05.巨乳女子、振り解く。
「ごめんね、蛍斗」
母親はぽつりと言った。
二年生になってからの、つまりは蛍斗が女になってからの写真はまだアルバムに綴じられていなかった。どのように整理したらいいのかという母親の迷いが見て取れる。
「母さん?」
「もしかしたら、私はあなたにとてもひどい運命を背負わせたのかもしれない」
嫌がらせについて教師に相談するということは、つまり家庭にも連絡が入るということだ。
その前に蛍斗は自分で母親に説明した。
"クマノミ"化は、母親が薬を投与していなければ起こらない現象だ。母親が蛍斗の変化に責任を感じていることに、なんとなくは気づいていた。
蛍斗が"クマノミ"であるがゆえに問題が起こると、彼女はさらに自分を責めてしまう。
それも、嫌がらせへの抵抗を鈍らせた一因だった。できれば穏便に、子どもの喧嘩の範囲で収めたかったのだ。
「……でも、変わったのは俺自身の責任だよ」
誰かの所為にするのは楽だろう。
だが、ただ子どものしあわせのために手を尽くしてくれる母親のことを恨んでも、責めても、気持ちは晴れない。
「俺、楽しそうじゃない?」
変化直後の写真はほとんどない。
写真を撮っている余裕はなかった。記念撮影、なんて言っている場合でもなかった。
だが、夏休みに入ってからはまたいろんな写真があって、そのどれもに悠士が写っている。
どの写真も、蛍斗は笑っていた。その笑い方は男だろうと女だろうとあまり変わらない。
デートと称して悠士を引っ張り回して、一緒に遊んだ夏休みの写真。
体育祭、文化祭、修学旅行――学校側が撮影した写真と、蛍斗や蛍斗の母親が自分たちで撮った写真。
順番に見ていくと、悠士との距離が近づいていくのが分かった。
最初はそれこそどうとでも言える、ただ隣にいるだけの他人と言うことだってできそうな。
それが、蛍斗の方からくっついて、悠士の方からも手が伸びて、どこかぎこちなかった空気がそのうち消えて。
つい最近撮った写真の二人は、誰がどう見ても恋人同士にしか見えない。
いかにもしあわせそうに笑っているではないか。
「まだ"クマノミ"でよかったって胸を張れるわけじゃないけど、でも不幸だとは思わないよ。ひどいとも思わない」
性別こそ変わってしまったが、蛍斗は決して不幸ではない。
「もしこれが俺の運命だったなら、うん、たぶんハッピーエンドだよ」
「そう?」
「なんだっけ。『青い鳥』? そんなおとぎ話なかったっけ」
「しあわせは気がつかないだけですぐそばにある?」
「そう、それ」
小さい頃に聞かせてもらった童話。
はじめて聞いた時の蛍斗は結末に拍子抜けしたものだった。
「俺、"クマノミ"じゃなかったらさ、いろいろ気がつかないまんまだったこと、いっぱいあるよ。それはそれでしあわせだったかもしんないけど、でももっと寂しかったと思う」
「寂しい?」
「ないものねだりなんだけどさ。身体は変わったけど、俺自身はあんまり変わってなくて、でも変わったこともあって、だいたい悠士が理由なんだけど」
「悠士くんが、蛍斗の『青い鳥』だった?」
「かもね。それは俺が"クマノミ"じゃなかったら絶対に気づけなかったことだから」
「本当に、蛍斗は見る目があるわ」
母親は泣き笑いの表情を浮かべた。
家族が受け入れてくれるのは分かる。家族だからこそ受け入れられないケースもあるようだが、蛍斗の家族は蛍斗の変化を受け入れようとしてくれた。
――でも悠士は。
本当は何の責任もないのに、蛍斗が勝手に巻き込んだだけなのに、蛍斗の新しい家族になろうとしてくれている。
そう思うと、胸がほかほかとあたたかい。
「へへ」
母親はまだ整理されていない写真を蛍斗に渡した。
「悠士くんと一緒に整理する?」
その提案に蛍斗は頷いた。
ほとんど悠士と一緒に写っているのだからその方がいい。
「明日は、お父さんのところに行ってくるわね」
「え? 明日だっけ」
「ゆっくり愛し合いたいでしょう?」
