01.巨乳女子、思い描く。
年末年始の間はさすがに蛍斗の父親も帰って来ているということで、悠士は蛍斗の家族と食事をした。
悠士が蛍斗の父親や姉たちと会うのははじめてのことだった。
――娘さんを僕にください。
彼氏が彼女の父親に会って結婚の許しを願い求める場合の定番のセリフだ。だが、蛍斗の場合は何と言うのが果たして正解なのだろうか。
――娘さんを僕にください。
そうだ息子は娘になったんだ、と違う意味で父親が泣いてしまいそうだ。
――息子さんを僕にください。
別の意味で父親が泣きそうだ。悠士のメンタルも無事では済まない。
――蛍斗くんを僕にください。
だからそれはだめだ。
――蛍斗さんを僕にください。
蛍斗を"さん"付けするのは無理だ。違和感しかない。
やはり一番目が無難だろうと結論付けた悠士だったが、蛍斗の父親は出会い頭からすでに泣いていた。若干引いてしまったのは仕方がないと思う。
「ごめんなさいね、悠士くん。この人往生際が悪くって」
「蛍斗が、一緒に野球したり虫取りしたり、あんなにやんちゃだった蛍斗が嫁に行くって言うんだ。もう混乱してしまうよ」
そりゃあそうだ。同情する。一番目もだめだった。
「えっと、蛍斗を連れて行くのは謝ります」
忙しい彼が三人目の娘と触れ合う時間はほとんどなかった。申し訳ないと思う。それが分かっていて尚悠士は奪っていく。
できるのは、ただ誠意を示すことだけだ。
「でも大事にします」
頭を下げて、簡潔に伝える。
「蛍斗と結婚させてください」
敬称はあえて略した。
彼にとっては息子であり娘であるだろう。だが、悠士にとって蛍斗は蛍斗でしかない。
「……頭を上げてくれ、悠士くん」
少し寂しそうに、しかし嬉しそうに彼は言った。
「大事にすると言ってくれてありがとう。蛍斗はしあわせ者だね」
当然だ、と言うように蛍斗が胸を張る。
蛍斗の父親は気まずそうに蛍斗――というよりその胸――から目を逸らし、こほんと咳払いした。
「蛍斗をよろしく頼むよ」
「……はい!」
ちなみに蛍斗の姉たちはとてもパワフルだった。
「やだちょっと蛍斗にはもったいないわ、譲ってよ!」
「はぁっ!? ふざけんな!」
「はいはいっ、あたしも立候補したい!」
「てめぇ彼氏いるだろうがっ」
「えっ、そうなのかい?」
「うふふ、悠士くんモテるわねぇ」
「…………」
悠士はなかなか口を挟めなかった。その隙もなければ、参戦の仕方も分からなかった。
ただただ会話の行方を見守ることしかできない。
この賑やかな家族に囲まれて育った蛍斗がぺらぺらよくしゃべるのは道理だった。
学生の冬休みは大人の正月休みよりも長い。
蛍斗の父親が単身赴任先へ旅立った翌日、悠士は蛍斗の部屋にお邪魔していた。
心なしか蛍斗がいつもより露出控えめなのは、寒い時期だからという理由だけでもなさそうだ。
「父さんの目がすっごい泳ぐから」
さすがに蛍斗も気を使ったらしい。
「いい人だな、親父さん」
「悠士のこと気に入ったみたい」
「ならよかった」
「悠士のお義父さんになるんだよ」
「……そうだな」
悠士は蛍斗をぎゅう、と抱きしめた。
「どした?」
「お前は、いろんなものをくれるな」
悠士は父親というものを知らない。
失踪宣告によって死んだことになっているが、実際は生きているのか死んでいるのかも分からない。
どういう経緯でいなくなったのかは知らされていない。母親が言わないということは言いたくないか言えない事情があるのだろうと思い、悠士からも聞いたことはなかった。
ものすごく我慢していたわけではない。母子家庭だから、と自己憐憫に浸ったりもしない。
恋人も、父親も、欲しくなかったわけではないが、手に入らないなら仕方がないと心のどこかで諦めていたものだった。
どちらも、蛍斗が与えてくれた。
「悠士の方が、いっぱいくれてる」
「そうか?」
「そうだよ」
悠士が与えられるものなんて、たかが知れている。
それでも、蛍斗が喜んでくれるなら、ささやかでも与え続けたいと思う。
「父さんと、なんか久しぶりにいろいろ話した」
「そっか」
「でも最後は決まって『お前が最初に嫁に行くのかぁ』だって」
「……」
どう反応するのが正解なのだろうか。
