02.巨乳女子、学校へ行く。
悠士が蛍斗の変化に爆笑した翌週、彼改め彼女は登校を再開した。
蛍斗には自転車禁止令が出された。ミニスカート丈の制服を着て今までのように自転車を漕ぐのはやめなさいと言われたのに、足を閉じるとうまく漕げないと言い訳したからだ。
だったら電車で行きなさいと交通費を渡された蛍斗に付き合って、悠士も電車通学を余儀なくされた。
朝蛍斗の家まで迎えに行き、一緒に登校する。ラッシュ時の電車に乗ると考えただけで気分が沈む。そもそも悠士は電車で通うのが嫌で家から一番近い高校を選んだのに。乗っている時間は十五分ほどだが、初夏の頃、まだ冷房が弱い時期には汗ばんで不快感が増す。
それだけならまだしも、案の定と言うべきか、蛍斗はしょっちゅう痴漢の被害に遭いかけた。男がつい見てしまう、触ってみたくなるものを持ちながら、警戒心が薄く無防備に見えるようだ。どこからともなく手が伸びてくるので、蛍斗を壁際というかドア付近に立たせて、他人との間に悠士が壁として立ちはだかるようにしている。そうすると腕の中に蛍斗を囲い込むような形となり、つまりは当たるのだ。やわらかいものが。男がつい見てしまう、触ってみたくなるものが。
いろんな意味で苦痛を味わう通学時間を経てクラスに着くと、それはそれで鬱陶しい視線に晒される。
ほぼほぼそれは蛍斗に向けられているが、中には蛍斗のそばにいる悠士を狙い撃ちにしているものもある。蛍斗に近づきたいと思っている男たちにとって悠士がおもしろくない存在なのは当然だ。逆にそうでなくてはお目付け役失格だろう。
それにしても、と悠士は蛍斗を見る。
蛍斗は文字通り悠士にくっついて回っていた。確かに悠士と蛍斗はクラスで一番仲が良かったが、蛍斗はわりと誰とでもすぐ仲良くなるタイプで、悠士以外にも仲の良い友人はいた。ところが、女生徒として登校するようになってから、蛍斗が他の男子に積極的に近づくことはなかった。
「だってさー……見られてんの分かるし。なんつーか複雑で」
考えなしの蛍斗にしては賢明な判断だ。自衛する気があるなら口うるさく言う必要はないだろうと、悠士は蛍斗の自由にさせている。
男からの粘つくような視線は正直気持ち悪い。だが見てしまう気持ちも分かる。蛍斗だって男だった頃はそちら側だった。そして自分に照らし合わせて考えると、あまりそばにいるのはよくないだろうなと思ったのだ。あえて地雷を踏む気がないなら、地雷原には近づかない方がいい。
蛍斗はちら、と隣の親友を見上げた。憎らしいことに身長差が十センチ以上開いている。
ここにも地雷は埋まっているだろうが、今のところ悠士のそれは不発弾であるらしい。この姿を見せて開口一番セクハラまがいのセリフを言われた気がしたが、あれはまぁ健全な男子として当然の反応でもあった。それ以外で蛍斗を不快にさせたことはない。というか今まで通り、何も変わらず接してくれている。その安心感たるや。
つい居心地が良くて、親や悠士に言われるまでもなくそばを離れる気が失せた。
蛍斗の視線に気づいた悠士が首を傾げてこちらを向く。蛍斗はにへらっ、と笑って誤魔化した。
早々に登校を再開した蛍斗だったが、学校側の受け入れ準備がまだ整っていなかった。いや、クラスの女子の、というべきか。
親のみならず彼女たちからも信用されなかった蛍斗は女子更衣室を使わせてもらえなかった。別にいいもんね、と制服の下に体操着を着て登校したこともあるが、男子が着替えている教室でいきなりストリップをはじめたので悠士が慌てて連れ出した。蛍斗に向けられる邪な視線が増えた一因はそれだったのかもしれない。今は体育館横の余っている部室を借りて着替えている。トイレも特別棟の男女兼用トイレまで行かなくてはならない。
(女子ってめんどくさい)
男だった頃は相手の上辺だけを見て「ああ、かわいいなぁ」と思ったものだったが、いざ女子の世界を覗いてみると、妙に目ざとく重箱の隅をつつくような感じで、なるほどいじわるな姑というのが実在するわけだ、と納得した。