親とこの手の会話をするのはまだ照れる。だが蛍斗はやはり素直に頷いた。
ゆっくり愛し合いたい。それはもちろんそうだ。
「……写真」
悠士の声がして、蛍斗は現実に意識を戻した。
「ん?」
「載せていいのか」
男から女に変わったことがありありと分かってしまう証拠を、卒業生が全員手にするものに載せてしまっていいのかと。
蛍斗を心配してくれるからこその言葉。
「いいよ。それも俺の歴史」
違う自分になりたかったわけではない。過去と決別したいわけでもない。
男としての蛍斗も女としての蛍斗も、どちらも蛍斗だ。
どちらか一方だけでは不完全だ。蛍斗が蛍斗でなくなってしまう。
男の蛍斗を愛してくれた家族にも、女の蛍斗を愛してくれる悠士にも悪い。
だから、蛍斗は"クマノミ"であることを隠す気がない。わざわざ「元男です」と言いふらしたりはしないが、それはあくまで無用の混乱を避けるためだ。男の自分を消したいわけでも、"クマノミ"である事実を恥じているわけでもない。
「俺は男で、女で――悠士のもの」
それが、蛍斗だ。
蛍斗は悠士の妻になる。
これから先、悠士には大学で、就職先で新たな出会いがあるだろう。妻が"クマノミ"であると知られることは、悠士にも差別が降りかかる可能性を生む。
"クマノミ"は異物で、厄介者で、だからそうなってしまったことを全面肯定するのはなかなかに難しい。
それでも、と蛍斗は思う。
蛍斗の在り方は他人の目には不自然なのかもしれないが、蛍斗にとっても、蛍斗を愛してくれる人たちにとっても自然なのだ。だから、いい。
みんなの理解は得られなくていい。愛してくれる人たちが理解してくれたらいい。
悠士が理解してくれていたら、それでいい。
「だめ?」
悠士は眩しそうに目を眇めて、それからやさしいキスをくれた。
蛍斗は柔軟だ。
以前は考えなしで困ると思っていたが、考えていないようでちゃんといろいろ考えていたりする。本能というか感覚で正解を導き出せるタイプなのだろう。「流されやすい」と言うが、しなやかに受け流して身を守る術を知っているのだ。
悠士は面白みのない子どもだった。
蛍斗は悠士のことを「揺らがない」とか「自分を持っている」とか良い風に言ってくれるが、言い換えればただの頑固だ。強情だ。
人は人、自分は自分。ある意味蛍斗よりも我がままに生きてきた。
協調性がないわけではないが、自分自身にとって必要と思えないことを積極的に行なおうとはしなかった。中学生になる頃には多少人に合わせることも覚え、「真面目でお堅く、でも意外にノリがいい」悠士は出来上がった。
だから、蛍斗との交際も結婚も、流されたわけでは決してない。
悠士が望まなければ、こうはならなかった。
どちらか一方が負い目を感じてしまうような関係ではない。
悠士としては、妻になる蛍斗が"クマノミ"だと知られようが知られまいが気にしない。気にするくらいなら最初から選ばない。
自分の理性は思ったより頼りにならなかったが、蛍斗に手を出さないでいることはできなくはなかったはずだ。
ただ、女になった蛍斗を誰かに委ねるという考えが浮かばなかった時点で、わりと早い段階から悠士は蛍斗を選ぶつもりでいたのだと思う。蛍斗に選ばれるかどうかは分からなかったが。ちゃんと蛍斗の選択を待つつもりで、しかし頼りない理性があっさり切れて強制的に選ばせた。
蛍斗が消去法と打算で悠士を選んだと言うなら、悠士は都合と諦観で蛍斗を選んだ。
罪滅ぼしでも献身でも、ましてや恋愛感情でもない。
どうしようもないはじまり方だったのは、お互い様だ。そしてきっと、本能で選んだのもお互い様だ。
「悠士は『青い鳥』知ってる?」
「メーテルリンクだったか」
「なにそれ」
「……『青い鳥』の話じゃないのか?」
「出てくる人?」
「書いた人かな? 出てくるのはチルチルミチルだろ」
「よく知ってんね」
「お前が言い出したんじゃないのか」
「あんまり詳しく知らない」
「……『青い鳥』がどうした」