「お姉さんたちにはそういう話ないのか? 彼氏いるんだろ」
「全然そんな気はないみたい。たぶんそっちが今は普通なんだろうね」
身体の関係を持つことが、即お付き合いにならない。
付き合うことが、即結婚には繋がらない。
それが当たり前の倫理観だと言うなら、おかしいのは悠士の方か。
きっと蛍斗が"クマノミ"でなければ、二人ともこんなに早く結婚しなかった。
悠士はお堅いゆえに学生結婚などしなかっただろうし、見事に晩婚になったに違いない。
「お前も、元々はそうだった?」
悠士をお堅い奴だと表現するぐらいだから、蛍斗自身はそこまでお堅くないということなのだろう。
もっとゆるく、もっと気楽に生きろと他の友人たちから言われることもある。
悠士は別に不都合なんて感じていないし、無理もしていない。だが、元々そうではない蛍斗に同じことを求めたら、それは無理をさせることになるのではないかとも思う。
「まぁ、結婚がどうとか、全然考えたことはなかったけど」
悠士に寄りかかりながら、蛍斗は言った。
「でも、悠士とは一生がいい」
肩に感じる重みと、蛍斗の言葉から感じられる重みが、悠士には心地良かった。
女子とお付き合いしてみたかった。
童貞を卒業してみたかった。
だが、結婚したいとは思っていなかった。
高校生でそこまで考えている方が少数派だろう。だから、確かに悠士ほどお堅い奴は珍しくて、蛍斗も悠士をお堅いと評したけれども。
そんな風に愛される女はしあわせだろうな、とは思っていた。
隣の芝生は青いのだ。考えなしの蛍斗には、そんな愛し方は無理だった。
蛍斗には、悠士のように確固として揺らがないものがない。
周りに流されて、女性経験がないのは情けないことだという風潮に負けて、ヤってみたくて妄想して――女になった。自分でも間抜けだと思う。こういうことを本末転倒と言うのだろう。
一度妄想したことがある。
もし女になったのが悠士の方だったらどうなっていただろう、と。
女子力の高さは、蛍斗より悠士の方が高いくらいだ。なにせ家事全般をそつなくこなす。
多少身長が縮んでも百七十はあるだろう。胸はあまり大きくならなさそうだ。それでもきっと魅力的で。
男の蛍斗と並んだら、不釣り合いとまではいかないがあまり恋人らしくは見えないかもしれない。
女になった悠士の隣に自分以外の男が並ぶ図は考えられないけれども、自分が悠士の女性化の引き金になるとは思えない。悠士ほど理性的ではない蛍斗が、女になった悠士相手に紳士でいられるとも思わない。それこそ嫌がる悠士を押し倒して――物理的に可能かどうかは分からないが妄想の話なので細かいことは気にしない――無理矢理関係を結んで「責任を取れ」と言われていたに違いない。そして考えなしの蛍斗は大いに焦っただろう。
やっぱり自分が女になって正解だな、と蛍斗は思った。いや女になりたかったわけではないが、たぶんこちらの方がいろいろとしっくり来る気がする。
かつて思った通り、悠士に愛される自分はしあわせだった。
しかも、自分には無理だと思っていた同じ愛し方で、悠士を愛することができる。悠士が手本を見せてくれるからだ。
与えられる愛に愛を返すだけ。
考えなしの蛍斗でもできることだ。
――悠士の方が、いっぱいくれてる。
蛍斗にとっては奇跡みたいなこと。
悠士がいれば、何の疑いもなくしあわせになれる。
悠士に全部乗っかって、重いんじゃないかなと思うこともあるが、それを悠士は「くれる」と言って、まるで与えてもらったかのように喜んでくれる。
蛍斗は父親と交わした会話を思い出した。
『蛍斗。お前は、女になってよかったか?』
『え?』
『結婚に反対なわけじゃない。だが、悠士くんと結婚するということは、女性として生きていくということだ』
生物学的に女であるだけでなく、社会的に女として扱われる。
いつまでも、元男だからとは言っていられなくなる。
悠士と結婚するということは、悠士の妻になるということは、そういうことだ。
『悠士くんはお前をしあわせにしてくれるだろう。お前は、悠士くんをしあわせにできるか?』
すぐには答えられなかった。
