10.巨乳妻、愛に泣く。
安定期に安定するのは身体だけではない。精神的にも妊娠を受け入れ、準備が整ってくる。
だと言うのに、蛍斗の心は不安定なままだった。
鏡に映る自分の姿に、思わず溜め息が落ちる。
全体に細く、胸と腹部だけが膨れている。
少しずつ張り出してきた腹部は、だがまだそれほど目立たない。着込んでいれば尚のこと。
それでも蛍斗の目には少し不格好に見えた。
体重も増えた。太った、とは違うのかもしれないが、クラスの女子がその手の話題で盛り上がっていたことを思い出す。かつては気にならなかったことが気になる。男の頃の蛍斗は、むしろ細すぎる自分の身体にがっかりしていたぐらいだったのに。
なぜ気になるのかと言えば、理由は一つだ。
悠士が抱いてくれない。
医者は大丈夫だと言っているのに。
実際妊娠直後は気づかないで普通に抱き合っていたのに、今更だめだという理由がどこにある。
――なんかあったら。
もちろん注意する。ちゃんと守る。
しかし、蛍斗がどれだけねだっても悠士はキスより先のものをくれなかった。
もしかしたら悠士は今の蛍斗の姿に幻滅しているのではないかとあらぬ想像をしてしまう。蛍斗の妄想力は諸刃の剣だ。
妊娠中のセックスレスがきっかけで夫が浮気したり、産後もセックスレスが解消できずに夫婦関係がギクシャクしたり、ということもあるらしい。
生殖目的とは言え、過程をどうでもいいと考えていたわけではない。むしろ途中からは、過程を大事にしたいとさえ思った。愛を伝え合う行為として必要だと思うようになった。
たっぷり愛されて、甘やかされて、しあわせに浸っていた時間を思い出すと、寂しくて仕方がない。
これから親になろうとしている立場でこんな甘ったれたことを言っていてはいけないのかもしれないが、それが蛍斗の偽らざる本音だ。
蛍斗にとって、子どもができても一番は悠士だ。
子どもは育てば巣立つが、つがいは一生ものだ。
悠士に捨てられたら、蛍斗は生きていけない。
いつものように触れるだけのキスを交わした。
「おやすみ」
「……おやすみ」
もっと、と求めてしまわないように、今日もまた悠士は己の理性を総動員していた。
冬休みである。夏休みほど長くはないが、それでも二人で過ごす時間は増える。
今年は蛍斗が妊娠中ということもあり、正月にはこちらから出向かず、それぞれの家族が顔を見せてくれた。
最近の蛍斗は少し元気がないように思う。つわりは治まったはずで、健康状態にも問題はないはずなのだが。
膨れ出した蛍斗の腹部を気遣って、抱きしめることも少なくなった。何かの拍子に潰してしまわないかと不安なのだ。本当は別々に寝たいぐらいなのだが、それはそれで心配だった。何か異変があった時にすぐ気づいてやれないかもしれない。
何分はじめてのことで、いつも以上に悠士は慎重になっていた。考えすぎてもいた。
悶々と、おやすみのキスをして目を閉じた後も一人で考え込んでいた悠士の耳に、それは聞こえてきた。
「……っ」
小さくしゃくり上げるような、か細い声。
こちらに背を向けている蛍斗の肩が、小刻みに揺れている。
「……蛍斗?」
蛍斗の肩が大きく揺れた。
「どうした?」
返事の代わりに、蛍斗の頭が小さく揺れた。なんでもない、と言いたいのだろうか。
どう考えてもなんでもないはずがない。
何か異変が、とついさっき考えていたばかりだ。悠士は起き上がって蛍斗の顔を覗き込み、そして言葉を失った。
必死に声を――泣き声を押し殺すようにして、蛍斗は泣いていた。文字通り枕は濡れていて、こうしている間にもぽろぽろと新しい涙がこぼれ落ちていく。
はっと我に返った。絶句している場合ではない。
「蛍斗!? どこか痛いのか?」
「……ちが……」
「気分が悪いとか?」
ふるふると、やはり蛍斗は頭を振って否定した。
「そんなに泣いて、なんでもないってことはないだろ」
電気を点け、温水で濡らしてきたタオルで真っ赤な目元を拭いてやる。
「……俺、実家帰る」
「え……?」
冗談でそんなことも言ったが、改めて蛍斗の口から言われると悠士はどう返していいのか分からなかった。
蛍斗が悠士のそばからいなくなることはない、と信じきっていた。
「……ホームシック?」
可能性としてはそんなところだろうか。昼間は、顔を見せてくれた蛍斗の家族と楽しそうにしていた。母親がそばにいてくれた方が、悠士などよりよほど頼りにはなるだろう。
だが蛍斗はまた首を横に振った。
「俺、いらない」
「……は?」