そんなわけで、女子と仲良くなろうという気持ちはあまり高まらず、かと言って男子とは距離を置きたくなり、結果としていつも悠士のそばにいる。
話は変わるが、悠士はモテる。
百七十半ばの身長はだが均整が取れていて実身長以上に背が高く見える。少々眠たげなところに目を瞑れば、顔立ちもこざっぱりと整っている。当然クラスではトップを争う水準にあり、ちょくちょく女子から呼び出されていた。
過去形だ。蛍斗の変化後は悠士が蛍斗から離れることはないので、呼び出しに応じなくなった。
運動神経や成績はそこそこなのだが、どちらもそこそこというのは意外に優良物件なのだとか。運動神経は良かったが成績が壊滅的だった蛍斗がモテなかったのはそういう理由らしい。それはどうだろう、と言いたげな悠士の視線は黙殺する。
蛍斗の顔は十人中十人が『かわいい』の札を上げるかわいらしさだ。たとえもう一方の手に『かっこいい』の札が握られていてもそちらが上がることはほぼない。小動物的な動作が似合うのだから、それはもう愛玩向きというかなんというか。
男でもそうだったならば女になった今はどうなのか。
首から上はほとんど変わっていない。それでいてどことなく女性らしい感じがあるのは頬の丸みの所為だろうか。よく似た双子、ぐらいの違いだ。女としても十分に通用するらしい。
しかし彼を彼女たらしめるのは、やはり首から下の部分だ。全体的に小さくなって丸みを帯び、胸には十分すぎる膨らみがある。たゆん、とそれが揺れる度、男どもの喉が鳴る。
元々長めの髪は、少し伸ばせば女子のショートカットと大差なかった。
まぁそんなわけで蛍斗がモテなかったのは何も成績が壊滅的だったからだけではないが、あえてそれを本人に告げる人間はいなかった。
ともかく、悠士はモテるのだ。そのくせお堅いらしく、少なくとも蛍斗が知る限り告白されて付き合ったことはない。蛍斗は常々もったいないなぁと思っていたのだが、今は少し気持ちが分かる。
好きだと言われても、自分の気持ちが乗っていなければ相手の気持ちにはうまく応えられないし、お試しで軽く付き合えるほど器用でもない。今の蛍斗にとっては己の貞操に直結しそうな話でもある。蛍斗が男子ならば誰でもいいとは思えないように、悠士も女子ならば誰でもいいとは思わないのだろう。
おかげで蛍斗は遠慮なく悠士を頼る。意外とモテる親友をやっかんだこともあるが、いざ女になって彼を独占するようになると、ちょっとした優越感を覚えた。
以前は放課後悠士の家に寄ることが多かった。学校から近かったし、何より悠士の家は母子家庭で、日中誰も家にいないのだ。弟が一人いるが、当然彼も学生であり、部活動に熱心らしく夜まで帰って来ない。だから蛍斗は気兼ねなく入り浸っていた。
蛍斗が女になってからは悠士の家に一度も来ていなかった。逆に悠士が蛍斗の家まで送ってくれたついでに上がっていくことはあるのだが。
「近所に何言われるか分からないだろ」
探られて痛い腹はなかったとしても、わざわざ他人の噂のネタになりたくはない。
悠士の言い分はもっともで、それでも今日蛍斗が悠士の家に寄ったのは、自宅まで帰るに帰れなかったからだった。
突然の雷雨だった。校門から出たところで狙いすましたかのように降り出した。慌てて傘を取りに戻ったが、その少しの距離でびっしょり濡れてしまったのだ。当然そのまま電車には乗れない。濡れた状態で二十分ほど歩いてなんとか悠士の家までたどり着き、そのまま浴室に放り込まれた。シャワーを浴びて出てきたら、脱衣所には濡れた制服が見当たらず、代わりに悠士のものらしきTシャツとスウェットが置いてあった。下着は手付かずだった。
洗面台の鏡に、ようやく見慣れてきた女の裸身が映っている。
とりわけ存在感を主張する、大きな胸。
変化した直後好奇心に負けて自分で触ってみたが特に高揚感はなかった。感度が低いのかもしれない。その確認も兼ねて一度悠士に触らせてみたかったりする。
蛍斗はブラジャーが苦手だった。かつては下着姿に男心をくすぐられたものだが、いざ自分で身に着けるとなると締め付ける感じがどうにも気になってしまう。