実際蛍斗はそこまで考えていなかった。自分がしあわせになるために悠士が必要だということははっきりしていたが、悠士をしあわせにするという発想はなかった。もちろん不幸であれとは思わないが、自分のことしか考えていなかった。
『これは、お前がいつか恋人を紹介してくれる時に言いたかったことなんだがね』
男親と女親の違いというのだろうか。
女性の社会進出が進んでも、男が社会を動かしてきた歴史がある。
主体はいつも男だ。
男はする、女はされる。
男は愛し、女は愛される。
男は女をしあわせにし、女は男にしあわせにしてもらう。
良し悪しではなく、そういう成り立ちになっている。もちろん個々の関係性で違ってくるものではあるが。
蛍斗の母親はただ子どもがしあわせになることを願った。蛍斗のしあわせに悠士が不可欠だということを理解し、利用することも厭わないほどに。それは彼女がしあわせにしてもらう側だったからだろうし、蛍斗の変化に柔軟に適応できたからだろう。
蛍斗の父親はしあわせにする側で、蛍斗の変化をまだ十分に受け入れられていなかった。身体こそ女になったものの、その精神がかつての息子のままだったから、あえてしあわせにする側の理論をぶつけたのだ。
『……分かんないけど、二人でしあわせになるよ』
大好き、と言ってくれた悠士を信じる。
悠士の都合なんて考えないではじめてしまった蛍斗だけれども、いろいろ文句を言ったり呆れたりしながら、それでも悠士は蛍斗の隣にいてくれる。
悠士は蛍斗のもので、蛍斗は悠士のものだ。
だからきっと、蛍斗のしあわせは悠士のしあわせにも繋がるはずだ。
悠士が隣にいればしあわせになれる蛍斗ほどお手軽ではないかもしれないが。
『そうか……しあわせになりなさい。いつかお前が、心から「女になってよかった」と言える日が来ることを願っているよ』
蛍斗の父親は息子の喪失を残念がりながら、それでも蛍斗のしあわせを願ってくれた。
『まさかお前が最初に嫁に行くなんてなぁ』
父親はよく泣いた。あんまり泣くので母親が「いい加減にしてちょうだい」と怒っていた。
男としての蛍斗は、家族に愛されてしあわせだった。
女としての蛍斗は、悠士に愛されてしあわせになる。
そしていつか、子どもを愛してしあわせを繋いでいく。
男だった十六年がなくなってしまうわけではない。家族の思い出の中で、悠士の思い出の中で男の蛍斗は笑っている。みんな、覚えていてくれる。
また十六年くらいかけて「女になってよかった」と言えれば上々ではないだろうか。
今だって、悪くないと思っている。
蛍斗が寄りかかってもびくともしない、頼りになる恋人がいるのだから。
「悠士ぃ」
「ん?」
「……今日泊まる?」
「あー……いいのか?」
「母さんも向こう行ってるし、別にいいよって言ってた」
蛍斗の母親は父親の単身赴任先へ付いていった。
たまに行って片付けないと悲惨なことになるらしい。
「……じゃあ、泊まらせてもらう」
「ごはん作って」
「お前……それが目的か」
「違うよ。でも作って」
「はいはい……冷蔵庫の食材使っていいのか?」
「どうかな。買い物行く?」
「何が食いたい」
「お寿司」
「お前は俺に何を求めてるんだ。握れとか言うなよ」
「すき焼き」
「軍資金は」
「ない」
くだらない会話をしながら、玄関へ向かう悠士の後をぱたぱたと付いていく。
「ん? お前も来るの?」
「行くよ?」
「だったら外で食べるか」
「作って」
「……」
「悠士のごはんが食べたい」
「……寒いからちゃんと着込め」
ものすごくいろいろ言いたそうにしながらも、結局悠士が口にするのは蛍斗にとって甘い言葉。
くだらない、小さなしあわせ。
そのうち一緒に住むことになるが、まだ半年は先の話だ。
二人っきりでゆっくりできる機会はそうそうない。
蛍斗の家では母親がいて二人っきりになれない。いちいち干渉してくることはないからゆっくりはできるが、悠士が気兼ねしてしまう。
悠士の家では二人っきりになれるが、悠士の家族が帰って来るまでの数時間が限度だ。
一緒に家を出て、同じ家に帰り、人の目を気にせずくつろげる。
そんな小さなしあわせを積み重ねたらすごくしあわせになれる気がした。「好き」が積み重なって「大好き」になったように。




