04.彼女は彼氏に守られたい。
悠士専用お泊りセットなるものが常備されてはいたが、悠士が蛍斗の家に泊まるのははじめてだった。
蛍斗の心細げな様子に、帰るに帰れなかった。
蛍斗にとっての母親は、身体こそ同性だが、精神上は今でも異性の親だ。
十七歳の男子高校生が同級生に襲われそうになり、それを母親から労られる――なるほど、きつい。
蛍斗の母親からかけられた「ありがとう」の意味を悠士は悟った。
学校から連絡を受けた彼女は娘の身体を心配したに違いない。同時に息子の心も心配したのだ。しかしその心配こそが蛍斗を追い詰めることにもなりかねないと気づいていた。だから「ありがとう」だったのだ。彼女ではケアしきれない部分を、悠士が担えると分かったから。
蛍斗を襲った三人は一週間の停学処分となった。蛍斗自身の自衛意識の欠如と、学校側の責任も加味された措置だった。
退学沙汰になって逆恨みされても困る。蛍斗も悠士も特に異議は申し立てなかった。
蛍斗は女子更衣室と女子トイレの使用許可をもらった。そもそも一人きりで隔離されていたことからして問題があり、それは学校側の責任だった。
蛍斗もちゃんと下着を着けるようになった。起きて良かった事態だとは絶対に思わないが、結果的には荒療治と言えなくもなかった。
三人の停学と蛍斗を結びつけて考える者もおらず、事態は一応の収束を見た。
体育祭が近づくにつれ、クラスの熱気は高まっていく。こういうイベントで燃えるのは何も蛍斗や担任だけではなかったらしい。
あいにく悠士はイベントであってもあまり燃えない。それでも学校行事には真面目に参加する。クラスに一人ぐらいは冷静な奴がいたっていいだろう。
悠士はイベントが嫌いなわけではない。普段は特に仲良くもない面子が一丸となって一つのことを成し遂げようとするのは、見ているだけでも楽しめる。
お祭り好きの蛍斗は今やクラスの中心になって動いていた。一年の時もそうだった。
おかげで、変化以降微妙だった蛍斗とクラスの間の距離は感じられなくなっていた。
(そろそろお目付け役は卒業か?)
積極的に女子とも交流するようになった蛍斗を視界の端に捉えながら、悠士はそんなことを考えた。
多少気温が落ち着き、それでもまだ強い日差しの下で体育祭は開催された。
蛍斗は走る競技にほぼ出ずっぱりでことごとく一位を掻っ攫い、自軍の得点に大いに貢献していた。蛍斗が走るとやたら野太い歓声が上がる。去年は確か黄色い歓声だったはずなのだが。
蛍斗にとっては年に一度のモテ期だった。例年待ち遠しかったそれが今年は少し憂鬱だ。だって蛍斗に告白してくるのはあの野太い声の持ち主なのだ。嬉しくないし楽しくない。
それでもイベントが好きで、運動も好きで、だったら燃えないわけにはいかない体育祭。
一旦憂鬱なことは頭から追い出して、蛍斗は疾走する。
ブラジャーはやっぱり苦しいけれども、大きな胸が安定したおかげでタイムはさらに伸びた。陸上部の女子たちから「非常識だ」と言われたし、自分でもちょっとしたチートだなとは思うが。
「相変わらずでたらめな速さだな」
「悠士」
「次、行くぞ」
「おー」
次は二人三脚だ。
女子代表に蛍斗が選ばれた瞬間色めき立ったクラスの男子たちだったが、「あ、俺悠士とじゃないとやんないから」と蛍斗が言ったものだから一転お通夜のような空気になった。あわよくば、と思っていたことがよく分かる。あんなことがあって、今の蛍斗の警戒レベルは最大に引き上げられている。男からの接触はおろか接近も許さない。
「飛ばすなよ、転ぶから」
「平気だろ。今はお前の方が速いじゃん」
「歩幅が違うの忘れんな」
それでも、と蛍斗は思う。
(なめんな、親友)
息の合わせ方なら誰にも負けない自負がある。身体を触れ合わせることへの抵抗もない。
(負ける要素が見つかんねーよ!)