古今東西女性の美しさは努力と忍耐で成り立つそうな。
我慢強さと無縁の蛍斗にはまったく理解できない。家族や悠士から口うるさく言われてもなかなか着ける気になれなかった。この日も当然のように着けていなかったので、蛍斗は直にTシャツを着た。
着替えて、蛍斗は地味に凹んだ。身長差を思えば当然だったが肩が余りまくった。胸回り以外はすべてだぼだぼだった。腰の紐もずいぶんと余ったし、裾はかなり引きずる。大きく二回折り返しながら、男としての自尊心をひっそり慰めた。
バスタオルで髪を拭きながらリビングへ行くと、悠士が制服を乾かしているところだった。
母子家庭だからか、悠士は家事全般をこなす。小腹が減ったら何か作ってくれるし、と思ったところでくぅ、とお腹が鳴った。
「……ちょっと待ってろ」
二人しかいない空間で聞かないふりはできなかったようだ。
制服をハンガーに掛けて、悠士はキッチンへ向かった。その後ろ姿を蛍斗はぼーっと眺めた。
なるほど、悠士がモテるのも道理だなぁと、自然に思う。
こういう面倒見の良さを知らない女子でも悠士に惚れるのだから、知ったら尚のことだろう。
普段の悠士はそれほど面倒見が良くもないが、蛍斗のお目付け役を請け負っている今はとにかく蛍斗をよくフォローしてくれる。
(俺が女だったら惚れるな。あ、いや俺今女か)
他人事のように思ったが全然他人事ではなかった。
もし今悠士が恋人を作ったりしたら蛍斗はどうなる。今は蛍斗のためにあるすべてがそうでなくなったら。
(あー……それはなんか、ちょっといや……かも)
既得権益と言うのだろうか。
今自分が享受している特別扱いを失いたくないのは誰だって同じ、はずだ。
悠士が突然放り出すような性格ではないと知っている。しかし一度胸に巣食った不安はやけに現実味を帯びて蛍斗を襲った。
まるで独占欲のようなそれは、親友に対して抱くにはちょっと危険な代物だった。
幸か不幸か蛍斗はあまり物事を深く考えない性質だった。行き当たりばったりな性格だということは、己の身体が十分に証明してくれている。
そして単純な蛍斗は思ったのだ。
悠士が恋人を作らなければいい。あるいは――蛍斗が恋人代わりになればいい、と。
面倒を見てくれる代わりに触らせてやってもいい、ぐらいのことを言ってしまう蛍斗だ。さすがに最後までする覚悟はまだないが、悠士に対してはほぼノーガードなのでなし崩しという可能性もなくはない。それならそれで構わないとも思う。悠士への信頼度なら家族に負けてはいない蛍斗だ。
蛍斗の頭では他に悠士を繋ぎ止める手段が思い浮かばなかった。
問題は、お堅い奴に女子歴の浅い蛍斗ごときの色仕掛けが通用するかどうか。
こじれるのは困る。
もっと欲しいと欲張って、すでに持っているものまで失ってしまったら何の意味もない。「じゃあ欲張るな」と言われそうだが、欲しいものは欲しい。
チャーハンを二人で平らげ、悠士が食器を洗って戻ってきたら蛍斗がいなかった。
「蛍斗?」
悠士の家はそれほど広くない。呼びながら探せば呆気なく見つかった。というか見当は付いていた。
悠士の部屋、悠士のベッドの上に蛍斗はいた。
「暗くなるし、そろそろ送る」
そう言っても蛍斗は動かない。
「蛍斗。どうした?」
仕方がないのでベッドのそばまで行った。ゆるゆると蛍斗が顔を上げる。まだ外は明るいが、電気も点けない薄暗がりではその表情までは分からない。
「あのさ。泊めて」
「……は?」
蛍斗の手が悠士の手を掴む。そのまま引っ張られて悠士は自分のベッドに倒れ込んだ。
至近距離に蛍斗の顔がある。蛍斗の手が悠士の手を引く。その先にあったのは、やわらかく大きな膨らみ。
「何やってんだ、お前は……」
どういうつもりかと聞くまでもなく、意図するところなど一つしか思いつかない。
悠士の手が固まったまま添え物と化しているのを不思議そうに見つつ、蛍斗が言った。
「いやだってさ、お前モテるじゃん」
「意味が分からん」
「俺もどうしたらいいか分かんないからさぁ、とりあえず――ヤろ?」