言うとこじゃん?」
「比べるまでもないだろ」
「……えへへ」
蛍斗が悠士の服の裾をきゅっと握った。
「飲みたかった?」
「だから帰ることしか考えてなかったって」
「悠士時々抜けてるよね」
「……お前に言われるとすごく反論したい」
「えー、だってまんまと連れてかれたんでしょ、お店に」
「……」
悔しいが言い返せなかった。
「悠士のことは信じてるけど、意外にモテる悠士くんのことは心配です。俺そばにいらんないしね」
冗談めかしているが、きっとその心配は本物だ。
「この年じゃあ指輪ってあんまり真実味ないみたいだからさ。悠士に手を出そうとすると泥沼だよーって宣戦布告」
心配の種類は違うが、悠士が蛍斗を心配するように、蛍斗も悠士を心配している。
ほぼ一日中一緒にいた高校時代とは違うからだ。離れている時間が多い。
ほとんど家にいる蛍斗と違い、悠士は外にいる。人に会う機会も多い。春は出会いの季節だ。
「……心配かけないようにします」
守っているようで、守られている。
蛍斗のやり方は時々えげつないが、それで蛍斗が笑っていられるのなら、悠士としては特に問題ない。
後日、再び北岡に捕まった。
「お前マジで妊娠させたのかよ? らしくない冗談だと思ったけど」
冗談で言えるか。
「ああ、それから今の俺の名字『有賀』だから」
「へ」
「婿養子」
「はああぁ!? マジでっ?」
あの席で誰かが悠士のことを「今井」と呼んでいた。きっと北岡から聞いたのだろうが、今の悠士は名実ともに「有賀 悠士」である。
妻が"クマノミ"であることはあえて言わない。
蛍斗も最近は一人称を使い分けていて、外では、というか初対面の相手には「私」を使い出した。
蛍斗が女になってもうすぐ二年になる。
すべてを正直に語ることがいつでも正しいとは限らない。包み隠さず言うべきこともあれば、言わなくていいこともある。
家のリビングに飾ってあるデジタルフォトフレームのデータには男の頃の蛍斗の写真も混じっている。家に呼ぶくらいの友人や知人には隠さないつもりだ。
さて、北岡とはどれくらいの付き合いになるのか。
「羨んでいいのかご愁傷様と言うべきか」
「好きにしろ。憐れまれるのは心外だが」
「いやだって結婚は人生の墓場って言うじゃん? 墓場行きには早すぎるって」
「もう墓があるならこの先安心だな」
誰にも侵されない安住の地をすでに手に入れているということだ。
「いやでも決断すんの勇気いるだろー?」
「俺の場合はただ早く出会えただけだ」
「ちなみに出会いは?」
「高校の同級生」
「なんでそれで結婚する気になんのか分かんねぇ」
「手放せなかったから」
どう考えても蛍斗のいない未来は想像できなかった。
幸いにして悠士の妻は非常に魅力的で、協力的で、とてもかわいい。時々予測不可能で、寂しがりで、甘ったれで、すぐに悠士を頼ってくるから他の女に目移りしている暇はない。
「らしくないけど、らしいっちゃらしいなぁ。正直羨ましいわ」
北岡は憐れみを捨てたようだ。
「めちゃくちゃかわいいっつーかエロいよな、お前の嫁」
「人の嫁を邪な目で見るな」
妊婦を捕まえて「エロい」と表現するのはいかがなものか。
本格的にお腹が大きくなりはじめてから、蛍斗はマタニティウェアを着ている。脱ぎ着が面倒なのか、すとんとしたワンピースを好んでいるようで、飲み会に顔を出した時もその上からカーディガンを羽織った格好だった。露出という露出もしていなかった。それを「エロい」とは。
「や、だってきっとスタイルいいんだろうなって感じだったし、胸でかいし」
「やらんぞ」
「分かってるよ! さすがにそれは考えねーよ。なぁ、嫁さんの知り合いとか姉妹とか」
「紹介もしない」
「あーくそー、ヤりてー」
北岡の本音がだだ漏れている。
意外に北岡は蛍斗と気が合うかもしれないと思ったが、当分家には呼ばないでおこう。