「うん、昨日母さんと話しててさ。俺の『青い鳥』は悠士かなって」
蛍斗は写真を見ながら微笑んだ。
「昔聞いた時はさ、つまんない話だと思ったの。だってあちこち見て回って、結局骨折り損じゃん」
「まぁ、そうとも言えるな」
「気づけよバカだなって思ったし、なんか、あんまり特別なことってないのかなって」
地味な結末には違いない。
その教訓を悟るのは、小さい子どもには難しい。
童話や童謡というものは、意外に大人になってからの方が楽しめたりする。
「俺、ずっと笑ってる。一年の時も二年になっても、悠士の横でおんなじ顔してる」
「……そうだな」
体育祭に文化祭。
一年の時も二年の時も、イベントとしては同じもの。
蛍斗の笑顔も同じもの。
「はやく気づけよ、バーカ」
蛍斗は写真の中の自分を、一年の頃の自分を小突いた。
隣には、しあわせがあった。
しあわせの形をしていたのは、親友か恋人か。
「……気づけて、よかった」
呟いて、悠士は後ろから蛍斗を抱きしめた。悠士の『青い鳥』を。
「俺らは別に遠回りしてないけどね」
「そうか?」
はじめから同じ結論にたどり着けていたわけでもないと思うのだが、蛍斗の意見は違うらしい。
「だって、最初から俺とお前だけの話じゃん」
主要な登場人物は他にいなかった。
たまに家族は登場するが、友人も登場するが、悠士と蛍斗の心を動かすのは、惑わすのは、震わせるのはいつも自分たちだけだった。
確かに、悠士には蛍斗しかいなかった。蛍斗にも悠士しかいなかった。
いろんな国を渡り歩いて、くたびれて、戻った場所でそれに気づいたわけではなかった。
ただゆっくりと、しっかりと相手を見つめているうちに、そうだったのかと気がついた。
「そうだな。お前はいつも間違ってない」
「んん?」
蛍斗が力説した胸の大きさは事実悠士にとっても心地良いものだった。
蛍斗が悠士を誘惑したのも、悠士にとっては都合が良かった。
蛍斗がしあわせになりたいと言ったのも、悠士がしあわせになるために必要なことだった。
特別なことはなくても、案外奇跡は起こるのかもしれない。
ゆっくりと唇を近づけてキスをする。
「……部屋、行く?」
「ああ」
せっかくの時間を楽しまない選択肢はない。
「何してもいいよ」
恋人の誘いを断ったりもしない。
「だから、全力で愛してね」
言われるまでもなかった。
悠士の手は蛍斗の身体を知り尽くしていると言っていいと思う。
この一年で、その手はどれだけ蛍斗に触れただろう。
最初は拒まれて、そのうち躊躇いがちに伸ばされて、今は迷いなく触れていく。
それだけの時間が流れた。
それだけ、そばにいた。
真っ当に恋をしたわけではない。ちゃんと手順を踏んだわけでもない。
本来なら悠士が嫌がりそうなことをいろいろと蛍斗はやってしまった。
たくさんの「ごめんね」と「ありがとう」を、しかし蛍斗は伝えていない。
謝ってもきっと同じことを繰り返すし、感謝は伝えきれない。
蛍斗の言葉は軽い。
蛍斗の考えは足りない。
ひたすらに伝えられることは一つだけ。
――大好き。
だから蛍斗は、心を込めてその言葉を繰り返す。繰り返しながら、悠士の手を待ちわびる。
蛍斗を組み敷いて、着衣を乱していく悠士の顔をじっと見つめた。
この一年で、悠士も少し男らしくなった。元々かっこいい奴ではあったが、少年っぽさが抜けて青年になろうとしている。
肌は少し汗ばんで、蛍斗に向けられた視線は熱っぽい。
蛍斗のことばかり言ってくれるが、なかなかどうして悠士の色気も侮れない。今は自重する気もないのかだだ漏れで、どくん、と鼓動が跳ねた。
「悠士」
呼べば、悠士の双眸が嬉しげに弧を描く。
すぐに唇が与えられる。
「蛍斗」
悠士の声がやわらかい。
それだけで蛍斗は嬉しくなる。
ついばむようなキスも、呼気を奪い尽くすようなキスも、ねっとりと暴かれるキスも。
――大好き。
悠士の背中に手を回して、しっかりとその重みを受け止めた。
夜は非常に燃えた、と言い添えておこう。