「もういらない、でしょ?」
言葉の意味が分からない。
「悠士は、捨てないけど、でもいらないよね?」
――子どもができたらポイなんてひどい。
――捨てねーよ。
そんなことを言い合ったのは年が明ける前、まだ半月も経っていない。
「俺、ここにいても、しょうがない」
「なんでだよ」
いらないなんて、一言も言っていない。思っていないのだから言うわけがない。
「悠士、見てくんない」
「あ?」
「俺のこと見てない」
「いや、見てるだろ」
むしろ前よりよく見ているはずだ。
「子どもしか見てない」
「……」
無事に子どもが生まれてくれるように、それが今の悠士の最優先事項であるのは確かだ。とは言え蛍斗のことがどうでもいいとかいらないとか、そんなことはまったくない。子どもはもちろん、蛍斗が大事だからこそだ。
だが、その気持ちは蛍斗には伝わっていない。
抱き合わなくなった。抱きしめなくなった。かろうじて、蛍斗が望んだ「キスだけ」が続いている。
悠士を睨むようにして、蛍斗は嗚咽を堪えようとする。
蛍斗が寂しがりで甘ったれだと、悠士は知っていたのに。
身体先行ではじまった二人の関係を、身体を抜きにしては語れない。
それだけではないが、それも大事なことだ。
「うぅー……っ」
時折ひく、としゃくり上げる蛍斗を抱きしめて、背中をさすってやる。
大事にしているつもりなのに、泣かせたくなんかないのに、うまく行かない。
そうだ。蛍斗は言っていたではないか。
相手が誰だか分からないのは困ると。子どもだけ欲しいのではないと。
いっそ本能だけなら、戸惑ったり迷ったりすることもないのかもしれない。怖がったり脅えたりしなくていいのかもしれない。
本能だけではないから、悠士に愛されたがって、不安になる。
"クマノミ"の本能が子どもを欲しがらせるとしても、蛍斗はちゃんと悠士に愛されて、その結果としての子どもを欲しがった。行為の結果としての妊娠を否定する気のない悠士と何が違う。
子どもができたらポイ、なんて考えていたわけではないが、子どもができたことで安心してしまっていたのかもしれない。本当の意味で責任を取ることができると。蛍斗を手放さなくていいと。
(そうじゃない)
はじまりはそこからだったけれども、ちゃんとお互いへの気持ちを確認して、だからプロポーズした。結婚した。二人で家族になろうと思った。
悠士は蛍斗に我慢をさせたくない。
蛍斗も悠士に「我慢しちゃだめ」と言う。
譲り合うことはあっても、我慢しない。遠慮しない。二人の間に、それはいらない。
そう約束したはずなのに、悠士は我慢して、蛍斗にも我慢させていた。
情けなさすぎて泣きたくなるが、今は自己嫌悪に浸っている場合ではない。
「蛍斗」
蛍斗の顔中にキスする。流れる涙も全部吸い取る。じわりと涙が滲む隙さえ与えない。
一人で背負うのではない。二人で背負うのだ。
二人だけではなくなる。新しい命を守るためにお互いに我慢することも時には必要になるかもしれない。
それでも、蛍斗が望むなら悠士は与える。
「いらなくない。ここにいてくれ」
「悠、士」
「愛してる」
「……っ」
蛍斗がぎゅう、としがみついてきた。
「だい、すき」
「うん」
「だいすきっ」
「うん」
「愛してるって、言いたいよぉ……っ」
でも言えない。
蛍斗はまだ自分のことしか考えられていないから。
自分が欲しいと言ったのに。悠士は希望を叶えてくれたのに。
蛍斗より子どもを大事にしているみたいで、寂しくなった。
心と本能の折り合いが付かない。
蛍斗の心はまだまだ未熟で、悠士に愛されたがって、悠士だけを愛したがって、我が子にさえも二人の間を邪魔されたくないと思ってしまう。
人間のパートナーはただの生殖相手ではない。人生を共有する。だからこそ、本能に逆らって二人だけでいたいとさえ思う。
親になる心構えなんて全然ない。
我がままで甘ったれた蛍斗の言い分を、だが悠士は否定しなかった。
「それでいいんだって」
「え?」
「子どもが生まれてすぐはただ親と呼ばれるだけ。最初から完璧な親なんかいないんだと」
「……それでいいの?」
「子どもの成長を見守りながら、親になっていくんだ」
俺だってまだまだだ、と悠士は言った。
「大事だよ。俺とお前の子だから」
他の誰でもなく、お互いとの子だから大事で愛おしい。
「言ったろ、全部愛してるって。子どももお前の一部」
ああ、そうか。
この子は悠士の子どもだ。
蛍斗が望んだ、悠士との子ども。