当然のように蛍斗と悠士は他を寄せ付けず完勝した。
最終競技のリレーも、第一走者の蛍斗が付けたリードを守って勝利をもぎ取り、その結果二人のクラスが属する組が総合優勝を飾った。蛍斗様様である。
一躍体育祭のヒーローならぬヒロインとなった蛍斗には、そこから連日のお呼び出しが待ち受けていた。
「ほらあれが噂の」
「おぉ、眼福眼福」
「マジであれ元男なわけ?」
「ほら去年の体育祭で活躍したちっこい奴がいたろ」
「あー、あいつなんだ」
「"クマノミ"すげぇ!」
休み時間になると、廊下に人だかりができる。
女になった直後も似たようなものだったが、もう少し見物人は少なかったように思う。
今回は全校生徒の前で華々しく活躍し、男の目を釘付けにし、あれはいったい誰かと調べてみたら"クマノミ"だったという、それはもう他人の好奇心をこれでもかとかき立てる状況が整っていた。
明らかに蛍斗の顔なんて認識していないのではないかと思われる呼び出しも多く、蛍斗は「せめて目線を上げやがれ」と心の中で何度も毒づく羽目になった。
「あれどうにかして」
「無茶言うな」
半眼になっている蛍斗を多少気の毒そうに見ながら、しかし悠士の返事は素っ気ない。あれだけ目立っておいて何を今更、とその顔が物語っている。
「有賀ちゃん、お呼び出し」
廊下側の席の女子がお使いに来てくれた。いい迷惑だろうに、毎度こうして伝えてくれる。
「ぅえー……」
「モテモテだねぇ」
「嬉しくねーよ」
昼休みや放課後ならまだしも、授業の合間の貴重な休憩まで潰されたくない。それでも律儀に伝言してくれた彼女のために、蛍斗は重い腰を上げた。
教室の入り口で待ち構えていた男の前まですたすたと歩いていき、愛想の「あ」の字もない顔と声で応対する。
「用件は」
「え、あ、ちょっとここじゃ」
「時間ないから早くして」
「じゃ、じゃあ放課後、時間いいかな」
「よくない」
「え」
「知らない人に付いてっちゃだめって言われてるから」
ぽかんとする男をその場に残して蛍斗は踵を返した。そのまま自分の座席へ戻る。
「容赦ないなぁ」
まだ蛍斗の席の近くにいた伝言の彼女が、くすくす笑っている。
「変に遠慮すると全然引き下がらねぇんだもん、あいつら」
蛍斗だって最初のうちはちゃんと話を聞いた上で断っていた。
しかし、警戒レベル最大の蛍斗が男と二人きりで話したがるはずもない。当然のように悠士を連れて呼び出しに応じていたら、相手が怒ったり悠士を悪く言ったり「俺に乗り換えない?」なんて言ったりするものだから真面目に話を聞く気が失せた。早い話がキレた。「寝言は寝て言え、アホンダラ」と。
「ちょっとは話聞いてみてあげようとか思わない?」
「思わんね。人のいるところでできない話なんて聞きたくありませーん」
「去年は喜び勇んで出かけてたのに」
彼女も一年時からのクラスメイトである。
そこでぼそっと悠士が口を挟んだ。
「結局誰とも付き合わなかったがな」
「えぇ、どうして? もったいない」
「……心の恋人に申し訳なくて」
ちょうど『えりにゃん』のファンになった頃だったのだ。告白してくれる女の子たちはかわいかったが、どうしても心の恋人と比べてしまって応えられなかった。なんてもったいないことをしたのかと、後から盛大に悔やむことになったわけだが。
「ああ、有賀くん好きだったもんね。今でも心の恋人?」
「あー……好きは好きだよ。CDは買ってる」
さすがに雑誌を買い漁ることはなくなったが。
「そっかぁ。じゃあ今度一緒にカラオケで歌おうよ。近々クラスの女子で行こうって言っててね、人数多い方が盛り上がるから」
チャイムが鳴り、彼女が自分の席へ戻ったので会話はそこで途切れた。
今の蛍斗とクラスメイトが交わす、ごく普通の会話だ。
彼女たちの中では、蛍斗は『有賀ちゃん』でもあり『有賀くん』でもある。腫れ物に触るように恐る恐るだったことを思えば、『有賀くん』の思い出話ができるようになったのはずいぶんな進歩だと思う。
「カラオケかぁ、しばらく行ってないな」
「いいんじゃないか?」