他の誰の子であるはずもない。そんなことは分かっていて、だが分かっていなかった。
やっぱり蛍斗はまだまだ未熟で、自分のことだけですぐにいっぱいいっぱいになってしまう。
子どもができたことで本能が満たされてしまった。だから、心が飢えた。
"クマノミ"にとってやはり薬の影響は皆無ではなく、しばしば欲求と感情の乖離にぶつかる。
あれほど子どもを欲しがっていたのに、ただ子どもができただけでは蛍斗の心が満足しなかった。
それはそうだ。蛍斗が欲しかったのは悠士なのだから。
蛍斗の本能が欲しがったのは子どもだが、蛍斗の意思が欲しがったのは悠士だ。悠士を手に入れるために子どもを欲しいとも思ったから、その時点では欲求と感情は相乗効果をもたらしていた。
蛍斗の心が傾けば傾くほど、悠士への想いが深まれば深まるほど、欲求と感情の間に溝ができた。
蛍斗は要領が悪い。頭が足りない。一つのことに集中してしまう。
悠士だけを欲しがって、あれほど望んだ子どもまで邪魔に思えた。
蛍斗は思ったはずなのに。いつか子どもを愛してしあわせを繋いでいく、と。
減るのではない、増えるのだ。
悠士を取られるのではない、悠士と一緒に得るのだ。
そんな簡単なことにも気がつかないほど、蛍斗は悠士しか見ていなかった。
これは恋だ。激しくて、盲目で、どうしようもない。
ちゃんと、恋になった。蛍斗は悠士に恋をした。
「愛し合おう」
蛍斗の足りない言葉を、拙い言葉を、悠士はちゃんと理解してくれる。
言葉にできない未熟な蛍斗の想いを、受け取ってくれている。
言葉で表現できない蛍斗の気持ちを伝える機会を与えてくれる。
真っ赤に泣き腫らした目をして、だが蛍斗は花が咲くように笑った。
なんとか別居の危機を乗り越えて、二人は三学期を迎えた。
「そういや卒業証書ってどうなんの?」
「正式な名前で書かれるんじゃね?」
「え、そうなの」
「たぶん?」
蛍斗の腹部はずいぶん膨らんできていたが、登校する日も少なくなり、たくさん着込んでいればどうにか隠し果せた。
悠士たちの高校では卒業生ひとりひとりに卒業証書を手渡ししない。代表者――生徒会長を務めた者や成績優秀者――が受け取るだけの簡素なものだ。それなりに生徒数が多いため、全員に渡していたら時間がかかりすぎる。式の後、教室で担任から個別に渡される。
出席番号一番。蛍斗が長らく背負ってきた番号だ。
『青木』やら『浅田』やら、『有賀』より名簿順が早い名字はいろいろあるはずなのに、蛍斗は大抵一番だった。
一番、有賀 蛍斗。二番、今井 悠士。
高校の三年間、それが定位置だった。途中で有賀 蛍斗は有賀 蛍に、今井 悠士は有賀 悠士になったが、名簿順は変わらない。昔は男子が先で女子が後という名簿だったようだが、男女平等の名のもとに、性別ではなく単純なあいうえお順で並んでいる。
小学校の時も中学校の時も、蛍斗は式の最初に卒業証書を受け取った。どちらも一組だったのだ。以下同文と言われたことがない。せっかくだから高校でも、という気持ちがないわけではないが、嫌でも注目されてしまうことを考えると、後で担任から渡してもらう方がいい。あまり目立つ大きさでないとは言え、見る人が見れば分かる。卒業式の日まで、余計な噂になりたくない。
高校卒業と同時に、「有賀 蛍斗」と「今井 悠士」も卒業する。
四月からは新しい名前とともに新しい生活がはじまる。
蛍斗は「蛍」として、悠士と生きていく。そう遠くないうちに増える、新しい家族と一緒に。
蛍斗が「女になってよかった」と言える日は、「"クマノミ"でよかった」と胸を張れる日は意外に早くやって来るのかもしれない。
――ほらね、ハッピーエンド。
五月の終わり――予定日よりも少し早く、蛍斗は男の子を出産した。
生まれた子には「悠斗」と名付けた。
蛍斗が持って生まれた名前は残った。
夫が「有賀」を、子どもが「斗」を受け継いでくれた。
今の蛍斗は「蛍」だが、「有賀 蛍斗」が家族を繋いでいる。
恋を知らずに、親友を恋人と呼んだ。
恋する間もなく、恋人を愛して家族になった。
これからは、家族で愛を語り合おう。愛の結晶を抱きしめて。
変わるものと、変わらないもの。
どちらも大事にしながら、続く日常を愛していこう。
一緒に歩く、隣の君を愛していこう。
<終>
これにて本編完結です。
その後の二人や他者視点などの番外編を不定期で書かせていただこうかと思っています。
また他の"クマノミ"たちの物語でお会いできますように。
お読みいただきありがとうございました。