「え……?」
蛍斗の何の気なしの発言を、悠士はしっかりと聞き取っていた。
ちなみに悠士は蛍斗の前後左右の座席を優先的に割り当てられており、今は蛍斗の真後ろに座っている。
「行ってくれば」
「え、でも」
女になってからというもの、蛍斗は家族や悠士以外と出かけていない。そもそも蛍斗は女子と出かけたことがない。
戸惑う蛍斗の口が無意識に救援を求めた。
「ゆ、悠士も行く?」
「は? 行かねーよ。女子だけなんだろ?」
「そうだけど」
そこで悠士が顎をしゃくった。
次の教科を担当する教師が教室に到着したらしい。慌てて前を向きながら、蛍斗の頭の中はそれどころではなかった。
「最初から二学期には普通に登校する予定だったろ? いい機会だからお目付け役は卒業ってことで」
「卒業……?」
放課後、悠士は蛍斗から説明を求められて逆に困った。
大した意図などない。ただ、クラスに打ち解け、女子とも普通に会話ができるようになったのなら、流れで一緒に遊びに行ってこいと送り出すのはそれほどおかしなことだろうか。
それなのに、蛍斗はなぜかこの世の終わりとでも言わんばかりの悲愴な顔をした。
「俺、邪魔?」
「……は?」
蛍斗の発言の意味を理解するのに、すごく時間がかかった。
「お、俺のこと、いらなくなった?」
「なんでそうなるんだよ。お前、ちょっとその逞しすぎる妄想力なんとかしろ」
「だ、だって」
「いきなり別れ話に飛躍するな」
「だけど」
「いつまでも俺だけにくっついて回るのもどうかと思うし、女子と仲良くなれるんならそうしろって話」
「……やっぱり、俺、邪魔?」
「だーかーらーっ、違うっつーの。元々お前友だち多い方じゃないか。人懐こいし」
本来の蛍斗は人と関わることが好きなのだろう。そうでければお祭り好きにはならないはずだ。
だが、変化後の蛍斗はずっと悠士にくっついており、クラスに馴染んできた今でさえ悠士のそばを離れない。それに先日の一件が拍車をかけた。
周りの見る目が違うのだからある意味仕方のないことかもしれないが、それをよしとして、それに甘えて、悠士が腕の中に蛍斗を囲い込み続けるのは何か違うのではないかと思う。もちろんそれはそれで安心ではあるのだが。
「ちゃんと戻ってくるだろ?」
たとえ手を離しても、そのまま悠士を忘れて飛んでいったりはしない。
その程度には、悠士も蛍斗を信頼している。
がんじがらめに閉じ込めたままでは、信頼も何もない。
「そりゃ戻る、けど」
蛍斗はやはり納得いかないという顔をしていた。
新年度、新入生がざわつく教室で、悠士の前の席に座った小柄な少年は気さくに話しかけてきた。
『俺、蛍斗。有賀 蛍斗っての。えっと、今井――』
『悠士』
『悠士、ね。よろしく!』
にかっと人好きのする笑みを浮かべて。
悠士と蛍斗が出会って、最初に言葉を交わした時のことだ。
蛍斗が人懐こい性格でなければ、親しくなっていなかったかもしれない。
たまたま高校が一緒で、クラスが一緒で、名簿順が前後で。
話しかけてくる蛍斗に相槌を打ち、ツッコミを入れ、フォローしているうちに仲良くなっていった。
蛍斗が何かやらかすと「ちゃんと手綱持っとけよ、悠士」と言われるようになり、それが高じて蛍斗が学校を休むと悠士が理由を尋ねられるという図式が出来上がった。
だから、と悠士は思う。悠士が持つのはあくまで手綱であり、蛍斗の自由を制限することはあっても、完全に奪うものであってはならないと。
「有賀ちゃんまつ毛長ーっ!」
「肌もすべすべ」
「これで男だったとかほんとムカつくー」
「しかもこの胸だよ!? ちょっともうやってらんないわ」
「女の敵ぃ」
「男の敵ぃ」
「俺の味方どこだよ! 孤立無援とかひどくね!?」
今日も今日とて教室では楽しげに女子たちが囀っている。その中央では蛍斗が頭を、頬を、胸を触られまくっていた。意外に女もセクハラしたいものなのかもしれない。
「悠士、助けろ!」
悠士は助けなかった。
女の群れに突入するのは、ある意味男の群れに挑むよりも恐ろしいことなのだ。




